べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「黄檗山萬福寺」(補)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第1編都名所図会

 

↑『都名所図会』から引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

299コマです。

 

黄檗萬福寺 は五箇庄の南にあり。開山隠元和尚は大明福州福清の人にして、姓は林氏、諱は隆琦、字名は隠元なり。本朝承応三年に東渡し、萬治二年公命によつて、山城国宇治郡大和田の勝地を賜り、寛文元年九月より伽藍を草創し、精舎の経営多くは異風を模し、名けて黄檗といふ。同十三年四月二日、御水尾上皇より大光普照国師の號を賜ふ。」

 

ありゃ、こんだけか、と思われますが、この後には聯や書がいくつも模写されて掲載されています。

聯というのは、

 

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kotobank.jp

 

「中国で,2句でひと組の表現を一種の装飾として屋内や屋外に掲げたもの。たとえば塀・門柱・戸口・家屋の内壁や外壁などに書きつけ,または木札・紙片に書いて掛けたり貼ったりする。〈爆竹一声除旧歳 桃符万戸換新春(爆竹一声 旧歳を除き 桃符万戸 新春に換わる)〉のように,両句は必ず同字数で,5字句・7字句を主とするが,4字句の場合もしばしばあり,字数の多いものは百数十字に達する。また両句は全体的にも部分的にも,意味上,語法上,同一構造であることを要し,爆竹と桃符(2字の名詞),一声と万戸(数字を含む2字の名詞),除と換(動詞),旧歳と新春(2字の名詞)というように,それぞれ対になる。」

 

というものです。

 「萬福寺」の柱にたくさんかかっているのです。

ま、これだけではなんともなので、

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第2編都名所図会

 

↑『都名所図会拾遺』より、300コマです。

 

黄檗萬福寺
五箇庄の南三町計、大和田にあり。黄檗山創建の後は、地名を黄檗といふ。萬福寺の由縁前編に記す。ここに其脱漏を拾うて補遺を加ふ。
天王殿 山門の東上壇の地、西面にあり。
布袋像 堂内中央西面に安置す。金色にして、坐像、三尺計。弥勒仏と称す。
韋駄天像 後堂東面に安置す。全身金色にして、立像、四尺計。
四天王像 同殿左右に安す。各全身金色にして、立像、九尺計、左の東多聞天・西広目天、右の東持国天・東増長天
大雄寶殿 天王殿の東、西面にあり。
本尊釈迦仏 堂内に安置す。坐像。五尺計。
脇士 左迦葉・右阿難、共に金色にして、立像、五尺計。
十六羅漢 左右の壇に安置す。全身金色にして、坐像、二尺計。
法堂 寶殿の後、西面にあり。
威徳殿 法堂の後山西面に建つ。前に石段有り。帝王・将軍家の牌を安置す。
祖師堂 北の方南面に有り。
達磨大師像 全身金色にして、坐像、三尺計。
費隠禅師牌 堂内に安す。
選仏場 祖師堂の東、南面にあり。
本尊観音 坐像、三尺計。
脇士 左善財童子・右八歳龍女、共に立像、三尺計。此所坐禅堂なり。仏壇の左右に坐禅の床あり。
伽藍堂 南の方、北向にあり。
伽藍神像 倚子に憑り、長三尺餘。衣服漢土の體、右手に半月を握る。面身金色に一目。
禅悦堂 右堂の東、北向に有り。
金奈良像 中央の壇上に安置す。立像、三尺計。面色金色なり。此所食堂。
牌堂 選仏場の東、南面に有り。
本尊地蔵 坐像、一尺六寸計。全身金色なり。同壇左右に檀信の牌を安す。
浴室 食堂の後、北向にあり。高泉和尚の代建つる。
開山堂 山門の内、北の山下にあり。
隠元像 倚子に憑る。紫衣長四尺計。払子を持し、厨子に安す。額『那伽堂』、隠元和尚の筆なり。
(略)
壽蔵 門内の南面にあり。壽蔵の文字、紺青を以て南面窓戸に書す。窓丸し。隠元の筆なり。
隠元像 堂形六角にして、其内に安す。又堂の下は裁石をもつて囲み、口は南向にして、内に隠元の遺身を安す。口に青石の戸あり。戸の銘に曰く、『開山隠元老和尚之塔。』紺青を以て書す。隠元の二字は朱字なり。
隠元碑 壽蔵の下壇の地、東方にあり。碑石和泉石、高さ一丈計。台石亀形白川石。序文は繁きによつてここに略しぬ。(略)
舎利殿 開山堂の後山にあり。額『舎利殿』と書す。隠元の筆。
(略)
舎利塔 滅金を以て作る。高さ三尺餘。
(略)
蔵経印板庫 仏殿の巽、山上二町計にあり。一切経及び諸論釈の印板を蔵む。蔵経彫刻の本願は鉄眼和尚なり。寺は摂州難波にあり。」

 

……そうか、境内の写真をあまり撮影していませんでしたね。

「鉄眼和尚」は、東京の「天恩山五百羅漢寺」の開山祖師とされている、「鉄眼道光」のことです。

 

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五百羅漢寺 - べにーのGinger Booker Club

補遺・「五百羅漢寺」 - べにーのGinger Booker Club

補遺補遺・「五百羅漢堂」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑の記事でも少し触れました。

 

甦える羅漢たち―東京の五百羅漢 (1981年)

甦える羅漢たち―東京の五百羅漢 (1981年)

 

 

↑こちらの本も、さらっと「黄檗宗」の歴史に触れるにはいい本です。

あ、「黄檗宗」と今はいいますが、禅宗としては臨済宗です。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 宇治郡名勝誌

 

↑の131コマより(※改行、スペースはブログ筆者による部分あり)。

 

萬福寺
黄檗萬福寺は大字五箇庄に在り黄檗宗大本山にして本尊は釈迦仏 坐像五尺計 脇士は迦葉阿難左右の壇に十六羅漢を安置す

案ずるに承応三年七月支那明朝福省縣福州黄檗萬福寺の僧隠元隆琦 肥前長崎興福寺の僧逸然の懇請に応して渡来し 長崎の興福寺崇福寺及び福済寺等に於て開堂演法す

尋て摂州富田普門寺の僧龍渓の招きに応して同寺に臻る

萬治元年隠元江戸に赴き将軍徳川家綱に謁す

同二年幕命に依り宇治郡大和田の勝地を賜ひ 草莽を開き土木を起し 寛文年間全く竣工す

徳川家綱深く隠元に帰依し 特に黄金二万両及ひ雲南木を寄附して建造の資を助く

伽藍の結構総て明代の遺制に模し 黄檗萬福寺と号し隠元禅師を開祖とし 大に済北の宗風を振ふ

其建物は本堂、禅堂、齋堂、威徳殿、東方丈、西方丈、甘露堂、天王殿。祠堂、祖師堂、伽藍堂、鐘楼、鼓楼、聯燈堂、山門、通天、穴門、物門、庫裏、知客寮、宝蔵等全備し 宏壮輪奐丹碧相映し風致秀抜にして京南第一の名刹たり

古人の俳句に(山門を出れは日本の茶摘歌)と云へるか如き 以て其風致の一斑を知るに足れり

当寺は皇室の御崇敬殊に深く 御水尾法皇隠元を召し法要を下訊し給ふ

隠元の奉答能く旨に契ひ叡感料ならす御物を賜ふ枚挙に遑あらす

今其一二を挙れは 寛文五年十月御香金帛を賜ひ 同六年仏舎利及ひ之を蔵する黄金の宝塔を賜ふ 尋て金幣を下して舎利殿を建立せしむ 同十三年二月錦織観音像及ひ沈香木を賜ふ 同年隠元に大光普照国師の号を賜ひ 且隠元寂後五十回忌毎に勅諡号を賜ふもの三回 故に開祖を四朝国師とも称す

又二代木菴に明治十五年慧明国師の勅諡号を賜ふ

又五代高泉に霊元帝より 大圓廣惠国師及ひ佛智常照国師の二諡号を賜ふ

徳川家綱より朱印地四百石を喜捨し 僧粮の資に充て永く祝國道場となす

初代隠元より廿二代まては 十四代を除くの外は皆支那黄檗山より渡来帰化して住持となる

開祖以来高僧多く 宗風昔時は最も隆盛にして 塔頭子院寺域の内外に渉り三十三坊の多きに及ひしか 明治維新の後は寺領を奉還し昔日の如くならされる(略)寺門は時に隆替ありと雖も堂宇伽藍の如きは依然旧観を保持し近年は大ひに修繕を加へたり(略)」

 

「山門を出れは日本の茶摘歌 」……これは「山門を出れば日本ぞ茶摘み唄」かもしれません。

明風の「萬福寺」を出れば、そこは日本、銘茶で名高い宇治だった、ということですね。

萬福寺」初代住持の「隠元禅師」は、黄檗の宗風以外にもいろいろなものを大陸から持ち込んだ、といわれています。

お名前からわかるように、アレとか……。

隠元禅師」が招来されたのは、日本の仏教界が停滞していた(江戸幕府の統治システムの中に組み込まれたことで、本来の仏道はないがしろにされていた)ことからなのですが、それをしでかした張本人の徳川将軍家が、新しくやってきた宗風に感じ入るところ大だった、というのが皮肉というかマッチポンプというか。

なかなか面白い現象ではあります(為政者というのは、宗教に手を焼くものですからね)。

 

いろいろと、次に「萬福寺」を訪れるときの楽しみを取っておきたいので、引用もこの辺りでおしまいです〜。