べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「富岡八幡宮」「深川不動」(東京都江東区)〜関東巡り〜

8/23。

昨夜は、学生時代の友人たちと会合。

結構飲んだのか……そうでもないのか……記憶はあやふやですが。

しゃっきりせずに起き出して、本日のよんどころない要件まで間がありますので、富岡八幡宮に出かけることに。

 

○こちら===>>>

www.tomiokahachimangu.or.jp

 

門前仲町駅で降りまして、ふらふらしていたら、

 

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西側の鳥居に出てしまいました。

えらく人がいる。

 

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正面の鳥居に回ってみました。

どうやら骨董市のようです。

 

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伊能忠敬銅像。

この辺りにお住まいだったそうです。

 

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参道……賑やかなりし。

 

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大関力士碑。

公式HPによりますと、

 

「当宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまりますが、 トラブルが多くしばしば禁令が出ていました。その後禁令が緩み、貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許されます。その地こそが当宮の境内だったのです。以降約100年間にわたって本場所が境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されました。そののち本場所は、本所回向院に移っていきますが、その基礎は当宮において築かれ、現在の大相撲へと繋がっていくことになります。詳細は小島貞二著『江戸勧進相撲と富岡八幡宮』 (富岡八幡宮社務所)の一読をお薦めします。」

 

とのことで、相撲と縁深いとのこと。

相撲自体は、『日本書紀』にも登場するくらいですので、古くからあったものと思われますが、我々に馴染みのある相撲というのは江戸期に始まったものと考えていいでしょう。

女相撲とかもあったようです。

 

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神輿庫。

 

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本殿手前の階段。

 

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銅造水盤。

 

「この水盤は、享和三年(1803)五月に、「天下太平國土安穏」を祈願して奉納されました。石製の水盤を鍛造の青銅板で包み、見事な雲の造形がなされた鋳造の脚を付けた構造となっています。作者は神田(千代田区)に住む鋳物師の太田正義です。代々太田駿河守藤原正義(正儀、政儀とも)を名乗り、霊巌寺などにある江戸六地蔵の鋳造も太田家が行っています。(略)」

 

脚の部分が囲われてしまって見えません。

 

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狛犬さん。

シンプル。

 

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本殿。

これは……何造といったものでしょう。

正面に破風があって、というのは権現造っぽいですが、それにしては二階部分が。

あの二階部分はなんなんでしょうか。

平等院のような、飾りだけの二階部分、ということでしょうか。

うーむ。

 

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本殿から、参道を振り返る。

神社で骨董市、なんとも下町風情で素敵かと。

 

さて、本殿向かって右手奥に進んでいくと、

 

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横綱力士碑

(略)

初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれたこの碑は、第十二代横綱陣幕久五郎が発起人となり各界の協賛を得て奉納されたものです。

(略)」

 

これぞ日本的、と海外の方に思っていただけそうなスポットです。

そのまま奥に進みますと、

 

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「永昌五社稲荷神社」。

公式HPによれば、

 

「五穀豊饒・商売繁盛の神様として、特に地元の肥料商関係者から絶大な信仰を集めています。近隣の稲荷社五社が合祀された神社です。」

 

とのこと。

その並びに、

 

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車折社、合祀客神社」、「野見宿禰社」、「住吉神社」、「聖徳太子社」、「天満天神社」、「祖霊社、合祀花本社」。

車折社」は、

 

「平安後期の儒学者清原頼業命を祀る。後嵯峨天皇の牛車が門の前で動かなくなった故事に基づいて車折大明神と称されています。」

 

だそうです。

 

○こちら===>>>

車折神社 - Wikipedia

 

↑京都にある「車折神社」の本社の境内には、「芸能神社」として「天宇受売命」が祀られており、どうやらそこから「客神社」(宇受売命)が合祀されているのではないかと思います。

相撲に縁がある神社らしく、「野見宿禰社」。

「花本社」というのは、

 

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松尾芭蕉を祀っているようです。

 

「祖霊社に合祀されています。芭蕉は深川に仮住居を設け、生涯でもっとも長い住まいであった縁から当境内に祀られています。」

 

とのこと。

なんでしょう……江戸文化勢揃い、という風情がありますね(歌舞伎があれば……)。

 

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その東側にある「七渡弁天社」。

 

「七渡神社

祭神 市杵島姫命

(略)

合祀 粟島神社

祭神 少彦名命

七渡神社は八幡宮創建以前よりお祀りされ八幡様の地主神として「七渡弁天さま」と尊ばれてまいりました。あわせてお祀りされる粟島神社は女性の守り神とされ二月八日には献針祭(針供養)が行なわれます。」

 

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池があって、島になっているので、弁天さまですね。

 

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

↑によれば、

 

「【淡島大明神/淡島様】

(略)住吉大明神(略)の妃神である淡島大明神(淡島様)が、帯下の病、すなわち婦人病に罹って住吉大明神にうとまれて淡島へ流されたことに由来して婦人病の神とされ、特に花街の女性の信仰を集めていた。また、その淡島で雛人形を作ったのが、日本の雛の起源であるといわれ、淡島様はお雛様の祖神ともなっている。

しかし、何と言っても婦人病で離縁された神であるということから、婦人病の神として信仰が厚く、江戸中期頃から大変に流行した。(略)」

 

とあります。

一種の流行り神、ですね。

祭神が「少彦名命」となっているのは、『日本書紀』一書に、「少彦名命」が、国づくりを終えた後、淡嶋から常世へ渡った、という記述があるからだと思います。

婦人病の神様が「少彦名命」であってもおかしくはないのですが(何しろ、「少彦名命」は薬の祖神とされていますから)、自分たちと同じ境遇の女神様の方が御利益がありそうだ、と考えるのは当たり前の話で。

もともと「淡島様」だったのが、明治の神仏分離辺りで書き換えられたのではないかと思います。

それを「弁天様」と一緒に島にお祀りするところなんかは、よくわかっている、と感じます。

 

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見事な「三猿」、庚申塚。

 

さてさて、本殿の西側にも末社がありまして、

 

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大鳥神社」、「鹿島神社」。

 

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「恵比須宮」「大黒宮」。

 

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金刀比羅神社」「富士浅間神社」。

 

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その西側にあったのは、多分「富士塚」と、富士講の碑だと思います。

 

「以前は境内に富士山があり、江戸で山開きと言えば八幡様というほど人気がありました。現在富士山の山開きにあたる7月1日には江戸時代以来続く疫病除けの大蛇守りが授与されて、多くの参拝者が求められます。」

 

なんてことが公式HPに書かれています。

境内に富士山が……。

 

さて、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第2輯第6編 江戸名所図会 第4巻

 

↑より引用(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

108コマです。

 

富岡八幡宮
深川永代島にあり。別当真言宗にして、大榮山金剛神院永代寺と号す。[江戸名所記]に寛永五年の夏、弘法大師の霊示あるにより、高野山の両門主碩学、其外東国一派の衲僧、此永代島に集会し、一夏九旬の間法談あり。別に弘法大師の御影堂を建てて、真言三密の秘■を講ず。それより以後神前に龍燈のあがる事ありと云々。
本社 祭神 応神天皇、神影は菅神作。相殿 右 天照大神宮・左 八幡大明神三座
相伝ふ、往古源三位頼政、当社八幡宮の神像を尊信す。其後千葉家及び足利将軍尊氏公、鎌倉の公方基氏、又管領上杉等の家々に伝へ、太田道灌崇敬殊に厚かりしが、道灌没するの後は、神像の所在も定ならざりしに、寛永年間長盛法印、霊示によりて感得す。 今当社は十二町ばかり東の方、砂村の海浜に、元八幡宮と称する宮居あり。当社の旧知といふ。 依て此地に当社を創建すといへども、いまだ華構の餝におよばず。唯茅茨の営をなすのみ。然るに大和国生駒山の開基宝山師、正保三年丙戌、永代寺周光阿闍梨の法弟となり。寛文四年の頃、霊夢を感じ宮社を経営す。日あらずして落成し、結構備る。しかありしより以降、神光日々新にして、河東一の宮居となれり。当社の額に『八幡宮』と書したるは、青蓮院宮尊證法親王の真蹟なり。社内末社多し。依て悉く是を略す。
当社四隅鎮守 艮隅 蛭子宮 宮川町の川端にあり。 巽隅 荒神宮、入船町の道の傍にあり。 坤隅 摩利支天宮、永代寺門前仲町の南にあり。 乾隅 大勝金剛宮、同所墨江町にあり。
園女桜 永代寺林泉のうちにあり。正徳年間園女といひて、俳諧を好める婦女これを植ゑたといへり。歌仙桜とも名く。今は枯れてわづかに存せり。その頃三十六株ありしゆゑに、歌仙とは名けたりしとなり。
(略)」

 

109コマからは図絵もあります。

富士山は見えませんが……代わりに、江戸の「三十三間堂」が描かれています。

見開きで6ページの図絵は、かなり破格の扱いですので、いかに江戸時代に賑わっていたのかを示しているものと思われます。

公式HPによる御由緒は、

 

富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。

 江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。」

 

というもので、比較的新しいことがわかります。

その割に『江戸名所図会』では思い切り、「源三位頼政」が登場していますが(どうやら、若い頃に父について下総國に下ったことがあるようで、そこから千葉氏→足利氏→鎌倉公方……という流れになっているのではないかと)。

発起からして仏僧により、霊示を下したのは弘法大師、と神仏混淆を象徴するような御由緒ですね。

 

 

続けて、「富岡八幡宮」のすぐ西側にある、「深川不動堂」へ。

 

○こちら===>>>

www.fukagawafudou.gr.jp

 

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旧本堂。

 

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↑これ、よく見ると梵字なんですね。

ちなみに、この建物が現在の本堂で、中はバリアフリーになっており、なんといいましょうか、現代的に演出された空間にご本尊が鎮座まします、なかなか迫力のある場所でした。

往時の人には、最新の仏閣というのはきっと、こんな風に見えたのだろうな……と思いました。

そうですか、「深川不動堂」は「成田山」の東京別院でしたか……(物を知りません)。

『江戸名所図会』の図絵には、ちらっと「不動堂」が描かれてはいるんですが……。

ちなみに、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 東京名所図絵

 

↑116コマには、

 

深川不動堂
深川不動堂は同じく公園地に在りて富岡神社の西隣に在り堂宇宏壮にして頗る美麗なり下総成田山の出張所にして参詣人常に群衆せり。」

 

書かれているのはこれだけです。

公式HPには、

 

成田山が庶民信仰の対象として高い人気を得るようになったのは、江戸時代の中期です。ひとつには、生活にゆとりのできた商人が盛んに成田詣をするようになった一方、歌舞伎の市川團十郎丈が成田人気に拍車をかけます。子供に恵まれなかった初代團十郎成田山不動明王に祈願し、二代目團十郎を授かって以来、市川家は代々篤く成田山を信仰し、屋号を「成田屋」と称するほどで、「成田不動尊利生記」など成田山のご利益を物語った芝居を上演して大当りをとったといいます。 

 そうしたことと相まって、成田山の不動信仰は江戸庶民の中に広く浸透していきました。江戸庶民の人気に支えられ、元禄16年(1703)に第一回目の出開帳が富岡八幡宮別当寺である永代寺で行われました。本尊の不動明王像を成田山から運び、江戸の人々に公開したのであります。これには、5代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝しました。一説には、成田不動尊の尊信篤き桂昌院が、護国寺の高僧隆光を動かし出開帳を実現させたともいわれます。以来出開帳はたびたび行われ、大勢の江戸っ子が押し寄せ大いに賑わったと伝えられております。不動信仰はますます盛んになる中で、信徒講社が結成されました。一つは日本橋の魚市場、米屋町を中心とした深川佐賀町の米市場、木場、蛤町の講社であり、もう一つは蔵前の札差、米問屋に加え、俳優・花柳界・鳶からなる浅草方面の講社でした。
 明治元年(1868)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで、信徒講社は永続的な御旅所確立のために深川移転説を主張し、成田山当局にも熱心に働きかけました。その結果、旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座されたのであります。「深川不動堂」の名のもとに堂宇が完成したのは、それから13年後の明治十四年(1881)のことでした。」

 

と沿革が書かれています。

なるほど、歌舞伎の市川家の「成田屋」は、「成田山新勝寺」からとっていましたか……。

 

 

そして。

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近くに残っていました「永代寺」。

 

「永代寺は、寛永四年(1627)に富岡八幡宮別當寺として長盛上人(京都の人、俗姓菅原家、寛永十三年九月二十日寂)によって永代島に創建される。當時の永代島は(現在の永代橋東側一帯)隅田川河口の砂州で、長盛上人がこれを開荒し、寺社地六万五百八坪を所有し、一宇を建立する。現在の深川公園辺りは、曾ての永代寺庭園の一部であった所で、平常は非公開であったが、毎年三月二十一日から二十八日迄は弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って「山開き」と称し林泉を開き、江戸庶民に見物を許し大層な賑わいであった様子が江戸名所図会に描かれている。又将軍家違例の時や、世子誕生の折には祈祷札を徴せられ、承応三年(1654)からは年頭独札の許可、元禄十二年(1699)には乗輿御免、或は京都仁和寺修復のための富突の許可が享保十八年(1733)に出たこと等、永代寺に対する幕府の信任を示すものである。以上永代寺は、富岡八幡宮と共に大衆に広く知られ、多くの参詣人を集める、江戸を代表する門前町の中心であったが、明治初年(1868)に発令された神仏分離を契機として行われた廃仏毀釈により廃寺となるも、関東五ケ寺随一に数えられた名刹を廃絶するに忍びず、同二十九年三月、塔頭(永代寺に付属する寺院をいう。十一院在り)の一つ、吉祥院元禄五年ー1692ー創建、開基宥範)を永代寺と改称し、由緒ある法灯を永く継承する。」

 

深川不動堂」よりむしろこちら「永代寺」のほうが重要じゃないか、と思ってしまいます。

この立て札に書かれた絵図を見ていただくと、当時の寺社配置、そして富士山の位置がお分かりになると思います(ちゃんと「弁天様」もあるんです)。

神仏分離、一概に罪ばかりとはいえないのですが……近代化においてどこの宗教でも経験したことかもしれませんが、その断絶が惜しくてなりません。

 

骨董市で賑わっていたのとは別に、夏休みだったからか、(おそらく)「東京10社めぐり」を行っている若い人たちを、結構たくさん見かけました。

一日で回ろうと思えば回れないこともない……ちょっと無理かな……ですから。

私も、これで残すはあと2箇所。

いつのことになるやら……。

 

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このあと私は、夢の島で、よんどころないイベントに参加してきました。

今回の関東巡り、出鼻をくじかれたものの、いい旅になりました。

一番はやっぱり「三匝堂」ですね……修復されたら、また出かけてみたいと思います。