べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「岩村城趾」(岐阜県恵那市)

6/20。
そう、城です(?)。
前回、「苗木城」に行ってみて、「あら、城もいいんじゃないの?」と思い始めた構造物好き。
今回は、美濃の山城の中の「岩村城趾」に行ってみましたよ。

 

○こちら===>>>

onna-jyoushu.iwamura.jp

 

美濃に向かっているので、愛知県から通る道は変わらず、なんとなくのデジャブに陥りながら、駐車場を目指したのですが、結構な細い道を車で登った気がします……向かわれる方はお気をつけて。

 

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なんか、いきなり出丸ですが……写真の順番をよく覚えていない……。

 

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あ、こっちだこっち。
駐車場のところにあった案内図です。
そう、根性なしなので、本丸近くの駐車場まで登ったのです……麓から歩けよ、という話なのですが。

 

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ちょっと歩いて、すぐ石垣。

 

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うーん、中南米感……この、石垣沿いの細い山道が……行ったことのない中南米感。

 

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とにかく景色、というか石垣、というか構造物を楽しんできましたので、こんな写真ばっかりです。

 

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こんな。

 

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これは道なのか……。

 

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上の方が、まだ角が綺麗……石垣に疎いので理由はわかりません。

 

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こんなのとか。

 

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埋門。

 

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櫓か、門の礎石でしょうか。

 

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こんなのとか。

 

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野面ですか?(まだよくわかっていない)。

 

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先ほどの埋門から入ってきて、振り返ったところです。
クランクのある通路、ですね。

 

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クランク。

 

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野面ですか?

 

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本丸のあったフロア(?)に到着。

 

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景色。

 

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本丸案内板。


岩村城
岩村城は別名を霧ケ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、標高七一七mに位置し、江戸諸藩の府城の中で最も高所にあり日本三大山城の一つである。
城の創建は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝重臣加藤景康が、文治元年(一一八五年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まると伝わる。景康の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以来遠山氏が代々居城し、東濃地方から信州の一部まで勢力下とした。
戦国動乱の時代に入り、天正元年(一五七三年)武田信玄の臣秋山虎繁(信友)が岩村城を奪取して入城したが、同三年に織田信長の軍に攻略されて、河尻秀隆が城主となった。その後は森長可森忠政、田丸直昌と城主は目まぐるしく交代した。
慶長五年(一六〇六年)の関ヶ原合戦以後は、大給松平家松平家乗が城主となり二代、丹羽氏五代のあと大給松平家分家の松平氏七代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近代城郭へと修築し、本丸二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等が設けられ、丸と曲輪は石垣や堀切をもって区画され、要所に櫓、門は構えられた。
山城の建造物は明治六年(一八七三年)の廃城令を受けて競売に付され、すべて取り壊された。」

 

森長可」……知っていますよ、「攻めの三佐」と言われた、織田家臣団初期からの猛将「森可成」の息子ですよね(「森蘭丸」のお兄さん)。
ありがとう重野先生!(戦国時代の知識は、すべて『信長の忍び』で入手しています……ほら、三国時代の知識をみんな横山光輝先生の『三国志演義』で手に入れたようなものですよ)。

 

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鬱蒼……建物があったころは、こんなに木は生えてなかったんでしょうか。

 

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角。

 

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角と花。

 

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見上げれば、角と花。
なんでこんな写真が多いのか、といえば、地元と思われる団体さんがスケッチに勤しんでおられたので、邪魔しないようにとアングルを探ってたら……だったと思います。

 

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角、角、角。

 

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長局埋門。

 

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あそこの、切れているところが門だった、ということですか。

 

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おお……石垣の上に石垣……なんか、自分が作ったわけではないのに、よい画だ、と思ってしまいます。

 

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六段壁。
これが噂の……。

 

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とその前に、角。

 

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うーん、なんだろう、なんとも言えない味わい……。

 

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角。
ちょっと、手前の影と、奥の日向の対比が面白かったので。

 

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野面ですか?

 

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そして、六段壁です。
……中南米感……。

 

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かっこいいですなぁ……。

 

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これなんかまさに、という感じで……晴れててよかった。

 

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ちょっと離れたところから。

 

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で、麓に降りていきます(結局歩いて降りるんだったら、麓から登ってこればよかった……と思ったのは内緒です)。

 

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「菱櫓と俄坂
山の地形にあわせて石垣を積んだので、菱形になった。山城特有のものである。この上にあった建物も菱形であったので、菱櫓と呼ばれた。菱櫓は全国城郭にもその例はあまりなく、中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、番所、多門があって、大円寺、水晶山方面を遠望監視した。
中世の頃はここが大手門(正門)で、大円寺城下町説もあり、大円寺へ通ずる険しい急坂も残っている。
実際は裏手の門で、普段は使わないが、落城等の非常口として用いられた。俄坂もその意味がある。俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、天然の峻険を利用し敵の来襲に備えていた。」

 

ふうむ……初耳のことばかり。
自分の降っている道が、「大円寺」に通じているのでしょうか……「大円寺」って今もあるのかな……。

 

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六段壁を振り返る。

 

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麓に行く途中の、角。

 

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八幡神社……え、神社あったっけ?
お参りしてないけど……結構広い空間だな……なんで写真がないのかな……。

 

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霧ヶ井。

 

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こちらがそう、らしいです。

「城に秘蔵の蛇骨を投げ入れると、忽ち霧が立ちこめ」るとな……「蛇骨」ってなんでしょうね……水と反応して煙が出るなら、石灰とかかな……。

 

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角。

 

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角でもない。

 

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追手門・三重櫓。
結構降りましたよ。

 

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中南米感はないな……。

 

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あ、こっちの角は反り返ってる。

 

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角は綺麗に揃えるんですよね……なんて言いましたっけ……いい造詣。

 

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ちょっと、なんでしょう、光の加減と緑の色合いにジ○リテイストを感じたようです。

 

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同じような構図ばっかだな……。

 

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紅葉がすごい……秋は美しいのでしょう……行ってみたい……(コロナ……)。

 

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麓までいかずに戻ってきましたよ、六段壁。

 

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さっきも見たな。

 

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また本丸のほうへ参ります。
うん、この見上げる感じは中南米っぽいちょっとだけ。

 

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ラマ歩いてないかな、ラマ……。

 

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角。

 

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これは、最初に入ってきた埋門のところでしょうか。

 

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このクランクが敵を防ぐ……んでしたっけ。

 

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このクランク(略

 

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ごつごつ。

 

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垂直と水平。

 

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傾斜。

 

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右奥にあるのが駐車場です。

 

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傾斜。

 

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野面……かなぁ……。

 

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ちょっと滑らかな角。

 

 

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さて、麓まで降りて行って、御城印をゲットしました。
観光案内所だったかな……。
その行き帰りで、風情ある町並みをふらふらと歩いてみると、いかん、ここでしばらく過ごしたくなってきた……『半分、青い』というドラマのロケも行われたのですね(テレビ観ないからわかんない)。

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で、「岩村神社」を発見。

 

岐阜県指定史跡 一条宰相中将信能終焉の地
承久三年(一二二一)後鳥羽上皇鎌倉幕府打倒の兵をあげたが、幕府によって鎮圧された事件を「承久の乱」という。承久の乱頭目とみられたのが承久殉難五忠臣といわれる五人の公卿で、一条信能はその一人である。彼は官軍の一将として宇治川の芋洗で幕府軍と戦ったが敗れ、捕らえられた。信能は幕府軍として出陣した岩村城主遠山景朝に伴われて鎌倉へ護送される途中、幕命により同年八月十四日、ここ遠山荘岩村の相原で処刑された。享年三十二歳であった。承久記では処刑を悼み、その模様を美文で綴っている。処刑の日を吾妻鏡では七月五日としているが、公卿補任では八月十四日とされ、他の四忠臣との関連から後者の説が正しい。村人はこれを哀れみ、処刑地にて小祠を建てて霊を弔い、若宮社と称してささやかな供養を続けてきた。
其の後、六百数十年を経て明治の王政復古となり、明治十三年(一八八〇)六月、明治天皇中山道御巡幸の折、承久の乱にあたって殉じた一条信能の英魂を御追認され、特旨をもって岩村へ勅使を派遣、祭粢料を賜った。
同十四年三月に社号改称の沙汰があって岩村神社と称することになった。昭和三年(一九二八)十一月、正三位贈位の恩命があった。
現在は岩村夏祭りとして毎年八月に全町をあげて祭礼を行っている。
(以下略)」

 

承久の乱」……全くピンとこない……この間源平の本を読んだんだけどもなぁ……。

岩村歴史資料館も訪れました……と思うのですが、なぜか写真がありません……なんでだろう……。

 

恵那地方はかつて遠山と呼ばれていたそうで。
岩村城のパンフレット(よいものだ、みなさん買おう)によれば、「源頼朝」の忠臣「加藤景廉(かげかど)」が始祖とされていて(親友は「梶原景時」らしいです)、その子「景朝」が初めて「遠山」を名乗ったそうで。
吾妻鏡」に記されている(承久元年七月九日条)には、「遠山左衛門尉」とあると……あれ?
えっと、ひょっとすると……『遠山の金さん』って……と思ってウィキペディアを見てみると、やっぱり「明知遠山氏」の分家の五代目となっていて、その「明知遠山氏」は「岩村遠山氏」の分家……以前に訪れた「苗木城」も「苗木遠山氏」、ううむ……これは、時代劇大流行りだった頃に、もっとコマーシャルしたほうがよかったんではないでしょうか……いや、したのかな?
まあ、分家の五代目とかになっちゃうと、縁が遠すぎるのかもしれないですが。
長篠の合戦」前に、「武田勝頼」が行った東美濃攻めで、ほとんどの城が落ちちゃった、けれども、その後もたくましく生き残る遠山氏……岩村では大給松平家が封ぜられたようですが……。
戦国から江戸、明治に至る歴史のロマンは、実はどこにでもあるのですね……勉強したくなってきちゃった……。


というわけで、山城を見に行こう、の企画、今後も山城かどうかはわかりませんが、城はまだ見にいきます。
石垣がなくても、中南米感がなくても。
とりあえず「名古屋城」に行け、と(子供の頃に何度となく登りましたよエレベーターで……ただ、今は登れないんです、木造天守復元するのかどうなのか、っていう話なので……「本丸御殿」は人数制限で入れたんだっけ)。