べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「大鳥神社」

9/14。

六本木駅まで出て、よんどころない事情までまだ少し時間があったので、どこへ行こうかと思っていて、ふと昨年は素通りした目黒の大鳥神社を思い出しました。

 

◯こちら===>>>

大鳥神社ホームページ

 

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こちらは、本殿向って右手の、脇からの入口。

 

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正面の石柱。

鳥居は、道幅の関係で撮影が難しいので断念。

 

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拝殿。

 

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扁額には「大鳥宮」の文字が。

神紋ももちろん鳥、です(白鳥かどうかは、私の知識では……)。

 

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消防団が奉献されたようです。

うっすらと見えますが、御祭神は「日本武尊」、「弟橘媛命」、「国常立尊」です。

 

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大鳥神社

この神社は、日本武尊の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806)創建された区内最古の神社です。江戸地区としても古いものとされる「長禄江戸図」に書かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもありました。(略)

毎年11月に開かれる酉の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在も都内では有数の賑いをみせています。この市のいわれは日本書紀に「十月己酉に日本武尊を遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊の出発日が酉の日であったことから、おこったと伝えられています。

毎年9月の例大祭には、目黒通りに大小30余基の町みこしが勢揃いします。それとともに社殿では「太々神楽・剣の舞」が奉納されます。11月の酉の市には、「太々神楽・熊手の舞」が神前で舞われます。

境内には、東京都の天然記念物に指定された「オオアカガシ」の老木や三猿だけの延宝塔、元禄時代(1688〜1703)や宝永年間(1704〜1710)の屋根付庚申塔など5基の石像物もあります。また、俗に切支丹燈籠ともいわれる「織部式燈籠」や、天保6年(1835)の酉の市に神楽を奉納した記念碑などもあります。」

 

「「長禄江戸図」」というのは、

 

◯こちら===>>>

1. 長禄江戸図

 

↑のことかな、と思われます。

左上の方に「目黒本村」とあり、その横にある鳥居が「鳥明神」のようです。

ネットで検索しても、古江戸9社」というのがさっぱり引っかからず、おまけに「長禄江戸図」もものによって描かれ方が違っているので(写本がいくつかあり、どれが元祖なのか私にはよくわかりません)、いろいろ探ってみて、

 

◯こちら===>>>

1. 長禄江戸図

 

↑や、

 

◯こちら===>>>

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/J81_82.html

 

↑を参考に拾ってみました(違っていたらごめんなさい)。

 

・湯嶋村天神社

・櫻田村明神

・芝崎村(?)神田社

・瀧川村王子

・横山村築土明神

・今井村(?)神明

・下渋谷(?)八幡社

・目黒本村鳥明神

駒込村(?)

※図によって九つが描かれていなかったり、瀧川村の弁才天を神社に数えていたりするような気がします。

 

現在でいえばどれになるのか、は各人想像してください。

 

日本書紀に「十月己酉に日本武尊を遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊の出発日が酉の日であったことから、おこった」というのが、「大鳥神社」の酉の市の起源、と言われているようです。

 

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

日本書紀』の該当箇所を見てみると、

 

「冬十月丁酉の朔己に、日本武尊を遣して、熊襲を撃たしむ。時に年十六。是に、日本武尊の曰はく、「吾は善く射む者と得りて、与に行らむと欲む。其れ何処にか善く射る者有らむ」とのたまふ。或者啓して曰さく、「美濃国に善く射る者有り。弟彦公と曰ふ」とまうす。是に、日本武尊、葛城の人、宮戸彦を遣して、弟彦公を喚す。故、弟彦公、便に石占横立及び尾張の田子稲置・乳近稲置を率ゐて来れり。則ち日本武尊に従ひて行く。」

 

とあります。

ちなみに、父親の「景行天皇 」は、「日本武尊」の西征より13年前に、自ら九州地方を平定しに出かけています(『日本書紀』のみ)。

 

「十二月の癸巳の朔丁に、熊襲を討たむことを議る。」

 

揃って「の日」なので、何か呪術的なものでもあるのでしょうか。

 

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「鷲神社」(浅草名所七福神) - べにーのGinger Booker Club

 

↑浅草の「鷲神社」の「酉の市」起源は、

 

「その発祥は景行天皇の御代、日本武尊東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉の祭」すなわち「酉の市」の起源・発祥です。」

 

↑ということですので、かなり違っています。

 

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「御由緒

景行天皇の御代(71〜130)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、当国の蝦夷を平定しました。この東夷征伐の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっております。

東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て薨ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原、河内の舊市邑に留り、その後天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い。鳥明神として祀る」とあり、大同元年(806)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。

 

酉の市(八つ頭と熊手の由来)

当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討ちに遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから古来より、「八つ頭」は人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を搔き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁昌開運招福の神徳として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。」 

 

書かれていることは、↑↑の案内板と同じですが、より詳しいです。

「天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)」という怪しい剣が出てきました。

日本武尊」の御佩刀は「草薙剣」のはずですが……まあ武将ですから、いくつも武器を持っていてもおかしくはないでしょう。

「部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え」というエピソードも唐突で、何を意味しているのかよくわかりません。

恐らくは、元々「目の病の神」がおり、それを「日本武尊」と結びつけたのでしょう。

民俗的な眼病の神としては「雨夜尊」があり、また仏教が入ってきてからは「薬師如来」がその役割を負ったりしました。

一方で、清流で目を洗うことが眼病によい、ということから「水神=眼病の神」という思想もあったのではないか、といわれています。

「長禄江戸図」を見てみますと、「鳥明神」は川(今の目黒川)の傍にあることがわかります。

ということは元来「鳥明神」は、「水の神」ではなかったか、と思われます(昔の神社は、多くが森、高台、川の近くに建てられていたのだからそんなことはないだろう、という話もよくわかります)。

また、何しろ「目黒」ですから、

 

◯こちら===>>>

目黒の地名 目黒(めぐろ) 目黒区

 

↑には全く載っていませんが、何かしら「目」に関係した信仰があったのかもしれません(昔は「目」は「め」じゃなくて「ま」だろう、という話もまたよくわかります)。

じゃないと、唐突に「日本武尊」の部下の眼病の話は出てこないと思うんですよね。

「「八つ頭」」というのは、「里芋」のことのようです。

小さい芋がいくつも連なることから、そんな風に呼ばれたのでしょうか。

「鷲神社」のところで紹介した『東都歳時記』でも、

 

「下谷田圃鷲大明神社 

別当長国寺。世俗しん鳥といふ。今日開帳あり。近来参詣群集する事夥し。当社の賑へる事は、今天保壬辰より凡五十余年以前よりの事とそ。粟餅いもかしらを商ふ事葛西に同じ。熊手はわきて大なるを商ふ。(以下略)」

 

「いもかしら」が商われたようなので、「酉の市」にはつきもののようです。

また、当時武器であった熊手」というのは、

 

◯こちら===>>>

熊手 - Wikipedia

 

↑のWikipediaでも紹介されていますが、平安時代末期から」武器として使用された、とあります。

古代にも武器として使われたかどうかは、ちょっと眉につばです。

イメージとしては、『西遊記』の猪八戒が持っている釘鈀という武器、でしょうか。

 

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末社は「目黒稲荷神社」。

祭神は「倉稲魂命」、「素戔嗚尊」、「火産巣火神」、「水速女命」。

おっと、疫病神と水神がそろっておられました。

これはいよいよ……。

 

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案内板にもあった庚申塔など。

三枚目の右側のものが、「三猿」のみの庚申塔、だと思われます。

うーん、何気なくワンダーランド。

 

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こちらが「切支丹灯籠」。

 

「(略)

もとは千代ヶ崎(現在の東京都教職員研修センター付近)の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。

竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられます。」

 

さすが肥前島原藩といったところでしょうか。

いわゆる「隠れ切支丹」についても、勉強せねばとは思っているのですが、なかなかいい本が探せずにいます。

 

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こちら寛政の文字が刻まれています。

「五大如来」っぽいんですが、よくわかりません。

 

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「「くし塚」由来と参拝のご利益

日本では古来より「くし」は幸運のシンボルと考えられてきました。

日本最古の歴史書「古事記」によると、神祖伊耶那岐命は愛する妻伊耶那美命の死を悲しみ「黄泉国(死の世界)」へ会いに行くと、何と身体は腐って、蛆がたかっているので、「この世」へ逃げ帰ります。

暗闇の死の世界から逃げる為に髪に挿していた「竹のくし」を抜いて火をつけ、松明代わりに道を明るく照らして生還されました。

又、大鳥神社の御祭神である日本武尊は妻弟橘媛と東国へ渡る際、浦賀水道で風波が荒くなり海神の怒りを鎮める為、妃は海に身を投げ、身代わりとなった妃の「くし」は浜に流れついて、今も祭られています。

「くし」はこのように人生の歩む道を照らし身代わりとなる力を持っています。

「くし」塚」に御参りすると開運、無病息災家内安全が得られます。

特に目黒大鳥人じゃの御祭神は目の病、成人病、糖尿病、ボケにかからない為に、又お苦しみの方々をお救いする神様です。

多勢の方々の御参拝をお待ちいたします。」 

 

「くし」に霊力が宿る、というのはいろいろな論考があった気がします。

柳田国男とか折口信夫とか(怪しい)。

「妹の力」と関係があった気がするので、折口信夫でしたっけ……。

 

さて、

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第2

 

↑の59コマに、「大鳥大明神社」の記事があります(引用にあたって旧字を改めた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。

 

「同所不動尊より北の方、二町ばかりを隔る。別当天台宗にして、大聖院と號す。祭神日本武尊一座なり。相伝ふ、大同元年丙戌、泉州大鳥の御神を勧請し奉るとぞ。当社は目黒村の鎮守にして、祭礼は五月と九月の九日を例とす。此日角力興行あり。

[按ずるに、目黒不動尊日本武尊の説を交へしは、此社を誤りて云ふならん歟。不動尊の條下と合せてみるべし。附ていふ、此辺をすべて目黒となづけ、上中下とわかれて廣曠の地なり。永禄二年小田原北條家の所領役帳に、太田源七郎、島津孫四郎等此地を領するよし記せし。東鑑に、建久元年十一月七日の條下には、目黒彌五郎と云へる名を載せたり此地より出たる人なるべし。]

 

泉州大鳥の御神」というのは、

 

◯こちら===>>>

大鳥神社 大鳥大社 堺市 北区 大阪府 神社 大阪府神社庁 神社データー

 

↑のようです。

いつか訪れたいものです……。

また、引用中の「目黒不動」云々についても、いずれ……。

60コマの図絵では、小さな「稲荷」の祠が見えたり、すぐわきを川が流れている様子が描かれています。

やっぱり、元々は水の神だったのではないか、と思わせます。

なかなかのワンダーランドで、もうしばらく楽しめそうでしたが、残念なことに御朱印はいただけず。

 

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目黒駅へ向う途中、川の向こうに煙が見えました。

どうやら、「目黒のさんま祭り」の日だったようで。

 

 

「さんまは目黒に限る。」

 

 

……すいません言いたかっただけです。

 

 

 

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