6/19。
目的を果たして、大阪は日本橋の近くをうろうろしていたら発見しました、「大乗坊」。
◯こちら===>>>
お寺さんですが狛犬さん。
神仏習合の名残強く。
「毘沙門天」のお寺、のようです。
当たり前なのですが、基本的に堂内の仏像のお写真は撮りません。
禁止のことが多いからですが、何となく遠慮します(しないこともあります)。
鳥居の柱……だったかな……もあるのですが、絡みついているのは百足さん。
当山は崑崙山、寳満寺、大乗坊と号し、もとは四天王寺東北方、牛崎と云う所に有り寳満寺三十七院坊の一寺として、四天王寺守護寺院の一端を担って居りました。
天文、天正の頃織田信長の石山本願寺攻め合戦の巻き添えにて再三兵火にかかりし為、その一坊たりし大乗坊の当時の住職、秀言律師が本尊毘沙門天の佛頭を奉じて、難波村名呉街(現在の日本橋筋)に逃れ草庵を起て、大乗坊のみ再興されました。宝暦年間第六世住職宝及律師の時代に、備前の国、池田侯の帰依により大いに興隆し、灰屋善兵衛その他船場島ノ内の商店主の帰依により、境内地の拡大その他整備も整いて更に、堂島の米問屋二川家の帰依寄進により寺勢大いにあがり、摂津名所図会等に浪速名所の一つとして長町毘沙門天堂の名があげられ、数少ない浪速の毘沙門天として信仰されて来ました。明治に年号が変わるまで、境内千坪、寺領域外周一里を有して居りました。又、浪速の富籤の発行勧進寺院として賑わって居りました。
(略)」
全景。
秘仏っぽい写真が載っていましたよ。
御朱印はあるっぽいですね……浪速の「七福神」の一つなのかな……。
さて。
◯こちら===>>>
大阪府学務部 編『大阪府史蹟名勝天然記念物』第5冊,大阪府学務部,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション
大阪府史蹟名勝天然記念物 第5冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(参照 2024-01-17)
↑『大阪府史蹟名勝天然記念物』という書物があったので、こちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
p49です。
「大乗坊
此寺、元は天王寺牛が崎(所在不明)にありし崑崙川寳満寺の子院にして新坊と称したり。天正の頃兵燹にかかりしかば寺僧秀言本尊を奉じて各地に流寓し、遂に難波(地点不明)に住したり。文禄の交、法及律師(或は勝慶律師)灰屋善兵衛なるものの別荘を寺とし、現在のところに移せり。後五代にして明和年間に至り圓點律師あり。二條家の猶子となりし関係より此寺に下り藤の紋章を用ゆ。之れより寺運漸く盛んに堂宇竝び建てり。然るに先の灰屋は家運漸く衰運に向ひしかば、寺運の隆盛なるを見之れを自家のものとなさんとし、寺運亦振はずなれり。萬延の頃正道律師の時、今の大阪の商人二川家の援けにより全く寺院を買収し、灰屋の手を離れたり。爾来堂宇の修繕増築等漸く成り、寺運亦興隆せり。以上の修築は明治三十年に至り漸く完成せり。
本寺の遠隔は大略右の如く、隆替甚しきを以つて、古記録等存するもの一もあるなし。只本尊毘沙門天は春日仏師の作と傳へられ、本邦四毘沙門天の一と称せらるるも実は身首同作にあらず。蓋し先に流転せし時に損せしなるべし。只前立の毘沙門天(実際は前々立にして三体の内最も前のもの)は製作最も巧妙にして現に国宝に編入せらる。最近寺運益々隆盛にして参拝の者踵を接し、香華常に絶えず。」
まあ、当たり前ですが、お寺の案内文とほぼ同じ、です。
かつて、広大な敷地を誇った「毘沙門天」も、ちょっと切なくなっておりました……。
蜈蚣(百足)は、「毘沙門天」の使い、という俗説があります。
「蜈蚣はお銭(足/あし)が多い、ということで、お宝の守護神である」という話と、「もともと「毘沙門天」はインド神話の「ヴァイシュラヴァナ」の漢訳で、「ヴァイシュラヴァナ」は「クベーラ」とも言い、「クベーラ」は財宝を守るヤクシャだった」という話が結びついたのではないか、と何かで読んだことがあります(何だったかな……)。
地面の下にいることが多く、地下の財宝を守る、と思われたのでしょうか(西洋だったらドラゴンの役割ですね……日本にはドラゴンいませんから……まあ、鱗類の一種と考えれば、近いかも……『ダンジョンズ&ドラゴンズ』は『迷宮と蜈蚣』というタイトルになっていたかもしれません(?))。
まあ、妥当な解釈ではないかと思いますが、瀬田辺りでは、唾に負けてますよね大蜈蚣……強いのか弱いのか……モンゴリアンデスワームくらいの大きさがあったらさすがの「俵藤太」でも勝てないかな。
……ええと、難波の方に行ったら見つけた、おまけです。
というわけで、プチ大阪旅がやっと終了……久々に「四天王寺」に立ち寄れてよかったです(推しごとも充実しておりました)。