9/24。
長野ぶらり巡礼行の最終目的地は、「宝積山光前寺」。
○こちら===>>>
「仁王門」が修繕中だったので、途中の参道から。
あいにくの天気ですが、雨はそれほど強くなく。
……熊、出るそうですよ。
さすがです(?)。
杉並木、でしょうか。
参道を長く見せる効果があります(嘘)。
苔生す。
苔にはいい天気、でしょうね。
……「花泥棒」という喫茶店が下北沢にありますが、「苔泥棒」もいるみたいです。
風流というか……わびさびの効いた喫茶店なんだろうなぁきっと(いや、ないですから)。
「光前寺」は、「ヒカリゴケ」でも有名なところです。
行き合ったバスツアーのみなさんははしゃいで写真を撮られていました。
私の写真にはもちろん、写っておりません。
なかなか見られないっぽいですよ。
「三門」が見えてきました。
こちら「鐘楼」。
紅葉の頃には届かぬ夏の残り日。
秋にはさぞきれいなことでしょう。
「三門」は、柿渋でも塗ったのかと思うほどの渋さです。
こちら「弁天堂」。
パンフレットによれば、
「当寺建物中最も古い建築で、方一間入母屋造りの建築。内部厨子の宝形造りとともに、室町期の様式をうかがえる重要な古建築です。」
とあります。
写真ではわかりませんが、川というか掘があたりを囲んでおり、「弁天=島」の基本は踏襲されております。
ここは……なんだっけな。
こちらは「経蔵」です。
「本堂」。
建築当時はわかりませんが、今では素木に渋い茅葺屋根(杮葺かな?)。
あ、宗派は「天台宗」、御本尊は「不動明王」及び眷属の「八大童子」です。
石灯籠と、仏塔と、経塚かな?
たまたま写り込んでしまった人と比べると、大きさがわかるかもしれません。
○こちら===>>>
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/tokyo.kaerumata.htm
↑の素敵サイトで、仏閣の各部分の名称が紹介されています。
これは「木鼻」になるのかと思うのですが、構造的にはあまり意味はなく、純粋に意匠っぽいです。
「邪鬼」か「童子」が「龍」を支えています。
この「龍」、上の写真(頭)と下の写真(尻尾)を見比べていただくとわかりますが、本堂を貫いております。
なかなか凝っている、と思います。
立派な押し出し。
横からみると、「龍」は向背の部分の梁になっているんですね。
さらにダイナミックな印象です。
お堂もシンプルといいますか、朴訥とした感じが美しいと思います。
「三重塔」に向かう途中にあるのが、「霊犬早太郎」のお墓。
「早太郎」さんについては後ほど〜。
六百年の供養塔が立っていました。
「早太郎」さん、人気者。
超・逆光。
「南信州唯一の塔で、高さ約17メートルの均整の美と彫刻の美しさは高く評価されている。内部には五智如来を安置
文化五年(1808)再建」
のぼらないでくださいね。
彫刻の一部ですが……見づらいですね。
石灯籠にお「不動」さんがいらっしゃったので。
「経蔵」手前の三本杉。
「一切経蔵
「三門」を裏から。
下の方は、券売などのブースです。
「霊犬早太郎」さん。
「早太郎」さんの由来が書かれていますが……読みづらい。
彼岸花の季節……だっけ。
立派な庭園も、現在は修繕中。
平成の大修繕、各地で続いています。
さて。
パンフレットによれば、「光前寺」の歴史は、
「天台宗宝積山光前寺は、不動明王を御本尊として貞観二年(860)本聖上人により開基されました。
以来千百余年の長い歳月の間には、幾多の火災等により古記録を焼失しましたが、古くは武田・羽柴家等の武将の保護を受け、特に徳川家からは地方寺院としては破格の六十石の寺領と十万石の大名格を与えられるなど隆盛をきわめました。
明治以降は多くの末寺等も廃寺となりましたが、今なお樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた境内には、十余棟の堂塔を備え、長野県下屈指の大寺であり、南信州随一の祈願霊場として広い信仰をあつめています。」
となっています。
先ほどの、「早太郎」さんの由来碑をなんとか読んでみようか、と思います(引用に当たって旧字をあらためた箇所あり/判別不能文字は■に置き換える)。
「霊犬早太郎由来記
早太郎は別にへいぼう太郎の名に呼ばれ光前寺に成長して性甚だ精悍怜悧であつた 今から六百五十年前の或日遠州見付天神社の社僧弁存が寺門を尋ね請うて云うに当社に人身御供の神事があり妙齢の婦女を犠牲にし従わざれば忽ち災厄身に及ぶを以て里村の者悉く恐怖す一夜密かに社殿に窺えば将たして一怪物現われ信州光前寺へいぼう太郎に知らせるなと口吟みらく踊り嚴に早太郎を恐れ警戒す希くは往きてこれを退治し里民の難を救わんことを望む 早太郎勇躍して見付に至り即ち自ら白木の櫃に入り人身御供とし社殿に運ばる 夜更けて怪物現われ櫃を破る 早太郎躍り出て激闘数時遂いにこれを殲す 夜明けて里人大挙して至り見るに庭前惨と白毛を生したる年古ふき狒々の残骸横たわつて居た 斯くて早太郎は天龍山谷を一気に長駆■て帰ると伝えらる」
○こちら===>>>
↑の33コマから「光前寺」の記事があります。
「○光前寺(赤穂村)
赤穂の町より三十町、駒ヶ岳の東麓籠ケ澤にある。叡山の末寺で信濃五ケ寺の一つである。縁起によれば貞観二年、慈覚大師の弟子木聖上人東行して錫を伊那郡波部の里、籠ケ澤に駐め、草庵を結んで法を修む、一夜霊夢に感じ、太田切川の上流にある大滝の水底より不動の尊像一体を得たり此の由慈覚大師の奏聞によりて此處に一寺を建立して不動尊を祀る、とある。今その滝を名づけて不動滝と云ふ、不動明王の威徳極めて顕著なため遠近の男女来つて祈願する者頗る多く、寺は年と共に栄えた、天正八年武田氏寺領百石を寄進した、其の後織田軍の兵火に焼かれて堂伽藍悉く灰燼に帰し、寺宝も殆んど焼失した、其の後漸次に復興し、慶安二年家光より寺領六十石を附せられた、開基よりして千余年の古刹である。境内には霊犬早太郎の墓があつて、有名な兵坊太郎の伝説を遺す。
花園天皇の頃と伝へられる。駒ヶ嶽の山犬が、光前寺の椽の下で子を生んだ。子供成長の後親犬が山へ帰る時、中の一匹を和尚の欲しがるままに残して置いた。和尚此の子犬に早太郎と名づけて養育するに、珍しい忠犬で、而かも大へんに勇敢な性であつた。其の頃遠州の府中に在る天満宮には人身御供の習はしがあつた。白羽の矢の立つた家の娘が毎年一人づつ此の人身御供に立たねばならなかつた。ある時一人の六部が社殿の椽の下に旅の疲れを休めて眠つて居た、そしてその夜不思議な物音を聞いた。丁度真夜半である。
信州信濃の光前寺
兵坊太郎に此の事知らすな
ストトントン
何物かが来て拝殿の上で踊る気配である。怖ろしい一夜を六部は人心地もなく過ごした、次の日、六部は村へ来て昨夜の出来事を物語る。村では其の頃、やがて立つべき白羽の矢におびえ切つてをる最中である。直ちに使を信濃に送つて兵坊太郎を捜し求め、漸くそれが光前寺の飼犬と分かつて和尚に一伍一什を物語り、やがてその犬を借りて府中に帰つた。白羽の矢が立つた、庄屋の娘は今年の人身御供の番に当つた。 兵坊太郎は娘に代つて凾の中には入つた。山深き神社の拝殿に、夜は次第に更けて行つた。
光前寺の和尚は兵坊太郎のために夜を徹してお経を読んで居た、その朝である。血に染んだ兵坊太郎が帰つて来た。和尚を見て一と声叫んだままにたをれて死んでしまつた。それと同じ朝である、府中の村人は天満宮の拝殿に近き岩窟の中に血汐を引いて千年の劫を経た一匹の大狒々が真赤になつて死んで居るのを発見した。人身御供の禍は此れでなくなつた。その時の謝礼に贈り来つた般若経六百巻は今も尚ほ寺宝の中に遺つて居る。」
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 日本伝説叢書. 信濃の巻
↑245コマに「早太郎」の記事があります。
「早太郎
赤穂名所は美女が森よ、殊に名高い光前寺(童謡)
と唄ひはやされる宝積山光前寺(又駒ヶ嶽の麓にあるので、駒嶽山とも号してゐる。)は、信州天台宗五大寺の一つで、旧寺領六十石であつた。寺内の不動堂と、寺から一里半谷入りの不動の滝とは、霊験と奇観とを以て世に知られてゐる。毎年三月二十八日が不動の縁日であるが、殊に、七年に一遍の兒の舞は、境内泉水のうちにしつらふ舞台の風致と、写経の大般若の読経があるとによつて、参詣の善男善女引きも切らずといふことである。
その不動尊に賽して、三重塔に詣づるの途、一奇形の墓石の青苔深く覆へるものがあつて早太郎墓と誌されてある。これこそ、信濃に名高い猿神退治の義犬塚である。(「信濃奇勝録」)
昔、昔、駒ヶ岳山犬が、光前寺の椽の下で五疋の小犬を育ててゐたが、育て終つて、山に帰る時、和尚の元へ、そのうちの一疋を残して行つた。和尚は、此犬に、早太郎と名づけ、育てて見ると、勇ましい、それでゐて素直な、はしこい性質の犬だったので、珍らしい事にして寵愛してゐた。(口碑)
その頃、遠江國府中(今の見附澤。)の、天満天神社の廟に、怪物が棲んでいて、祭祀毎に所謂人身御供をしなければ、近傍に現はれて、農作物を荒し、一年無作の苦しみを嘗めなければならないのを恐れて、里人は、毎年くじを採つて、犠牲に供える童子を定め、祭祀の日になれば、其童子を櫃に入れ、相たづさへて祠前に捧げ、悉く散ずるの習慣であった。
或時の事、其社の社僧が、犠牲を供へて、里人の散じた後、独り密かに樹梢に攀ぢ匿れて事の様子を窺つてゐたところ、夜半丑の時刻と覚しい頃、一陣の腥風が吹き起り、廟が頻りに震動すると見る間に、眼光炬のやうな三怪物が現はれ出て、嬉しさうに鼓舞し出したが、忽ち一怪物の呼んでいふには、『信濃の早太郎今夜来ることはないか。』といふと、他の一怪物答へて、『なし。』といふ。すると、直に、神櫃を毀ち、兒を捉へて、祠廟に入つてしまつた。社僧は、一体、この怪物共の深く恐れてゐる早太郎とは何物であろう。訊ねて里民の悲愁を訴え、此難儀を救つて貰はうものと、直に旅装を整へて、信濃國に来たり、遍く探したけれども、遂に早太郎といふ者に逢ふ事が出来なかつた。
訊ねあぐんで伊那の郡を旅して来た或日の事、此旅の社僧は、宮田駅の一茶店に憩ひながら、ここでも亦、早太郎といふ人の所在を訊ねてみた。すると、茶店の主人のいふことには隣村上穂村光前寺に、早太郎といふ犬のあることは聞き知つてゐるけれども、それに似た人のある事を聞かないと答へた。社僧は、一旦は不審したけれども、また思ひあたる節もあつて、踵を廻らして光前寺に詣で、時の住僧に謁して語るに実を以てし、是非早太郎を借りたいと懇に願つた。住僧も、不思議なことには思つたけれども、試に犬を庭前に呼び寄せて、宛も人に物語るやうにして、事の次第を物語り、『どうだ行つてやるか。」といふと、早太郎は耳を垂れ、尾を揺り動かし、心これに諾するもののやうに見えた。社僧は、大に喜び、携へ帰つて、次の祭礼の日には、早太郎を櫃に納め、祠前に供へて置き、事の様子を気づかつてゐると、夜半になつて、怪物共は、例年のやうに跳りかかつて櫃を毀ち、犠牲を捉へやうとするところに、早太郎は、忽ち怒号しながら踊り出て、たうとう、其怪物を噛み殺し、早太郎も鮮血に染つて斃れてしまつた。暁になつて、調べて見たところ、怪物といふのは、大きな老猴であつたといふことである。
早太郎の遺骸は、ことわけを添へて、信濃の光前寺に返して、ここに埋められ、香煙今も絶ゆることがないといふ。
社僧一実坊弁存これが謝恩のため、自ら六年の歳月を費し、大般若経を書写して光前寺に奉納した。今現に宝蔵に存する大般若経がそれで、早太郎の義犬塚の供養は、尤も弁存の弟子淡路阿闍梨光尤のために行はれた。(「信濃奇勝録」「縁起」)
大般若経の奥書には、正和五丙辰卯月八日と記されてゐるが、文化二年に至つて補修せられた。(以下略)」
多少の違いはあるものの、大意としては、
・「光前寺」の住職が、駒ヶ岳の山犬が残していった犬を飼っていた。
・名前は「早太郎」。
・その頃、遠江國の見付天神には、人身御供を求める悪神がいた。
・その神(達)は、「信濃の兵坊太郎はこのことを知らないだろうか」と口ずさんでいた。
・見付天神の社僧が、信濃に「早太郎」を探しに来て、連れて帰った。
・人身御供の代わりに、「早太郎」を櫃の中に入れておいた。
・次の朝、境内には年を経た狒々(猿)の死体が転がっていた。
・「早太郎」は「光前寺」に戻って死んだ(死骸を返した)。
・お礼に大般若経六百巻を「光前寺」に納めた。
といったところです。
○こちら===>>>
「矢奈比賣神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑が、見付天神、今は「矢奈比賣神社」の記事です。
こちらでは、「悉平太郎」と呼ばれています。
「疾風太郎」のことではないか、とも言われているそうです。
「早太郎」に通じる名前ですね。
で、長野と静岡がどうしてつながるのか、といいますと。
Googleマップなどで、「矢奈比賣神社」を検索してただきますと、その西の方に流れている川が発見されると思います。
「天竜川」です。
↑のP186に、
「・諏訪湖は糸魚川静岡構造線の断層活動によって生じた構造湖・断層湖であり糸魚川静岡構造線と中央構造線が交差する構造線上の最高点にある。
・古代の諏訪湖は巨大な湖であり、湖面は標高900メートルのところにあった。
・その湖水は甲府盆地を横切り、富士川から太平洋へと流れていた。
・ある時期に現在の釜口水門付近が崩壊して、湖水はここから天竜川となって太平洋に流れるようになり、湖面の水位は900メートルから釜口の高さの800メートルまで下がった。
・石器時代の遺跡は標高900〜1000メートルに見られるが、その頃には諏訪湖の湖面が標高900メートルのところにあり、縄文人が居住できたのは標高900〜1000メートルの上位段丘面だけだったからである。
・現在の湖面は標高759メートルになっている。
・現在、諏訪湖への流入河川は31河川、流出河川は天竜川1河川のみである。
・流入流域は諏訪湖の面積の40倍にもなり、雨によってたびたび洪水が起きたので、治水のため釜口水門が造られ水量を調節している。
・縄文後期に出雲から来た稲作民は、下位段丘面に集落をつくった。
・湖面の縮小に伴い出現した湿地帯は稲作に適していた。」
とあります。
諏訪湖に端を発した「天竜川」は、伊那、駒ヶ根、飯田を通って浜松、磐田へ抜け、太平洋に注いでいます。
「光前寺」のある伊那は、「天竜川」の通り道なのです。
↑こちらのP28には、
とあります。
○こちら===>>>
「足長神社」+「手長」「八劔」「足長」考察 - べにーのGinger Booker Club
↑で紹介した『諏訪資料叢書』の中で、「手長大明神」は「七日はかかる遠州に手が届く」といった意味のことが書かれていました。
信州と遠州は、「天竜川」を通じてなにやら縁のある場所なのです。
で、「早太郎」伝説ですが。
この伝説とよく似ているのが、「記紀神話」の「八岐大蛇退治」です。
一説に、「八岐大蛇」は、出雲を流れる斐伊川のことではないか、といわれています。
人身御供を求めるのは、「洪水」のメタファーか、あるいは「人柱」で神の怒りを鎮めるという信仰か。
「須佐之男命」は、治水の技術を持った人々のことだったのではないか、と。
「早太郎」伝説も、近く(といっても、そこまでの近さではないですが)を流れる「天竜川」の氾濫と、それを鎮めるものの物語があった、のかもしれません。
「狒々」が川の化身といわれても、さっぱり絵が浮かびません。
また、「光前寺」の天台宗にとって、「猿」は神の使いなんですが、それを犬が退治しちゃうのはいかがなものか。
「狒々」と「猿」は違う、という認識はあったのでしょうけれど。
「狒々」自体、大陸からの輸入妖怪でして、「狒々」といえるほどの大型の猿は、日本にはいないはずですし(大昔はわかりません)。
何より気になるのは、「早太郎」という名前です。
犬にどんな名前をつけようと別に構わないのですが、普通、昔話で「太郎」と出てきたら、それは「特殊な力を持った童子」でしょう。
そう考えてみると、この「早太郎」さん、ひょっとすると元々は人間だったのではないでしょうか?
また、「狒々」が弓矢を使って「白羽の矢」を立てるのか、という疑問もわいてきました。
妄想ですが、この話って、
『駒ヶ岳で山犬に育てられた人間の子供が、「光前寺」の僧侶に拾われて、その恩返しのために、天竜川をどんぶらこどんぶらこと下って、悪い神を退治しに行く』
という内容なんじゃないでしょうか?
ほら、あれですあれ。
↑的な?
サンは恩返しで悪神を退治しには行きませんけれども。
で、見付の「悪い神」というのも、どうも山賊なのか、あるいは以前妄想した「高貴な人で、手のつけられない殺人淫楽症」だったのかもしれません。
ドラマツルギー的には、この山賊なりが、「早太郎」さんの親の仇だったりすると盛り上がるのですが。
見事仇敵を討ち果たした「早太郎」さんもまた命を落とした、と。
それを犬に置き換えた理由については、さっぱりわかりませんが、そうしておかないと不都合な真実があったのではないでしょうか。
多分、「早太郎」さんはイケメンだったのでしょう(?)。
御朱印。
↑ちなみにこちらが、「矢奈比賣神社」でいただける「霊犬神社」の御朱印。
「天竜川」をはさんで、一つの伝説の二つの舞台の御朱印を、同じ年にいただけたのも何かの縁でしょうか。
いや、狙ってましたけど(台無し)。
いろいろと思い出を辿りながらの長野巡礼行、これにて終了。
長野県は、他にも行ってみたい神社仏閣がありますので、またいつか。
「戸隠神社」が呼んでいたんですが、時間が……。
……御嶽山噴火の災を避けられたのは、ただの幸運です(合掌)。