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神社仏閣ラブ(弛め)

「真福寺」(補)

さて。


◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 岡崎市史. 第8巻

 

↑岡崎といったら『岡崎市史』、「真福寺」は「大樹寺」と同じく、第8巻で別項立ててある罠、なんとか見つけてよかったよかった。

310コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

真福寺
霊鷲山降劔院と號す、天台宗、旧寺領三百五十四石七升。
未だ我国に仏教の渡来前の人皇二十五代仁賢天皇の御宇八年六月朔日に、八尺の利剣が此山に天降り、光明赫奕たるものがあつた、其後幾星霜を経て石泉と云ふ人あり、利剣の威徳のいちじるしき由を伝へ聞いて、此の山に尋ね入り、利剣の神霊本地垂跡を示したまへと祈願を籠ると、威儀厳然たる十二神将が現はれ、告げて云ふ、われはこれ利剣の神霊である、垂迹八角四方の神、本地は大勝金剛である、後、ここに仏神の出現せらるるに依り、まづ来つて霊地を守護するのであるぞと、」

 

とりあえず、伝承によれば「石泉」さんという人が、降ってきた剣を探しにきたら、「十二神将」が出現して、そのうち親分がやってくるので、まずやってきたんだぞ、と。

本地垂跡とかってなっちゃってるので、明らかに後世の附会ってやつではありますな。

十二神将」の親分は、当然「薬師如来」様です。

仏教が入ってきて、本地垂迹説を導入する際に使われた理屈の一つが、「実は仏教の菩薩や神がこの国のことを見ていたりやってきたりしていたんだけど、その当時はまだ仏教を知らなかったので正体を明かさずにおいたんだ」的なお話。

輪廻転生あり、の仏教ならではの理屈かもしれないですね。

 

「その後、人皇十四代推古天皇の御宇真福(まさち)といふ人があり、仁木の郷に来て、柴の庵を結び、苦行三昧に入つて居つたが、或日此山に霊光のかがやくを見て、尋ね求むるに、山上に清泉あり、その傍に楊柳一株ありて、光明あたりを照し、美香四方に薫じた、真福しばし瞻仰して居ると、忽ち水中に微妙の聲ありて、是好良薬今在此と誦し、薬師如来の姿が影の如く顕はれ、また水中に消えたれど、是好良薬の妙音は絶ゆる事が無かった、真福感涙を流して礼拝恭敬思へらく、光明も影像も、法音も、すべて此霊水より出ででまた霊水中に納まる上は、霊水即ち薬師如来の全身なる事疑なし、われ在俗の身にしてまさしく此薬師如来に値遇する事多劫の宿縁に因るものであらう、今より此水体薬師如来に帰命し、この霊水を本尊として一宇を建立せんと、水体薬師如来出現の瑞祥を奏し、仏閣草創の懇願を言上せしにより、聖徳太子は深く感じ給ひ、薬師如来の誦し給ひしは、法華経第六の巻如来寿量品の文なれば、釈尊に因みて霊鷲山と名付くべく、八尺の利剣の降りしによりて利剣院と號すべく、寺号は本願真福の名を取りて真福寺と呼ぶべしとの事であつた。」

 

「真福(まさち)」さんと「聖徳太子」の逸話、です。

 

「かくて真福は、石を曳き山を平げ、五間四面の檜皮葺寶形造の仏殿を建立して、水体薬師如来の内々陣と定め、更に多くの僧坊を興した、而して彼の利剣の神霊十二神将を八所権現四所護法の神として鎮めまつつた、所謂鎮守の神である、時に住僧の中に玄運と云ふものがあり、一千日の間勇猛精進の修行怠らず、願行満ちて内々陣に入つて水体薬師如来を拝し、霊水少許を浄銅瓶に移し来り、一滴を衆生に施して三毒煩悩の重病を癒さんといつた、これが山籠行者の元祖である、蓋し玄運は先きに十二神将を拝したる石泉の再誕したるものであると、その後寺運ますます隆盛、聖徳太子四十六院の一として、はた又当国最初の寺院として参籠するものいよいよ多くなつた。(以上縁起に據つて大要をしるしたのである。)然るに開山真福建立の本堂は、五百五十八年を経て、人皇七十六代近衛天皇の御宇仁平元年辛未二月二十四日に炎上した、二回目建造の本堂は、丈間九間に五間であつたが、二百五十九年を経て、人皇第百一代後小松天皇の御宇応永十七年庚寅二月二十七日に、本堂、惣門、食堂、三重塔、常行堂、法華堂、弥勒堂、證菩提院、持地院、慈恵大師堂、弘法大師堂、護法堂、八所社、若宮、白山社、山王社等残らず回禄した、法華堂は武蔵守足利義兼三河守護たりし足利義氏の父の建立、證菩提院は三河足利頼氏(義氏の孫)持地院は足利尊氏の建立であつたと。
三回目の建造は、人皇百三代後花園天皇の御宇長禄二年戊寅(月日不明)矢作の住徳賢と云ふ人、十万檀那の助縁によりて建てたるものと、南北九尺間七間、東西九尺間五間、但正中一間は一丈間であつた、内々陣は、その後三十七年を経て、百四代後土御門天皇の明応三年甲寅に建立せられた、」

 

この地方の場合、大抵燃えていると「すわ、信長の仕業か?」と思ってしまいたくなりますが、さすがに岡崎ですし、時代も少々違っておりますし、何でもかんでも「織田信長」のせいにしてはいけません。

 

「(略)
江戸時代に至つて、寛延四年(宝暦元年)正月十七日に、本堂の修復を初め、二月二十七日に上棟した、今の堂宇である、然るに、此際用材として、境内に在りし松檜等の老木大樹を惜気も無く伐採し盡し、爲に森厳の霊域の風致を損ずる事甚しかつたと。
(略)
聖徳太子御作と伝ふる阿弥陀仏、運慶作と伝ふる十二神将、作者不明の前立、塑造仏頭三個は甚だ優秀の作である。」

 

いろいろ無茶をしちゃったのと、仏像の作者などの話。

岡崎市史』には図絵も添えられておりますので、そちらもご参照ください。

江戸後期くらいのものだとは思いますが。

 

「(略)
十月七日におし祭とて、裸体となり尻にて神輿を押す奇祭がある。」

 

↑こちらは、「八所神社」の石碑に書かれていた特殊神事のことで、

 

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「特殊神事 御輿押しまつり
五穀豊穣を祈願する押しまつりは延宝年代(一六七三)盛大に行われた。その後昭和十六年まで継承されて来たが、祭事奉仕者の人手不足により中止されている。例祭当日祭典後囃子に合わせて拝殿に安置されていた御輿を神庭に引き据えて御輿を真中にして役方が背中合わせに前後互いに押し合い競うこと三回にして勝負を決して拝殿に遷御し祭事を終る。」

 

……日本全国、裸祭りの風習は残っており、それは別段隠すようなことでもないのですが……。

 

「さて開山真福は物部守屋の次男なりとの伝へあれど、もとより取るに足らぬ説であるが、或は参河に住める物部氏の族であつたらうか、縁起中に、真福が長者となりし山をしるして居る、即ち云ふ、真福が或時、

近き辺りの宇禰邊の原に野遊せしに、閭里幼童路の傍に集り居りて、一の小青蛇を捕へて既に殺さんとするに至る、真福是を見るに忍びず、慈慰の情徒に過る事を得ず、償ひを童等に與へ、彼の小蛇を乞うけて速に是を放てり、蛇は喜ぶ色現はれて叢に入て逃去る、時晴天俄然として黒雲起り、雷電霹靂して、風喬木の枝を折り、雨原野の塊を穿つ、通路水たたへて膝に至り、皆人遍身濡れて驚き走りて家に帰る、独り真福は聊も濡れずして廬に帰り、晩課の勤行も已に畢て寝息せられしに、暁近き頃夢見らく、容顔美麗なる女童一人、枕の辺りに来り告ていはく、我身は昨日宇禰邊の原にて命を助けたまはりし者なり、我は海龍王の寵女なりしが、小身変化して広野に遊戯せしに、陽気の暖和なるに頻に睡眠を催し、思はずも童子等に捕へられ、既に死地に至るといへども、小身変化の事なれば、身心ともに忘却して通力を失するに似たり、君償を以て我命を救ふ慈恵謝せんとするに物なし、我今一の奇犬を携へ来れり、以て君に奉る、是はこれ海中の宝なり、我謝命なれば双親も悋惜の色なく是を送れり、日々青精三升を飯に調じ、犬粮に與へ玉へといひ畢れば、夢覚て、夜も明ぬれば、夜床のかたはらに奇犬踞り居たり、真福夢の告に任せて、精米三升を飯に調じ与ふれば、則砂金三升を吐出せり(奇犬を飼ひし所を後の人犬飼の里と云ふとかや)かくのごとくにして日々月々に積りしかば、次第に富栄え、年を追て大冨貴の家となり、七珍といへども足らざる物なきが如くなれば、世以て真福長者と呼けるとなん(真福庫蔵を構へられし所を後の人蔵前の里といふとかや)

而して真福寺の惣門の在りし所を大門と名付けたる由をも伝へて居る、蔵前に蔵を建て、井の口に井戸を鑿り、大門に門を建てたと云ふあさひ長者の伝説と全く肖て居る、碧海郡の犬頭の白犬は口より蠶の糸を吐出し、宝飯郡千両の犬頭の犬は金千両の糞をし、これもまた金を糞する、彼の「ここを掘れわんわんわんわん」と財宝の在所を知らしたと云ふ童話とも似て居る、いづれは同じ系統から出た伝説であらう。
(以下略)」

 

こちら、例の大蛇と犬の説話なのですが、あちこちに似たような伝説はありますな、とばっさり。

それよりも「真福」が「物部守屋」の次男だったとは……あ、いえ、これも伝承なのですが、どうしてそうなりますか……「聖徳太子」を持ち出していることも含めて、「何故そうなったのか」が知りたいですね。

物部守屋」残党は、あちこちに逃げ隠れた、という話もありますが、だったら敵対する「聖徳太子」を持ち出さないと思うのですよね。

あるいは、仏教に帰依したことで、「聖徳太子」(というか蘇我家)の許しでも得たのか。

とすると、周辺に「物部守屋」系の伝承が残っていてもいいとは思うのですが……どうもそんな感じではない。

ううむ、掘っていくとなかなか面白そうな感じがします……が、今回はここまでで〜。