べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「尾張大國霊神社」(再)(稲沢市)

(※2017/7/18修正)

 

1/16。

 普段はあまりこういった理由(後述)では出向かないのですが、おひさしぶりに尾張大國霊神社へ。

 

○こちら===>>>

尾張大國霊神社 国府宮

 

 

○こちら===>>>

尾張大國霊神社(おおくにたまじんじゃ) - べにーのGinger Booker Club

 

↑3年ほど前にご参拝していました。

 

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いい天気でした。

ここから徒歩で、別宮の「大御霊神社」へ行ってみました。

南西の方角にあります。

 

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住宅街に突然出現、案内もなく、社名もなく。

 

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静かな空間でした。

石灯籠が面白そうだったので撮影。

 

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御師(おし)」と書かれています。

神社の信者獲得のために、あちこち歩き回ってお札を売ったり、参拝客の接待をしたりした人たちのことですね。

 

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こちらには「天明八年」「知多郡」などの刻字がありました。

地元の人くらいしか参拝しないのかな……。

 

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今年も「はだか祭」の準備が着々と進んでおります(?)。

 

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楼門の彫刻。

正面の蟇股には亀、でしょうか。

 

北東にあるもう一つの別宮、「宗形神社」にも行ってみました。

 

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こちらも人気(ひとけ)なし。

うーむ……いえ、いいんですけれど。

 

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……これは何だったかな……「大國霊神社」のすぐそばにあった気がします。

車祓所……でもなさそうだし……。

 

さて。

 

※あ、ここから長いので、飛ばしていただいて結構です(○)。

 

↑公式HPの記述より、

 

御祭神

尾張大國霊神(おわりおおくにたまのかみ)
尾張地方の國霊神(くにたまのかみ)であり、尾張人の祖先がこの地に移住開拓し、その日その日を生きていく糧を生み出す根源である国土の偉大なる霊力を神として敬い、尾張大國霊神としてお祀りしたのであります。

 

由緒

尾張地方の総鎮守神、農商業守護神、厄除神として広く信仰されております。当社は奈良時代、国衛(こくが)に隣接して御鎮座していたことから尾張国の総社と定められ、国司自らが祭祀を執り行う神社でありました。このことから通称「国府宮」として広く知られております。

 

とのことです。

それでは、いつもの通り。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』から引用します(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

238コマです。

 

尾張大國霊神社
国府宮村にあり。[延喜神名式]に尾張大國霊神社、[本国帳]に従一位尾張大國霊大名神としるせり。今は国府宮総社大明神と称し奉る。抑当社は本州の國霊にして、尊神大己貴命、往昔五月六日此地にゐもりまして、中島直の祖天背男命を契約し給ひ、凶暴を鎮め給ふ所の御神なり。光仁天皇宝亀二年二月十三日、官符を下して宮造を定め給ひ、文徳天皇の仁寿三年六月、官社に列し給ひしより、代々の進冠もあまたたびにして、後鳥羽帝の文治二年三月従一位、土御門帝の建仁元年二月正一位の神階には進み給へり。亀山帝の弘長元年、宮号の宣下ありしよりこのかた、神徳日々に彌増り、霊験殊に著し。妙興寺に所蔵する嘉禄元年八月の廳宣にも、一國之総社、府中勧進之敬神としるせる如く、國中の四民尊崇すべき神廟なり。[文徳実録]に云く、仁寿三年六月丁卯、以尾張ノ國大國霊神。大御霊神。憶咸神等列官社。
本社 南向。祭神大國霊命。 大己貴命の別称なり。 伊弉冉尊天照大神・素戔烏尊・稲田姫命・活玉依姫命・手摩乳神・足摩乳神等を合せまつる。拝殿楼門をはじめ、諸殿厳重に建てつらなれり。猶図上と照し見るべし。
畳石 本社の庭、瑞牆のうちにありて、社家殊に崇敬す。是大穴持命の像(みかた)石なるべし、能登羽咋郡に大穴持像石神社とある同例なり。俗に弘法の畳石と称して、大師の故事をいへるは誤なるよし、君山翁いへり。
三本杉 本社の北にあり。大己貴命を祭る。社には杉を神木とする事、大和の三輪大神の社の例なるべし。
政所 本社の東南の方にあり、東西二十六間、南北八間の大殿なり。正月十三日の神事・五月六日の祭事等、此殿にて執り行ふ。
古陵 政所の地にあり、大國主命の御陵とも、又天背男命の御陵ともいふ。今何れとも定め難し。
末社
神明社 國常立尊を祭る。
天神社 少彦名命をまつる。
司宮(つかさのみやの)神社 猿田彦命をまつる。
熱田社 日本武尊を祭る。今社なく、梛木を神体とす。
宇賀神社 俗に稲荷社といふ。
居森社 津島の居森におなじ。
白山社 菊理姫命をまつる。
八所御霊社 今社なく、榊を祭りて神体とす。
弁財天社
等あり。
神宝 大鈴一。大鳴と名く。往古の駅路の鈴なり。[公式令]に諸国に賜へる鈴の員数をのせ、[続日本紀]以下の国史にも、諸国の鈴の事見えたり。むかし國廳にありし鈴の、当社の宝物となりしなるべし。司宮神仮面一。正月の祭礼に政所に出す。猿田彦の面とも称して、社家の輩殊に尊崇す。[政事要略]の十二月追儺の條に、方相氏疫鬼を追ふ図あり。此仮面方相氏に類して、珍しき古器なり。(略)」

 

「抑当社は本州の國霊にして、尊神大己貴命、往昔五月六日此地にゐもりまして、中島直の祖天背男命を契約し給ひ、凶暴を鎮め給ふ所の御神なり。」……となっています。

大己貴命」が何しにやってきたのかよくわかりませんが、かなり暴れまわったようです。

それを、「中島(この辺りは中島郡でした)直の祖天背男命」が契約して「凶暴を鎮め」た、と。

 

※↑これは、「「大己貴命」が「中島直の祖天背男命」の凶暴を鎮めた」という意味だというご指摘がありましたもので、訂正いたします。

以下、ごっそり訂正していると思いますが、読みづらかったらご勘弁ください。※

 

「天背男命」はよくわからないですね……(出典も不明ですが、社伝によるのでしょう)。

似た名前で「天香香背男(あまのかがせお)」という、「武甕槌神」「経津主神」に最後まで抵抗した星の神様がいらっしゃいますが、関係ないでしょうね。

 

光仁天皇宝亀二年二月十三日、官符を下して宮造を定め給ひ、」……『続日本紀』(下/講談社学術文庫)によれば、宝亀二年二月十三日に、「光仁天皇」は「交野に行幸した」としか書かれていないのですが、この宝亀二年という年号を最近見たような気がするな……と思っていたら、

 

○こちら===>>>

「日吉神社」(清須市) - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回の「日吉神社」の記事で紹介した、

 

光仁天皇の御世、宝亀二年(西暦七七一年)、尾張地方に疫病が流行したので、人々が素盞鳴命を大己貴命と合わせて祀 り、病災除去の氏神としたのが発祥です。」

 

という由緒の年と同じではないですか。

どうやら宝亀二年より前に「大己貴命」が祀られていたぞ、ということにしたいようですが、ひょっとすると宝亀二年に疫病が流行したときに祀られたのかもしれないですね(「日吉神社」と同様に)。

また、社伝から考えると、「大己貴命」がむしろ疫病の元じゃないのか(だから、何やら契約して鎮まってもらった)とさえ思えますが……。

ちなみに『続日本紀』の宝亀二年三月五日には、「天下の諸国に疫病の神を祭らせた」とあります。

全国的に、疫病が流行った年だったようです。

 

「本社 南向。祭神大國霊命。 大己貴命の別称なり。 伊弉冉尊天照大神・素戔烏尊・稲田姫命・活玉依姫命・手摩乳神・足摩乳神等を合せまつる。」

……うーん、なんだかいろいろ、勢揃いという感じがしますねぇ……もちろん「総社(惣社)」ですから、国中の神を集めて一斉に祀っているので勢揃いしてもらわないと困るのですが、それにしては出雲系に偏っている気がします。

これが、古代尾張から引き継がれている御祭神なのか、大和朝廷の影響下に置かれてからのものなのか……もちろん後者なんでしょうね……にしても、「手摩乳神・足摩乳神」までね……『尾張名所図会』は江戸後期〜明治に書かれたものなので、なんらかのバイアスがかかっているのか、そもそもの社伝にバイアスがかかっているのか。

 

「畳石 本社の庭、瑞牆のうちにありて、社家殊に崇敬す。是大穴持命の像(みかた)石なるべし、能登羽咋郡に大穴持像石神社とある同例なり。俗に弘法の畳石と称して、大師の故事をいへるは誤なるよし、君山翁いへり。」……これは、公式HPでも写真を見ることのできる磐座でしょうか。

 

「古陵 政所の地にあり、大國主命の御陵とも、又天背男命の御陵ともいふ。今何れとも定め難し。」……これがよくわからないんですよね、今は。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 張州府志. 附図

 

↑の26コマにある「国府宮惣社圖」を見ていただくと、確かに政所の端っこの方に「陵」と書かれています。

現代だと、どのあたりになるのかな……そこまでは確認しておりませんでした。

 

3年前の記事で紹介した末社は、当時から大体存在していたことがわかります。

↑の「国府宮惣社圖」とは位置関係が全然違いますが。

 

「司宮神仮面一。正月の祭礼に政所に出す。猿田彦の面とも称して、社家の輩殊に尊崇す。[政事要略]の十二月追儺の條に、方相氏疫鬼を追ふ図あり。此仮面方相氏に類して、珍しき古器なり。」……「方相氏」については、困ったときの

 

百鬼解読 (講談社文庫)

百鬼解読 (講談社文庫)

 

 

を見てみましょう。

 

「方相氏

鳥山石燕の『今昔画図百鬼拾遺』に、「論語曰『郷人儺朝服而立於阼階』註儺所以逐疫周礼方相氏掌之」とある。

論語』郷党篇には、「郷人(村人)が追儺(無病息災を願う鬼遣(おにやらい)の行事)をするときは、朝廷の礼服を着て、先祖の霊廟の東の階段に立つ」とあり、また『周礼』には、方相氏なる官について「熊の皮をかぶり、黄金製の四つ目の仮面をかぶって、黒い衣と赤い裳を身に着け、戈を持ち、盾を掲げて、後ろに多くの家来をひき連れて悪鬼を追い払い、部屋に入っては疫鬼(伝染病をひき起こす邪気)を駆逐するもの」とみえる。

追儺(鬼やらい)とは一年の邪気を祓い、疫病を象徴する邪鬼・疫鬼を除く行事で、中国の唐代ごろより方相氏と呼ばれる官職が、この行事の主役となった。後に立春の前日である節分の日に行われ、平安時代に日本にも伝わり、宮中行事である大儺の儀として方相氏が邪鬼を祓った。その後日本の方相氏は廃れてしまったが、行事そのものは根強く残り、今日あるように節分の鬼打ちの豆撒きとして行われている。近年にはふたたびかつての大儺の儀が再現されるようになり、節分の日に京都市平安神宮吉田神社鞍馬寺などで方相氏が登場する。

平安神宮の大儺の儀では、四つ目の仮面をつけた方相氏が童子を従えてねり歩き、矛で盾を打ちながら「オニヤロー」と叫んで、境内の祭場を三周し、南の応天門へと向う。門でも同じような儀礼をし、邪鬼と悪鬼は門の外へ祓い除かれるのである。

(略)」(p61)

 

この続きには、『軒轅本紀』からの引用として黄帝の第一の妃が亡くなったので、それを祖神とし、第二の妃に守らせた。その第二の妃を方相氏にした」、また『琱玉集』からの引用として黄帝の第二の妃は醜く、分銅のような額、鉞のような鼻をして、体は大きく、肌は黒い。今の■(※「鬼」に「其」)頭(※きとう/方相氏の面)はその名残りである」などなどと書かれています(※第一の妃、第二の妃の名前の漢字が変換できなかったので、興味のある方は↑多田先生のご本をごらんください。第一の妃は「るいそ(「女」に「累」、「祖)」、第二の妃は「ぼぼ(「女」に「莫」、「母」です)

「方相氏」の特徴は、その「四つ目」です。

入ってきたのが平安時代のようなので、「猿田彦命」との関係性はよくわかりません。

ただ、鳥山石燕が描いたということは、彼は妖怪として考えていたんですね。

本来の「方相氏」はお役人(官職)なんですが、日本に輸入され、形骸化し、節分の豆まきで追儺、鬼遣だけは残った。

疫病を駆逐するはずの役割は、「御霊」やそれこそ「牛頭天王」に奪われてしまったんですね(お役人には手にあまる仕事だったのかもしれません)。

以前書きましたが、「牛頭天王」の原型は、元々は「武塔天神」と呼ばれる疫病をばらまく神様だったのですが、それがいつの間にやら疫病を駆逐する側に回っています。

この辺り、「方相氏」との絡みで何か面白い話を知っている方がいらっしゃったら是非教えてください(無知)。

 

さてさて、『尾張名所図会』の続きです。

 

「例祭
神前奉幣 正月元日寅刻、神主社家中神前に揃ひ、昨年十二月献じたる神饌を撤す。神主奉幣のうち、拝殿にて神楽を奏し、天下泰平五穀成就の祈祷あり。
御田神事 同十日辰刻、神子方・神楽方の祠官、神前に於て執行す、御鍬形とて、熊手の如く竹にて作りしを神前に備へ置き、祭終りて農家へ賦與す。
土餅封神事 同十一日午刻、神主宅にて是をなす。神秘にて外に知る人なし。
難負神事 同十三日、俗に儺追祭といふ。[年中行事故実考]に、当國国府宮に難負神事あり。是は吉祥悔過の祭にて、上古国分寺にて行はれしなり。行路の人を捕え、其に一国の厄を負せて追拂ふ。追儺の儀なり。今も勢州白子の観音寺にて是を行ふ。又和州長谷寺にては、二月修正の法を修す。当國熱田の神宮寺にて、正月五日修正を行ひ、鬼を追ふ是なり。俗説に難負祭を人身御供の様にいひ伝へ、咎なき村民を捕へて用ふるは、後世の誤なり。国府宮の廳に用いる尊像は、唐画の吉祥天女なり。社家の輩は稲田姫の像といふと見えたり。諸国の国分寺にて、吉祥天悔過の法を修行する事は、[続日本紀]の天平神護元年正月己未の條、[三代実録]の元慶元年八月の記に見え、修正の法を行ふ事は、[吾妻鏡]の承元三年正月の條に見えたり。抑此神事今行ふ所は、十一日卯刻、祠官の宅へ社輩集会し、難負捕の首途とて、芋一色の雑煮を出し、祝賀の故実あり。同日政所廳舎に黒木の神殿を建て、十二日戌刻、祠官の宅へ神主社輩打寄り、政所へ備ふる神供を調じ、雉子の料理の饗応あり。同夜子刻、政所にて饗の御膳といふを備へ、神主祝詞あり。同十三日秘符認神事あり。是は神主・社僧神前に出仕、大宮大床にて神号の秘符を認め勧請し、白杖に榊・注連・節刀・大鳴鈴并右秘符を結添へ、難負捕に出づる節、先達の祠官是を持ち行くなり。同日辰刻、國君より御名代参宮あり。午刻難負捕に出づる社輩の面々、鑓・長刀の鞘を外し、注連を付けたるを従者に持せ、捕人を引連れ、一統神前に揃ひ、発向するに先づ楼門に於て首途の祝とて、一統一夜酒を頂戴し、節刀・大鳴鈴・秘符を守護し、其年の兄方をさして、捕人の者白刃を振立て、我先にと発向す。神主・社僧は楼門迄送迎の式あり。夫より難負人  古は行路の旅人を捕ふる事なりしが、寛保四年甲子正月、國君より此事を禁止し給ひ、今はかたばかりに人を雇ひて備ふる事となりぬ。  を捕へて連れ帰り、難負殿へ入置き、同夜丑刻に至つて七度半の使にて神事始る。神主・社僧政所へ出仕、神主は吉祥天女の像を供奉し、政所黒木の神殿に於て神供を献じ、神主祝詞をよむ。社僧両寺は国内神名帳を読上ぐる。祠官の長、大宮の殿上より白紙祝詞を持ち、白州に下り、宮福太夫に渡す。夫より宮福太夫心中に読み終つて後、拝殿にて翁舞あり。終りて政所に移る。難負人には垢離をわたさせ、翁舞のうちに拝殿に出し置き、翁終りて共に政所へうつし、吉祥天女の神前に於て又宮福太夫翁を舞ふ。終りて見物人を拂ひ、難負人の髪を直し、土餅・人形を負ふせ、人形の手に紙燭をもたせ、難負人の頭にも紙燭をさし、祠官及び長追の人々、白刃を振立て草人形を投げ撃ち、節刀・大鳴鈴を以て追拂ふ事、神秘さまざまあり。此祭事は世に名高く聞えて、[神道名目類聚抄][本朝語園][本朝怪談故事][諸国里人談][舊事大成経][神家常談]にも出でたり。されど皆犠牲のさまに書きて、其実を誤る事多くあり。
(略)
奉射 同十七日亥上刻、政所へ神主・神官出仕、大宮及び大御霊社・宗形社へ大御饌・大神酒を備へ、当番の神官的を射る。神官長矢を好む等の式あり。又的の裏に鬼がらみの神秘あり。
(略)
御鎮座尸神事(ごちんざかたしろのしんじ) 同六日午刻に行ふ神幸の式にて、俗に梅酒盛の神事といふ。昔大己貴命、五月六日に此地へ天降まし、中島直の祖天背男命と契り、凶暴を鎮め給ひしさまをうつしたるなり。まづ神官二人幣を持ち、騎馬にて神代の神幸道を浄む。是を馬場清といふ。正・権の両神主は政所へ出仕、神代の出御を待つ。  此神代とは、当社の氏子中の児輩を神■にて定め、此日のみは其子が神体として神輿の代りとす。七八歳ばかりの男子・女子馬上なるを供奉す。此児輩神前より出でて神主家へ入れば、尊神の御入とて甚尊敬することなり。  神代の児は束帯にて騎馬なるを、神官供奉して政所に至り、一統列座神拝ありて、粽・神酒等を献じ、終つて梅宴をなす。夫より神代の児桃の弓・棘の矢を負ひ、又神代の童女両人、装束にて政所の入口に待合せ、神官各供奉をなし、警固の者数十人、裃を着し、神宝を持ちて先に列れり。しかして西大門に至り、神代の童男鳴弦の神術ありて、桃の弓を握り、弦打する事三度ありて終る。其後上馬とて社輩騎る事なり。又近郷より馬の頭を出す。
(略)」

 

面白そうな神事について引っ張ってみました。

 

「難負神事 同十三日、俗に儺追祭といふ。[年中行事故実考]に、当國国府宮に難負神事あり。是は吉祥悔過の祭にて、上古国分寺にて行はれしなり。行路の人を捕え、其に一国の厄を負せて追拂ふ。追儺の儀なり。今も勢州白子の観音寺にて是を行ふ。又和州長谷寺にては、二月修正の法を修す。当國熱田の神宮寺にて、正月五日修正を行ひ、鬼を追ふ是なり。俗説に難負祭を人身御供の様にいひ伝へ、咎なき村民を捕へて用ふるは、後世の誤なり。国府宮の廳に用いる尊像は、唐画の吉祥天女なり。社家の輩は稲田姫の像といふと見えたり。諸国の国分寺にて、吉祥天悔過の法を修行する事は、[続日本紀]の天平神護元年正月己未の條、[三代実録]の元慶元年八月の記に見え、修正の法を行ふ事は、[吾妻鏡]の承元三年正月の條に見えたり。抑此神事今行ふ所は、十一日卯刻、祠官の宅へ社輩集会し、難負捕の首途とて、芋一色の雑煮を出し、祝賀の故実あり。同日政所廳舎に黒木の神殿を建て、十二日戌刻、祠官の宅へ神主社輩打寄り、政所へ備ふる神供を調じ、雉子の料理の饗応あり。同夜子刻、政所にて饗の御膳といふを備へ、神主祝詞あり。同十三日秘符認神事あり。是は神主・社僧神前に出仕、大宮大床にて神号の秘符を認め勧請し、白杖に榊・注連・節刀・大鳴鈴并右秘符を結添へ、難負捕に出づる節、先達の祠官是を持ち行くなり。同日辰刻、國君より御名代参宮あり。午刻難負捕に出づる社輩の面々、鑓・長刀の鞘を外し、注連を付けたるを従者に持せ、捕人を引連れ、一統神前に揃ひ、発向するに先づ楼門に於て首途の祝とて、一統一夜酒を頂戴し、節刀・大鳴鈴・秘符を守護し、其年の兄方をさして、捕人の者白刃を振立て、我先にと発向す。神主・社僧は楼門迄送迎の式あり。夫より難負人  古は行路の旅人を捕ふる事なりしが、寛保四年甲子正月、國君より此事を禁止し給ひ、今はかたばかりに人を雇ひて備ふる事となりぬ。  を捕へて連れ帰り、難負殿へ入置き、同夜丑刻に至つて七度半の使にて神事始る。神主・社僧政所へ出仕、神主は吉祥天女の像を供奉し、政所黒木の神殿に於て神供を献じ、神主祝詞をよむ。社僧両寺は国内神名帳を読上ぐる。祠官の長、大宮の殿上より白紙祝詞を持ち、白州に下り、宮福太夫に渡す。夫より宮福太夫心中に読み終つて後、拝殿にて翁舞あり。終りて政所に移る。難負人には垢離をわたさせ、翁舞のうちに拝殿に出し置き、翁終りて共に政所へうつし、吉祥天女の神前に於て又宮福太夫翁を舞ふ。終りて見物人を拂ひ、難負人の髪を直し、土餅・人形を負ふせ、人形の手に紙燭をもたせ、難負人の頭にも紙燭をさし、祠官及び長追の人々、白刃を振立て草人形を投げ撃ち、節刀・大鳴鈴を以て追拂ふ事、神秘さまざまあり。此祭事は世に名高く聞えて、[神道名目類聚抄][本朝語園][本朝怪談故事][諸国里人談][舊事大成経][神家常談]にも出でたり。されど皆犠牲のさまに書きて、其実を誤る事多くあり。」

 

↑これが今で言う「儺追(なおい)神事」、通称「はだか祭り」です。

 

「是は吉祥悔過の祭にて」……というのがわからなかったので検索検索。

 

○こちら===>>>

kotobank.jp

 

コトバンクデジタル大辞泉』によれば、

 

「正月に、吉祥天を本尊として最勝王経を読み、罪過を懺悔(さんげ)するとともにその年の五穀豊穣を祈願する法会。」

 

だそうです。

 

「諸国の国分寺にて、吉祥天悔過の法を修行する事は、[続日本紀]の天平神護元年正月己未の條、」

ということなので、『続日本紀』(中/講談社学術文庫)を見てみますと、

 

称徳天皇 高野天皇(第四十八代)

神護景雲元年(七六七)

春正月八日、天皇は次のように勅した。

機内および七道の諸国は七日の間、おのおの国分寺である金光明寺において吉祥天悔過の法(吉祥天を本尊として行なう罪過を懺悔する法会)を行なえ。そうすればこの功徳によって、天下が太平になり、風雨は順調で五穀が成熟し、万民な快く楽しく暮らして、諸方の生き物が同じようにこの福徳にうるおうであろう」(p394)

 

とありました。

ところで、同じ『続日本紀』(下)には、

 

宝亀二年(七七一)

(略)

正月十三日 天皇は天下諸国の吉祥悔過の法会を停止した。」

 

とあります。

宝亀二年の天皇は「光仁天皇」、先代は「称徳天皇」で「道鏡」を重く取り上げた女帝として知られています。

この宝亀二年の記事の「停止」がどんな意味合いなのか……「称徳天皇」は前年の八月に崩御されているので、服喪の期間ということで停止させたのか、あるいは先帝の始めたことなので止めさせたのか……。

自分では確認できませんが、「吉祥悔過の法会」自体は、「[三代実録]の元慶元年八月の記に見え」るそうなので、その後も行われていたようです。

ただ、「光仁天皇」の以後の記事を見ても「吉祥悔過の法会」のことは書かれていません。

それを、「通常通り行った」と考えるべきか、「停止したままだった」と考えるべきか……ああついに『日本三代実録』も必要になってきましたか……。

↑の方でも書いたんですが、宝亀二年」というのが妙に気になるキーワードです。

称徳天皇」と「道鏡」の醜聞を払拭するために、「光仁天皇」はいろいろな手を打ったのかもしれません(やたら恩赦を出しています)。

その中に、「吉祥悔過の法会の停止」と、「諸国に疫病の神を祭らせた」ことが含まれているとしたら……どうなるんでしょう?

まとまりません。

 

「儺追神事」の経過はまとめると、

 

・十一日卯の刻、みんな集合して、「難負捕(なおひとり)の出発を祝う

・政所に黒木の神殿を建てる

・十二日子の刻に政所で饗宴。

・十三日秘符認神事。これは、神号の秘符を書いて神を勧請し、白い杖に榊などと一緒に秘符を結び、「難負捕」が出発する際の先達に持たせるもの。

・午の刻、「難負捕」に出る人々が、槍や薙刀を従者に持たせて、楼門で祝いの酒を頂戴し、その年の恵方に白刃を振りたてて、我先にと出発する。

・「難負人」を捕まえて連れて帰り、「難負殿」へ入れる。

・丑の刻、神事を行なう。神主は吉祥天女の像を備え、社僧は国内神名帳を読み上げる。

・祠官の長が白紙の祝詞を持って、宮福太夫に渡す。

・宮福太夫はそれを心の中で読み、翁舞を舞う。

・「難負人」は水垢離をし、翁舞が終わると政所へ移す。

・終わったら、「難負人」の髪を直し、土餅・人形を背負わせて、人形の手や「難負人」の髪に紙燭をさす。

・祠官などの人々は、白刃を振りたてて草人形を投げ撃ち追い払う。

 

こんな感じです。

今の「はだか祭り」とはだいぶ違う感じがしますね。

 

「俗説に難負祭を人身御供の様にいひ伝へ、咎なき村民を捕へて用ふるは、後世の誤なり。」

 

↑この祭りは「人身御供」ではない、と書いてあるのですが、追い払われる「難負人」は、

 

「古は行路の旅人を捕ふる事なりしが、寛保四年甲子正月、國君より此事を禁止し給ひ、今はかたばかりに人を雇ひて備ふる事となりぬ。」

 

とも書いてあるんですよね……「道行く旅人を捕まえて祭りに巻き込む」なんて、ほぼほぼ「人身御供」みたいなものでは?

藩主によって禁止されてしまったようですが。

 

「御鎮座尸神事(ごちんざかたしろのしんじ) 同六日午刻に行ふ神幸の式にて、俗に梅酒盛の神事といふ。昔大己貴命、五月六日に此地へ天降まし、中島直の祖天背男命と契り、凶暴を鎮め給ひしさまをうつしたるなり。まづ神官二人幣を持ち、騎馬にて神代の神幸道を浄む。是を馬場清といふ。正・権の両神主は政所へ出仕、神代の出御を待つ。  此神代とは、当社の氏子中の児輩を神■にて定め、此日のみは其子が神体として神輿の代りとす。七八歳ばかりの男子・女子馬上なるを供奉す。此児輩神前より出でて神主家へ入れば、尊神の御入とて甚尊敬することなり。  神代の児は束帯にて騎馬なるを、神官供奉して政所に至り、一統列座神拝ありて、粽・神酒等を献じ、終つて梅宴をなす。夫より神代の児桃の弓・棘の矢を負ひ、又神代の童女両人、装束にて政所の入口に待合せ、神官各供奉をなし、警固の者数十人、裃を着し、神宝を持ちて先に列れり。しかして西大門に至り、神代の童男鳴弦の神術ありて、桃の弓を握り、弦打する事三度ありて終る。其後上馬とて社輩騎る事なり。又近郷より馬の頭を出す。」

 

↑こちらの神事もなかなか面白そうです。

 

「俗に梅酒盛の神事といふ。昔大己貴命、五月六日に此地へ天降まし、中島直の祖天背男命と契り、凶暴を鎮め給ひしさまをうつしたるなり。」……「大己貴命」の鎮座の様子を再現したお祭りのようですね。

 

・神官が道を清め(馬場清)、

・神代(御神体の代わり)の七、八歳の子供が神前から出て、

・馬の上に乗せられて政所に入り、

・酒などを献上して、梅宴(?)を行い、

・それから、神代の子供は「桃の弓」「棘の矢」を背負って、警固を連れて西大門に向かい、

・そこで「鳴弦」の神事を行なう。

 

といった流れでしょうか。

うーん……「神が訪ねてきたから酒を飲ませて追い出した」って話だと、「八岐大蛇退治」っぽく聞こえますね。

その反面、神が「鳴弦」の神事(弓の弦をびんびん鳴らして悪霊を追い払う)を行っているというのがちょっとよくわかりません。

「酒で懐柔したら、疫病を払ってくれた」ということでしょうか?

妄想するなら、「酒を飲ませてだまし討ちした神が怨霊になり、その力で逆に疫病を鎮めてやったぜ(ヒャッハー」というのはどうでしょう?(不敬な)

 

※↑このあたりも、「大己貴命」が「天背男命」の凶暴を鎮めた、ということなので、神事の構成としては、「「大己貴命」が「天背男命」に酒を飲ませて、追い払って(あるいは封印して/あるいは殺害して)、「鳴弦」の神事でお祓いをして終わる」様を再現している、と考えられるわけですね。

「中島直」がこの辺りを治めていた、かどうかまでは調べていないので何とも言い難いですが、もしこの辺りを治めていたとすると、自分の祖先が「大己貴命」に鎮められたわけですね。

やりかたは、「大己貴命」の祖先(としておいてください)の「素盞嗚尊」の「八岐大蛇」退治に似ている、と。

地元の人が「天背男命」によほど手を焼いていたところに……ということなんでしょうか。

「天香背男」とイメージが重なっているとすると、そういうキャラ付けだと考えるのが妥当なのかな。

 

長くなってきました(文字の分量が多い)。

 

「宗形神社 国府宮の別宮にて、角玉明神と申す。祭神は大己貴命の室にまします。[延喜神名式]に中島郡宗形神社と見え、[本国帳]に従二位宗形天神としるせり。[新撰姓氏録]に、宗形君大国主命六世孫吾田片隅命之後也とある如く、彼氏人が祖神を祀りし故社号とす。
大御霊神社 同じく別宮にて、御玉社と申す。[延喜神名式]に中島郡大御霊神社、[本国帳]に従一位大御霊名神と見えたり。祭神は大國御霊神と八重事代主命を合せ祭る。
[舊事紀]に曰く、大歳神娶伊奴姫生兒大國御霊神。
[文徳実録]に曰く、仁寿三年丁卯以尾張国大御霊神列於官社。」

 

別宮の二社についての記事です。

どちらも『延喜式神名帳式内社なんですね。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 8 中島郡

 

↑『尾張志』の内容は、『尾張名所図会』とほぼ同じなんですが(41コマ)、

 

尾張大国霊ノ神社

神名式に中島郡尾張大国霊ノ神社と見え本国帳に従一位尾張大国玉大明神と見えたり国府宮惣社大明神と称し大国霊ノ命  大穴牟遅命の別の御名なり  伊弉冉ノ尊天照大神素戔烏ノ尊稲田姫ノ命活玉依姫ノ命手摩乳ノ神足摩乳ノ神等をあはせ祭るといふ神祇宝典にむかし五月五日に大己貴ノ命この地に天降まして中島直ノ祖天ノ背男ノ命と契りたまひて凶暴をしづめたまひし今五月六日の催事に桃弓棘矢を用るは其事のもとなるよし記したまへり桃弓棘矢の事延喜式に見え左伝の昭公四年に■るしたる異国の禮もて災害を除く祭也文徳実録に仁寿三年六月丁卯以尾張国大国霊神大御霊神憶咸神等列官社と見え■り妙興寺所蔵の嘉禄元年八月■宣に一国之惣社府中勧請之敬神と■るし梅華無盡蔵にも府中惣社大明神とあかめ申せり
本社 南面
拝殿
瑞牆 その外諸殿厳重なり
空海畳石 本社の庭みづ垣のうちにありて人ことに崇敬す弘法大師の故事をいひ伝へしは誤なるへし府志に此石大穴牟遅像石なるへし能登国羽咋郡に大穴持ノ像石ノ神社あるたぐひなるよしいへり
三本杉 本社の北にあり府志に大和国三輪社に杉樹をもて大穴持命の幸魂奇魂の表とす当社も大穴持命なれはこの神木ゆゑある事のよしいへり
別宮 角玉社 大己貴命の妻神なりと申す前の宗形神社の條にしるす合せ見るへし大御玉社は次の大御霊神社の條にしるす以上本社とも三社ともまをす
末社 神明社 國常立尊をまつる
天神社 少名彦名命を祭る
宮司社 猿田彦命を祭る府志に三狐神シャグジといひて保食神を祭る司宮司は転じたるにや
熱田社
稲荷社 山城國稲荷神をまつる
居森社
白山社 菊理媛命手力雄命保食神をまつる
御霊社 京都八所御霊の神を祭る
辨財天社
富士社 今廃して旧址東の方一町計にあり国府宮社人大津氏これを掌る
政所 本社の辰の方にあり東西廿六間南北八間正月儺負の神事五月六日の催事などみな此政所にて行ふなり
古陵 政所の辺にあり大国主命の陵ともいひ又背男命の御墓ともいふ今いづれともさだめがたし
神宝 大鈴一口 俗に大鳴といふ往古国々に賜ひし駅路鈴の残りて神宝となりし■公式令に諸国賜へる鈴の数をのせ国史にも諸国の鈴の事見えたり
宮司面 正月の祭礼に政所に出す社家の輩ことに此面を崇め尊めり是むかし追儺の夜疫鬼を追ふとて方相士の面を用る■政事政略等に見えたる仮面なるへし珍しき古物なり 
(略)
同十三日儺追之神事 或は儺負とも書り松平君山の撰へる年中行事故実考に当國の国府宮に儺負の神事ありこれは吉祥悔過の祭にて行はれし行路の人をとらへそれに一國の厄を負せ追はらふ追儺の義■今も勢州白子観音寺にて是を行ふ和州長谷寺にては二月修正の法を修す熱田の神宮寺にて正月五日の修正を行ひ鬼を追ふ是■俗説に儺負の祭を人身御供のやうにいひ伝へ咎なき村民を用るは後世の誤なり 国府宮の■に用る尊像は唐■の吉祥天女なり 社家は稲田媛の像をいふ笑ふへし続日本紀曰高野天皇天平神護元年春三月己未勅畿内七道諸国一七日間各於国分金光明寺行吉祥天悔過之法因此功徳天下太平風雨順時五穀成熟云々三代実録曰元慶元年八月詔曰神護景雲二年正月廿四日奏官符■吉祥天像一鋪安置国分寺毎年正月蓋修其法年稍久丹青銷落貞観十三年講師伝燈満位僧薬海改造木造高五尺是日充其料穀三百斛云々東鑑十九曰承元三年正月十二日神宮寺始行修正四十日修正経今日結願鬼走云々と記せり以上年中行事故実考に引る文■此やしろに尊崇する吉祥天の画像則此國史にいへるとよくかなひたり
五月六日 神幸の神事は社家殊におもんじ大神事と申す禮祀古実ありて凡人知かたくのべがたし神人政所にて酒宴の式あり是を梅酒盛といふ
(略)

大御霊ノ神社
国府宮の別宮御玉の社なり神名式に大御霊ノ神社と見え本国帳に従一位大御霊名神と見えたり祭神は舊事紀に大歳神娶伊努姫生兒大國御霊神とあると八重事代主命とを合せ祭る由いへり文徳実録曰仁寿三年六月丁卯以尾張國大御霊神列官社

宗形ノ神社
神名式に中島郡宗形ノ神社と見え本国帳に従二位宗形天神とあり新撰姓氏録に宗形ノ君は大国主ノ命六世ノ孫吾田片隅ノ命之後也とあり国府宮の別宮角玉明神ノ社なり」

 

続日本紀曰高野天皇天平神護元年春三月己未勅畿内七道諸国一七日間各於国分金光明寺行吉祥天悔過之法因此功徳天下太平風雨順時五穀成熟云々  

三代実録曰元慶元年八月詔曰神護景雲二年正月廿四日奏官符■吉祥天像一鋪安置国分寺毎年正月蓋修其法年稍久丹青銷落  

貞観十三年講師伝燈満位僧薬海改造木造高五尺是日充其料穀三百斛云々  

東鑑十九曰承元三年正月十二日神宮寺始行修正四十日修正経今日結願鬼走云々」

 

↑この部分は「儺追神事」の『日本三代実録』や『吾妻鏡』からの引用になっています。

ただ、

「三代実録曰元慶元年八月詔曰神護景雲二年正月廿四日奏官符■吉祥天像一鋪安置国分寺毎年正月蓋修其法年稍久丹青銷落」……これって、「神護景雲二年に吉祥悔過の法会をやるようにと国分寺に像を安置したのに、しばらくしたら丹青も剥げ落ちちゃって……」って意味じゃないでしょうか。

ちゃんとやってなかったことの暗示?

 

それから、「司宮司社 猿田彦命を祭る府志に三狐神シャグジといひて保食神を祭る司宮司は転じたるにや」……『尾張名所図会』では「司宮社」だったのが「司宮司(しゃぐうじ)社」になっています。

これは多分、「司宮司社」のほうが正しいように思います。

「司宮司面 正月の祭礼に政所に出す社家の輩ことに此面を崇め尊めり是むかし追儺の夜疫鬼を追ふとて方相士の面を用る■政事政略等に見えたる仮面なるへし珍しき古物なり」……仮面はやっぱり「方相氏」に準えられていますね。

 

え〜、別宮についても考察したいところですが、すでにかなりの字数になっておりますので、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑の「宗形神社」の記事だけ引用しておきます(158コマ)。

 

「宗形神社 称別宮角玉明神
祭神 多紀理毘賣命
今按尾張式社考に祭神は宗形君の祖大國主命の六世孫吾田片隅命を祭れりとも又田心媛命に大歳神倉稲魂神を配享れりとも又多紀理毘賣命を祭れりとも云り田心媛多紀理毘賣同神にて大國主神の后神なり本宮国府宮大國主神なれば其后神を祀れるなるべし角玉社と云は何よりの事ならむ吾田片隅命と云るより隅の字をとりて隅玉とも云々角玉とも書るにやと云るが如なるべし故今之に従ふ。」

 

 

 

さてさて、ここまでの長々とした妄想はまあ捨て置いて、何故に「尾張大國霊神社」に参拝したかといいますと、

 

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↑「はだか祭り」バージョンの御朱印帳が頒布されると新聞で読んだからなんですね。

御朱印目的で神社仏閣を参拝しているわけではないのですが、ちょっとミーハーになってしまいました……いかんいかん、いやいかんことない、時には構わないでしょうか?

 

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