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よんどころない要件により、大阪は八尾まで出かけることになりまして。
早めに到着したもので、ちらりと検索をしておいた「大聖勝軍寺」へ。
○こちら===>>>
大阪にはあまり出かけたことはないですが、市内をイメージしていたので、道が思いの外狭いのに驚き。
次に、「大聖勝軍寺」の前を通り過ぎる、と(いや、駐車できるかわからなくて)。
Uターンする場所が全然見つからず、一瞬諦めかけました。
ちゃんと、お寺の前に車を止めることができましたよ。
門の外で、「聖徳太子」と「四天王」のお出迎え。
しまった、もっと近くで写真を撮るべきだった。
「四天王」の踏んでいる邪鬼のみなさんが、ちょっとポップです。
○こちら===>>>
> 聖徳太子御遺跡二十八霊場 - ニッポンの霊場 - 日本各地の巡礼霊場をご紹介
最初が「四天王寺」、二番目がこちら「大聖勝軍寺」。
知らなんだです。
門。
ぽつんとお地蔵様。
正面から、門。
「仏法最初 太子堂」「聖徳太子開基 推古天皇勅願所 大聖勝軍寺」とあります。
読めるだけ……。
「勝軍寺
椋樹山大聖勝軍寺と称し、高野山真言宗に属し、叡福寺(■■■)に対して「下の太子」という。
聖徳太子は物部守屋を滅ぼすにあたり、四天王に祈願、その加護によりいくさに勝ったので、この寺を建てたという。
明治二十一年(一八八八)の台風で本堂(地蔵堂)が倒壊し、昭和四十六年復興が計画、旧太子殿の背後に新太子殿が建った。
本尊は如意輪観音(府重要文化財)で寺宝も多い。門前に守屋池、付近には鏑矢塚、弓代塚、市民病院前には物部守屋大連墳がある。」
↑の八尾市文化財情報システムのHPには、
「河南町の叡福寺(えいふくじ)の「上の太子」、羽曳野市の野中寺(やちゅうじ)の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれています。」
とあります。
羽曳野……羽曳野の伊藤……いや、なんでもありません。
入ってすぐ左手に鐘楼。
これが御神木の椋でしょうか……。
本堂……いや太子殿ですか。
後ろに見えるのが、新太子殿。
鴟尾が鮮やか。
先ほどの椋を別角度から。
「聖徳太子救命の椋 神妙椋樹苑
「日本書紀」太子伝等に佛教伝来時崇佛の蘇我馬子、敬神の物部守屋が激突 守屋は八尾に「稲城」を築きその兵力兄弟 崇佛軍三度敗退す 太子 守屋の大軍の囲まれ絶体絶命の時椋の大木真二つに割れ太子を包み九死に一生を得手太子最後に四天王の加護を祈り守屋を倒す
厩戸の皇子 聖徳太子十六歳の時 御誓願
神妙椋樹慈母木 我身出生廣大恩
紹隆佛法今成就 日日影向不退転
乱後四天王を祭る太子堂を創建し救命椋樹のそばに 佛塔を造り 敵将守屋公の尊像と御自身十六才像を安置敵味方の区別なく両軍の英霊を弔らい「和の心」を後世に伝う 推古天皇は椋樹と大聖聖徳法王の勝ち軍を讃え山号寺名を賜う
神妙椋樹山大聖勝軍寺」
椋が二つに割れて、その中に「聖徳太子」を飲み込んだ……『スリーピー・ホロウ』?
あ、ちょっと違うか。
平和塔。
……何堂だっただろうか……。
お地蔵様。
鐘楼を正面から。
毘沙門堂。
一願不動尊……だと思います。
斜めから太子殿。
石碑。
こちら、門前の池で、多分「守屋池」というところだと。
御朱印。
寺務所でいただきました。
猫さんと犬さんがいらっしゃって、もふもふ癒されました。
名古屋からここにピンポイントでやってくる奴らも珍しいのではないかと思います。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 河内名所図会 6巻. [4]
大阪ですから『河内名所図会』なんですが……古書籍をそのままなので、かなりの部分が読めません(いえ、がんばればなんとか……)。
読めるところだけ。
34コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「椋樹山大聖勝軍寺
太子堂村にあり 一名願成就寺或は野中寺といふ 里俗■椋樹寺又は下太子(しものたいし)とも呼ぶ 真言宗
(略)
本堂 聖徳太子植髪御影 御自作十六■の■■長弐尺八寸許
観音堂 太子堂の左にあり 本尊如意輪観音長三尺 太子本地仏とそ
神妙椋 堂前にあり 古木にして株の中虚に■な■
馬蹄石 椋の木■■下にあり太子軍馬の蹄の■石面に残る
額 植髪太子と大聖勝軍寺の額二ヶ所にあり寺僧云太子の御筆■■■■明る■■
鎮守 稲荷弁財天天満宮の三社を祭■
(略)
什寳
○太子御自作四天王 ○仏舎利 ○大般若経 光明皇后御筆 ○不動尊 弘法大師御筆 ○三千佛名経 太子御筆 ○薬師仏 恵心御筆 ○如意輪観音 百済国伝来 ○経一巻 右同筆 ○持国天 秦川勝作 ○毘沙門天 蘇我大臣作 ○当山縁起 解脱上人筆 ○十一面観音 巨勢金岡筆守屋大連墳 勝軍寺南門前の左にあり
守屋頸濯池 勝軍寺南門前にあり」
「馬蹄石」は気づかなかったな……今もあるんでしょうか。
鎮守の社もあったのか……あまりぐいぐいと散策したわけでもなかったもので。
寺宝の数々は、後世の付会もかなりあるのではないかと思います。
「守屋頸濯池 勝軍寺南門前にあり」
あ〜、首を洗った池でしたか……。
引用していませんが、「聖徳太子」が彫った四天王は、それぞれ「蘇我馬子」、「迹見赤檮」(「物部守屋」を矢で射落とした人)、「小野妹子」、「秦河勝」が兜に飾った、と書かれています。
人選がベタすぎます……。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大阪府誌. 第5編 名勝,旧蹟
↑は明治36年の発行です。
かなり詳しい……といいますか、麗しい文章でもあります。
470コマ。
「勝軍寺
八尾停車場の西南に当り白亜の墻壁を繞らせる一廓裡に碧瓦の堂宇の連なるもの是れを聖徳太子降魔の勝地、釈教東漸の霊場、椋樹山大聖勝軍寺とす。地は龍華村大字太子堂に属し路を大字植松の国分街道の支線に取れば十数町にして達するを得べし。老樹の天に参するものなく堂塔の荘厳なるを見ずといへとも千年の古刹にして由緒の深厚なる、郡中他に比類あるを見ず。今、寺記の示す所を見するに用明天皇の御宇厩戸皇子仏法を天下に弘通せんとし給ひしに物部守屋之れを嫌忌し中臣勝海等と謀りて頻に寺塔を焼き仏像を破棄し、且、稲城を築きて皇子に抗す。皇子因りて軍を率ゐて守屋を攻め給ひしが利あらずして危難殆御躬に迫りき。時に途に一大椋樹あり忽然裂けて中間虚を爲ししかば皇子其の裡に蔵れ給ひしに樹封鎖すること舊の如く。守屋等逐ひ来たりて太子の影を失し空しく軍を収めて去るに及び椋樹二たび裂けて皇子を出だせり。是に於いて皇子椋樹を切りて四天王の小像を刻み将士の甲上に納め誓ひて宣はく、諸天幸に冥護を加へて勝利を得しめ給はば必護世四天王の爲に寺塔を起して恩を無窮に報ぜんと、遂に二たび守屋を撃ちて之れを滅し、其の年十月四天王寺を創建し、且恩樹の下に一宇の草堂を建て椋樹を以つて像を刻して安置し、後天皇に奏して大伽藍を建立し神妙椋樹山大聖勝軍寺の号を賜ひて皇室の祈祷所と定められ、当時、■域は十六町に餘り聖武天皇も臨幸せられて大聖勝軍鎮護国家寺と賜ひき。爾後、聖駕を抂ぐる歴代の恒例たりしが元弘建武の乱についで延元の兵燹に堂塔空しく焦土と化し、爾来再営を重ねしが漸次頽廃し禅房、香台等は或ひは田■の字となり或ひは■に其の名を伝ふるのみにして全く昔時の壮観を失ひ、■域も亦当年の十の一に足らずと。今左に当寺に関する重なるものを挙げん。
神妙椋樹 本堂の前に在り幹合抱に餘りて枝條蔭を爲し、伝へて今に三伝の木なりとす。又縦理の昔日の洞状の如きを顕はす葉は能く病を療するを神丹に勝れりとし遠近来たり乞ふもの少なからず。
馬蹄石 厩戸皇子、法敵撲滅の蹤を末世に伝へんがため軍馬の蹄跡を石面に印して残し給ひしものなりと云ふ。
三大門趾 東は龍華村安中の東にありて大門池と云ひ、西は加美村鞍作の南、長吉村字出戸の北にあり北は八尾町八尾の北に在りて共に字を大門と呼べり。
大塔の石礎 龍華村字渋川の西南、関西鉄道八尾駅の西半町許の田■の間に在せり。
寺又宝物を蔵せる少なからず、本尊如意輪観音像一躯は推古天皇の五年百済国威徳王より厩戸皇子に献ぜし者と伝へ胸中に金銅仏一躯を蔵め宝物中の最なるものにして美術上の模範たるべき鑑査状を有し、其の他、伝太子自作の植髪影向の像、伝三国伝来聖観音像、伝聖武天皇御下納の釈迦如来像、伝太子自書太子水鏡御影、伝恵心僧都筆弥勒菩薩の画像、伝弘法大師筆不動明王画像、伝太子御所持の如意、同着御の甲冑、伝弘法大師所持の松虫鈴等、挙げて数へ難し。
吉野詣記
河内国八尾木の金剛蓮華寺といふ寺をさして行き着きにけり(中略)これより神廟むくの木のある寺に参りてかの木のもとを拝み、本堂へまゐり太子の御影開帳は無きよし語りしかと案内しれる人ひそかに申して開きけり、隔ておくとばりかかげて椋の木のむくつけきまで向かふ面影 公條
いにしへの跡も木ふかき駒ひきむくる春の若草 紹巴
守屋頸洗池
勝軍寺南門の前に一小池あり東西二間、南北三間、周囲十間にして稍方形を爲し、水浅く小蘆草疎生して頗汚濁を極む。伝へ云ふ是れ守屋頸洗池と。守屋は性姦曲にして朝廷を蔑如し、且、仏を疎外して厩戸皇子の伐つ所となり迹見赤檮の矢に中りて遂に首を秦河勝に授けき、寺の南方字弓代に一松樹あり赤檮の矢を放ちし所なりと云ふ。然れども又一説に頸洗池は寺の西北田圃の間に在る小池是れなりと。年を閲する今に一千餘年、茫乎として真偽を知るに由なし。
物部守屋墓
勝軍寺を距る東方一町、里道の側に在り。壹畝許の地の中央に一碑を建て繞らすに石柵を以つてし前面に石表あり、碑と共に明治二年時の堺県令小川一敏の建てし所なり。碑は南に面して高さ三尺四寸、巾一尺三寸ありて方三尺五寸、高さ一尺二寸の台石の上に立ち鐫するに「物部守屋大連墳」の七字を以つてせり。守屋は尾輿の子にして用明天皇の御宇に大連となり蘇我馬子と共に政治に参与せしが政権上の争は陽に神仏両教取捨の衝突となり渋川の邸に囲まれて遂に族滅せらるるに至りき。墓は永く荒草の種に埋没せしが此の建碑の挙あるに及びて人に省みらるるに至れり。」
八尾のあたりに、「物部守屋」の邸宅(か支配地)の一つがあったことは、間違いがないようです。
しかし、
「勝軍寺を距る東方一町、里道の側に在り。壹畝許の地の中央に一碑を建て繞らすに石柵を以つてし前面に石表あり、碑と共に明治二年時の堺県令小川一敏の建てし所なり。」
という具合に、八尾にある「物部守屋」の墓は、明治二年になって比定されたもので、実際のところはどうかわかりません。
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「諏訪大社」考(オマケ) - べにーのGinger Booker Club
↑ではいろいろと妄想していますが。
「物部守屋」が排仏派だった、というのは『日本書紀』などにしか見えないわけで、実際のところはよくわからないのです。
仏教の仏というのは、当時の観点からすれば「蕃神」、外国の神であって、基本的には何をお祀りしようが別にいいはずなのです。
ただ、物部、中臣(あるいは忌部なども)といった氏族は、天皇家を中心としたパンテオン(万神殿)に入り込むことで自分たちの勢力を確保している部分があります。
そこで、天皇が公的に「蕃神」をお祀りすることにする、というのはやっぱり勘弁してほしいわけです。
ローマ帝国でキリスト教が国教化したときのことを想像してもらうと……あれ、あまりよくわかりませんね……。
ともかく、この「公的に」というのがポイントで、ひょっとすると物部、中臣だって「私的」に祀っていた可能性はあるのだと思います。
そういう意味では、「蘇我」対「物部・中臣」というのは、崇仏・排仏という二項対立に還元されるものではなく、もっと政治的な力学に基づいた、どこにでもある権力闘争だったのかもしれません。
そこに「聖徳太子」が絡んできたり、仏教が絡んできたり、当時の東アジア情勢なんかが絡んでくるので、『日本書紀』編纂者はいろいろと頑張っちゃったのか。
うーん……この話で本が何冊も書けますから、この辺りにしておきます。
ああそれにしても大阪……巡ってみたい神社仏閣だらけですよ……。