(※2016/10/06追記)
7/2。
天気もよかろうもん、ということで市内探索へ。
あまり攻めていなかった中川区方面へ行ってみよう、と思い立ち、まずは「鹽竈神社」へ。
○こちら===>>>
名古屋人のイメージする中川区は、もう庄内川ぎりぎりでしょ?みたいな感じなのですが、実際には名古屋駅南側から西へ広がっているのでした。
昔はこれが読めなかったですねぇ……日本も、旧字を捨ててからなのか、読解力が落ちているという話もありますが……なかなかこの文字を書くのはしんどいです(PCとかなら全く問題ないです)。
狛犬さん。
鹽竈、です。
うーん、でも鹽竈って、こういうものだったんでしょうか……製塩の場面を何かのテレビで見たことがあるような気がしますが……。
蕃塀。
狛犬と龍虎、でしょうか。
蕃塀の意匠にも、定型や流行り廃りがあるんでしょうか……。
御神馬。
御例祭 十月九日 十日
由緒
当神社は名古屋城築城の折り武将 岩田藤忠公がお城無事完成を祈願の為 奥州國(現 宮城県塩釜市)より鹽竈大神を当地に向かえられました。
武将の信仰が非常に篤く社殿等の改修など多々にわたります
現在 祈祷者用手水に使用している手水石は堀川の開削工事を進めた福島左衛門太夫正則(福島正則)奉納の物で名古屋城城壁の石をひょうたん型に掘った物です
天保六年(一八三五)に西日置の現在地に遷座され現在に至っております(略)」
勧請された時期が今ひとつわからないのですが、名古屋城完成の頃とすると江戸初期。
天保六年までは、城中にあった、ということなんでしょうか。
拝殿。
社殿前の狛犬さんは御大典記念なので、昭和のものでしょうか。
賽銭箱。
神紋は桜……でしょうか。
本家「鹽竈神社」は鹽竈桜という紋のようですが。
鈴が大きいですね。
社殿向かって左側に摂社が。
瑞牆の内側にある石。
名古屋城築城の際に、奉納されたもの、ということです。
……あれ、この「奥の巨石」についての説明がよくわかりません。
築城の際は、まだこの地に鎮座ましましてなかったんじゃなかったでしたっけ……石切場から神社の前の道を通って堀川まで運ばれたってのはどういうことなのか……あ、ただ、そういう道(石切場と堀川を結んでいた道)という説明なんですね。
ここに御遷座したのとは関係ない、と。
本殿、ちらり。
本殿ちらちらり……あれ、手前は幣殿かな。
尾張造に寄せてあるんでしょうか。
狛犬さん。
その隣に、
「無三殿社(むさんどしゃ)」があります。
「かっぱの神様」。
「由来
江川・笈瀬川の合流地、無三殿いり辺りの江川、清澄にして深からずといえども古来、霊鼈(亀または河童の意)のすむところなりと称し、畏敬して汚す者なし、樋辺一巨石あり、無三殿主神と刻す、昭和九年鹽竈社へ移され今日に至る。
根抜き(痔)の神様
昔からむさんど・山王橋の西北角の橋上から着物のすそを端折ってお尻を堀川に映すと、痔の悪い人は川神様が治してくれると言い伝えがあります。
胡瓜、西瓜をお供えしてお願いすると霊験あらたかなりと言われています。
商売の神様
河童は客の足をひくと言われ、商売の神様。
水神様は魚介類の商いの神様であり、特に水商売の守護神です。
子供の神様
夏の暑い盛りには、堀川の土手で子供達と水遊びや甲羅干しをして一緒に遊んだと言い伝えあり。水泳上達、子供達の守護神様です。」
暗い。
まだ暗い。
お皿に水をかけるのが、祈願の作法、だそうです。
この後ろのはなんなのでしょう……蕃塀っぽいですが……お社としてもなかなか奇妙な作りです。
刻文がちゃんと起こされていました〜。
「無三殿神石之由来
無三殿杁江は往時尾張名勝の一して堀川の西日置古渡の境に在りたり 当時は江川笈瀬川の用水路ありて此の所に会せり 然れども水位高低甚だしきを以て合流する能す 仍ち樋を笈瀬川の上に架して江川を南流せしめ笈瀬川は樋下を東流の河口の水門を通きて堀川に通せり 今の松重町南端一帯の地は即ち此を流域にして里人無三殿と呼びたる杁江たりし所なり 延寳の頃松平康久入道無三此の江北の地に住せり江名之より起ると 江川清澄にして深からずと雖古来霊鼈す潜む所なりと 称の畏敬して・之者なし 樋辺に巨石あり 無三殿主神と刻す 痔疾に霊験著しと病者頻りに来りて治癒を祈り捧ぐるに白餅を以てし或は之を水中に投ずるの風あり 遠近相伝へて其の名大いに著はる星霜巒転神石影を没すること多年偶江川線改修工事の際霊夢を得たる者あり乃ち発掘して之を水底より求め得たり 暫く町神とし近隣に奉祀せしが神慮を畏れ当塩竈の社頭に遷祀したるものより今歳昭和申戊当神社社殿造営の挙あり 規模大いなること前古に此なし 記念として碑を神石の側に建て由来を記して不朽に伝するものなり」
引用にあたって旧字をあらためた箇所、カタカナをひらがなにした箇所があります。
もともとは、「松平康久入道無三」という人が住んでいて、その住居を「無三殿」と呼んでいた、と。
その辺りに大きな石があって、そこに「無三殿主神」と刻まれていた、と。
ちょうどその辺りで、江川と笈瀬川が交わっており、大きな亀が住んでいた、と。
で、
いつからか河童になった
と。
まあ、名古屋駅西側辺りには河童が住んでいたらしいですし。
亀(すっぽん)は、河童のイメージの原型であることは間違いないでしょうし。
由来には一言も書いてませんけどね、河童って。
ちゃんと鳥居もあります。
そのお隣、「白光龍神社」。
手前の木なのか、奥の木なのか、どちらが御神木なのでしょう。
あ、奥みたいです。
若干、河童っぽ……くはないですか。
とぐろを巻いた蛇の像。
卵がお供えしてあるところをみると、かつては本当に蛇神さまが住んでいたのでしょう。
おもかる石もありました。
立派な木です。
今は猫が住んでいます。
「塩玉稲荷神社」。
なかなか珍しいお名前かと。
一番奥が、「靖霊社」。
狛犬さん。
なるほど、抜群の場所に「世界人類が〜」が建っています。
記念のプレートがはまっていたんでしょうか……星の徽章が物悲しいです。
社殿遠景。
摂社を正面から。
裏から蕃塀。
隠れ百度石。
正面遠景。
東側の鳥居。
神楽殿。
いやあ、緑の残り方といい、河童といい、猫といい(?)、かなりのワンダーランドでございました。
御神職が不在だったので、御朱印はお願いできませんでしたが……。
2016/8/27。
と見せかけて、再びご参拝。
無事いただくことができました。
昨今では、御朱印人気のために、高価取引がされている、というニュースを昨日ネットで見ました。
なんといいますか……いえ、ある程度神社側も、参拝者を見込んで御朱印を企画しているところがあると思いますので、そうなるとこういったことも致し方ないかな、と思います。
お寺の場合は、きちんと納経しないといただけないところもありますから。
私の場合は、神社仏閣めぐりの一つの動機ではありますが、いただけないからといって参拝しないわけでもないです。
参拝前後でいろいろと妄想したり、調べ物したりするのが楽しいので。
というわけで、墨字がひらがな、というなかなかレアな御朱印でした〜。
▼▽▼2016/10/06追記▼▽▼
引用する文献をざくっと見てみたのですが、不思議なことに引っかかりません。
うーむ、謎……。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑『尾張名所図会』には、「無三殿」に関する記事がありました(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
126コマです。
「無三殿閫(むさんどのいり)
堀川の西、日置・古渡の境にあり。松平図書康久入道無三は、当時国君の宗室にして、威権俸録ともに盛なりしが、延宝七年養子図書が時に至り、故ありて家名断絶せしかば、無三へ月俸三百口を賜はり、日置の別荘に在りし其側にある故、其名の此杁にのこりて、今も無三殿閫と呼べり。」
どうやらこの辺りにあった水門(杁)のことを、「無三殿閫」と呼んでいたようです。
じゃじゃーん。
いいでしょう、この本(素敵)。
この271ページに「無三殿」の記事があります。
中川区、塩竈神社の境内には、痔に霊験ある神として無三殿大神が祀られている。かつて、江川・笈瀬川の合流地点には、松平泰久入道無三と言う武士の屋敷があり、人々は無三殿と呼んでいた。その付近は、無数の鼈が棲息していた。この無三殿の近くの橋から痔の悪い人は裾を端折って尻を川に映すと川神様が直してくれると言われていた。そのため、胡瓜や西瓜を御供し、願を掛けると霊験灼かであると言い伝えられている。
『中川区史』」
……ま、内容としては、神社に掲げられているものと同じなのですが。
どちらにしろ、少なくとも「無三殿大神」、「河童」ではなく「鼈(すっぽん)」だったはずなのですね。
やはり、近くに住んでいたという別の河童の伝承と混じり合って、河童になっちゃったんでしょうか。
まあ、キャラクターとしてはもちろん、河童のほうが強いですからね。
河童のほうは、またいずれ……。
▲△▲2016/10/06追記▲△▲