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「泉岳寺」をあとにしまして、ぶらぶら歩いて品川方面に戻ったら、発見しました「高輪神社」。
◯こちら===>>>
社標……?
御祭神は、「宇迦御魂神」「誉田別命」「猿田彦神」、で境内社に「聖徳太子」……「稲荷」「八幡」「庚申」、と太子信仰か……あれ、由緒とかなかったかな……というか、写真を掲載するのですが、なんと社殿を撮影していない……狛犬さんに目を奪われていたようです(それから、天気があまりよくなかったのも関係するかもです)。
鳥居。
マンションなどに囲まれた境内、ちらっと社殿が写っています(これでご勘弁を)。
力石。
狛犬さん、その1。
ちょっと、ゴジラっぽい。
恵比寿大黒……ちょっと怖い。
門の脇の彫刻。
すみません、漢籍に詳しくないので、題材がわかりません……。
狛犬さんその2。
全体的に、つるってなっちゃっております。
御朱印。
さて。
◯こちら===>>>
大日本名所図会. 第2輯第3編 江戸名所図会 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
↑というわけで今回も『江戸名所図会』です(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
158コマです。
「太子堂 同所旭曜山常照寺といへる天台宗の寺にあり。聖徳太子の像は、十六歳の尊容にして、自ら作り給ふといふ。元禄年間開板の[江戸鹿子]といへるものに、明暦年間、越後守光長卿の陪臣、川木八兵衛某、故ありて此所に安置したてまつるとあり。
稲荷祠 太子堂・庚申堂の中に並び立たせ給ふ。高輪の産土神なり。庚申堂 同じ境内にあり。本尊は青面金剛の木像なり。摂州四天王寺の住侶民部卿僧都豪範の作といふ。縁起に云ふ、大宝元年辛丑正月、庚申の日は一年の間六度ありて、八専の間日に中れり。人間に三尸といふ三の悪蟲ありて、災を招く。然るに庚申を祭る時は、此蟲退散し、身に幸を来らしめ、若不信の輩ある時は、命根を吸ひ、悪業を天帝に訴ふ。今帝釈天王衆生をあはれみ給ふ。故に汝に此法を附属す。我は則ち青面金剛なりと。又十二の誓願を示し給へり。僧都信心肝に銘じ、直に感見し奉る所の尊容を彫刻し、普く衆生に庚申の法を授くとなり。」
ふう……途中から、まさかの「庚申」信仰の説明になるとは思いませんでしたが、とりあえず、現在の「高輪神社」のことで間違い無いかな、と思います(「八幡」がないぞ……)。
「青面金剛」については、どこかでも引用したかと思いますが、
『密教辞典』を見てみますと、
「陀羅尼集経巻9・大青面金剛呪法(略)には、五方の五帝薬叉のうち東方青帝薬叉神を青面金剛と称し、わが国へは台密の所伝。後に道教の庚申の本尊とするのは、道教の上帝を仏教の帝釈天と同体とし、その家臣が青面金剛という。悪獣・病魔・風雷等の難を除く真言により道教の司命神に配する。庚申の夜は、身中の三尸虫が睡眠中に、天帝にその人の罪を報告すると信ぜられ、徹夜する習慣を庚申待という。形像は四臂三目、左手に三股叉と棒、左手に輪・羂索を持ち、青色の身、口を張って牙を出し、眼は赤、火焔色の怒髪が上向き、髑髏を頂きまた瓔珞とする。身体中に蛇がまとい両脚下に2鬼、左右に2童子(青衣)、4薬叉の右辺は赤黄色で刀・索を、左辺の白黒身は矟・叉を持つ。その他二臂・六臂像がある。また申の縁から、見ざる、言わざる、聞かざる、の三猿を山王日吉神社の神猿とする。」(p392)
ということです。
「東方青帝」という呼び方がすでに大陸っぽいのですが、道教とごちゃごちゃになり、神仏分離を経て、「猿田彦神」に落ち着いたと……「庚申」だから「猿」で「猿田彦」、という……でもこれは多分、神仏分離前からごちゃごちゃになっていたのだと思います。
「道祖神」、「衢の神」、「塞の神」、「道の神」としての「猿田彦神」、一方で「庚申塚」というものがあちこちにありまして「青面金剛」プラス「三猿」の取り合わせですから、どこかで一緒になっても不思議ではないのかな、と……安直な分析にすぎますか、そうですか。
160コマに図絵があるんですが、街道からの位置関係が、現代に重なる部分ではないかと思います。
え〜……うん、あまり考察などはないですが、品川近辺ぶらぶらの記録でした〜。