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さて、「元町厳島神社」をあとにしまして、スマートフォンの地図を参考にしつつ、うろうろしてみました結果、「諏訪神社」を発見。
◯こちら===>>>
うーん、「石川町諏訪神社」と呼んだ方がいいのか……。
結構狭隘な立地です……神社は、山や丘陵をバックに(あるいはその頂上に)建てられることが多いのですが、ここまで見てきた横浜の神社もみんなそんな感じでしたね……。
由緒書。
「諏訪神社由緒
当石川町に鎮座の諏訪神社は、文明十三年(室町時代)の創立です。
当時現在より高所に小祠があり、諏訪神社と号されて附近一帯の住民からの崇敬篤く燈明の絶えないことから石川河岸を出入りする漁船の目標となったと『武蔵風土記久良岐郡石川村の章』に見えます。
災害により社殿焼失という不幸を経ましたが、現在三千戸の氏子を有し昭和三十八年八月には新社殿の再建もなり「はまのお諏訪さま」と親しまれ氏子と共に存続発展し続けています。」
文明十三年創立、の石標がありました(が、文明十三年に建てられたわけではないと思います)。
扁額。
社殿。
平入りに唐破風、権現造かな……。
……あれ、写真がこれだけ……おかしいな……。
それほど広い神社ではないのは確かなのですが、いくらなんでも少ないな……スマホの充電を気にしていたのか……。
ともかく、さて。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 横浜市史稿. 神社編
↑『横浜市史稿』の神社編を探してみました、ありました(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
410ページです。
「五七 諏訪神社
諏訪神社は、中区石川仲町五丁目百十番地に鎮座。(略)
由緒は不詳。元は玉泉寺の持であり、俗称の諏訪山の上にあつて、(略)、明治六年八月に、現在の境内に奉遷し、新に社殿の造立をした。明治二十九年に、祝融の災に見舞はれ、後一時仮殿を以て奉安したが、大正五年に再建した。更に大正十二年九月一日の大震火災に、再び灰燼に帰したので、翌十三年六月に早くも復興を遂げた。
祭神は武美那方命。
本殿(略)・拝殿(略)、共に神明造、幣殿によつて接続し、全体は権現造、総亜鉛葺。外に神楽殿(略)社務所(略)がある。
氏子は石川町及び石川仲町の一円である。
(以下略)」
え〜、現在は石川仲町、という町名がなくなっており、石川町になっています(ウィキペディア参照)。
もともと、諏訪山と呼ばれていた山の上にあった小祠で、だから「諏訪神社」になった……のだとすると、諏訪との関係性は何かあるのか……あんまりなさそうです。
「諏訪大社」の場合は、神体山としての守屋山があります……どちらかというと「諏訪」は諏訪湖にかかる地名のような気がしますので、山ではないでしょう……ということで、諏訪山という呼称自体がそれほど古くはない、少なくとも、「諏訪大社」ができて、その神体山との関係性か、風景が似ていたのか、諏訪山と呼ぶようになった、と考えるのが妥当かな、と(あるいは、長野の諏訪は全く関係ないという可能性もありますが)。
諏訪山と呼ばれるようになった時代と、そもそもそこに祠があった時代、どちらが先なのかは何とも言えませんが、山の上に祠、というのは(古墳の上かもしれません)、いたって古い思想に基づくものじゃないかと思います。
祠の御祭神がなんだったのか、についてもさっぱりわかりませんが、古いものだとして、雨乞い(龍蛇神辺り)か日照り(太陽神)か、まあどちらかでしょう(断言)。
そうでないとしても、何かの理由で「諏訪山」と呼ぶようになった山で、お祀りされている神を「建御名方神」とするのは至極当然の流れでしょうね。
勧請されたわけでもなく、地名先行で御祭神が決まった、となると、結構珍しいんじゃないでしょうか……いや実際はわかりませんよわかりません。
武士の世の中になってからは、「八幡」「香取」「鹿島」に並んで「諏訪」も武神と考えられるようになりましたので、そういった様々な理由から「諏訪神社」になったのか……船の目印としてであれば「住吉」でもよかったんじゃないかな……あっちは山の上ではないか……。
軽くジャブ的な妄想でした。