(20181124 誤記修正)
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近況〜広島参拝記(その1) - べにーのGinger Booker Club
近況〜広島参拝記(その2) - べにーのGinger Booker Club
近況〜広島参拝記(その3) - べにーのGinger Booker Club
↑一年前は、こんな未来が待っているなんて想像もできなかった、という何かの歌の歌詞のような現実に、寂しさは募りますが……。
どうも、「饒津神社」からグリーンアリーナへ移動する途中に立ち寄ったらしい(曖昧)、「碇神社」。
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扁額。
境内全景。
狛犬さん。
伝承「碇石」跡……碇の形をしていたわけではなさそうなので、碇をひっかけた……ということは海の底だったのか……ううむ。
ポンプ。
新しいのか、なんとなく南国チックな灯篭。
遠景……いい天気だったなぁ……まさか、こんな一年後が(以下略)。
歴史の散歩道の案内板。
「16世紀に広島城が築城される以前から、この地に社があったとされ、19世紀初めに記された「知新集」によれば、築城前のまだこの地が青海原であった頃、ここへ他国船が来て碇をおろしたことから碇神社といわれるようになったと伝えられている。」
なるほど……私は船の歴史には詳しくないのですが、どのくらいの時期から碇が使われるようになったのでしょうね……初期からかな……何かしら係留する装置はあったでしょうし、常に港に近づけるわけではないので沖で停泊するのに碇は必要でしょう……。
こちらの案内板では、当時の河口の様子が描かれていますね、わかりやすい。
まあ、今も川の近くにはあるのですが……往時は島だったことがわかります。
参道入口。
由緒書。
「祭神 大綿津見神
古くは箱島明神とも称す一、創建は奈良朝時代初期(約一千二百五十年前)
此の地其の昔海辺なりし頃
当碇神社の社辺に大岩盤在り
太古よりしばしば舟が難破せし為
地と海の神を鎮祭し奉ることに始まる
従って当広島に於ける最古の氏神と
考証される一、天正十七年(一五八九年) 毛利輝元公
広島城築城に際し改めて社殿を造営し
社領の寄進を為す
当白島地域の産土神として親しまれ尊崇を集めた一、昭和二十年八月原爆に依り灰燼に帰す
仮社殿に於て祭祀せしも
昭和四十年春氏子崇敬者の協賛を得て
再建今日に至る」
社標。
さて。
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『大日本名所図録ー広島県之部』『備後叢書』の第4巻から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
19ページです。
「碇明神 在今府治、古此處海中之一小島、而有小祠、往来之旅客沈碇、繋船於社辺、以祈順風、鉄錨或曰碇、故称此社曰碇明神、未知祭何神也、毛利輝元自移城地於今府治以来、日盛月豊、故民人埋海為家居、今此社在府治東北、去海半里許也、到後世而伝説亦絶、則碇之称号、恐有怪之者乎、嗚呼陵谷変遷、今親見之、滄海為桑田、亦非可疑者也。」
上の由緒書をあわせたような内容ですね。
ただ、御祭神はよくわからない、と……碇の神様、というのは聞いたことがありませんからね。
何やら怪しげなものがいたのか、怪しげなことが起こったのか、船幽霊的なものでも出たのか……ちょっと面白そうだ。
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広島みやげ : 附・安芸の宮島 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『広島みやげ』という本からも引用を。
18ページです。
「碇神社 西白島九軒町に在り、境内二百六十餘坪、祭神は大少童命なり。毛利輝元此地に築城すると決するや、海湾を埋むる宏大なるを以て、海神の怒りあらんを虞れ、此に祈願を籠めたる處なりと、築城成るや社領五百石を寄付して神恩を謝したりといふ。」
こちらは、由緒書ほぼそのままでしょうか。
伝承を探ってみたいところですが、郷土史家のみなさんにお任せします……はい。
というわけで、広島参拝記(補)でございます〜。