べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「日牟禮八幡宮」(補)

さて。

文字ばかりですので、苦手な方はパスしてください。

 

神社で頂いた「日牟禮八幡宮略誌」によれば、

 

「御祭神

誉田別尊(略)

息長足姫尊(略)

比賣神(田心姫神湍津姫神・市杵嶋姫神と三姫神の御神霊)」

 

となっています。

八幡宮総本宮である「宇佐神宮」の御祭神がこうなっていますので、それに合わせているものと思われます。

というか、どこの八幡宮でもそうなんです、基本的に。

続いて御由緒より、

 

「伝記によれば、第十三代成務天皇高穴穂の宮に即位(一三一)の折、武内宿禰に命じて、この地に大嶋大神を祀られた(地主神・大嶋神社)のが比牟礼社の鎮座の始めと記されています。應神天皇六年(二七五)天皇近江行幸の折、奥津島神社に参詣されて遷幸の折に宇津野々辺に御少憩になり、御座所を置かれた。その後年を経て御仮屋の跡に、日輪の形二つ見ることが出来た。それ故に祠を建て「日群之社八幡宮」と名付くと記され、持統天皇五年(六九一)藤原不比等が参拝し、和歌を詠んだに因み比牟礼社と改むとあります。第六十六代一條天皇の勅願により、正暦二年(九九一)法華峰(八幡山)に社を建て、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀り、寛弘二年(一〇〇五)遥拝の社を麓に建て「下の社と号す」とあり、現在の社は麓の社に相当すると解することが出来ます。

上下に社殿を整えた八幡さまには、皇室のご崇敬も篤く弘安四年(一二八一)蒙古襲来の時奉幣あり、康安二年(一三六二)後光厳天皇、永和元年(一三七五)後圓融天皇と両度も綸旨を下して天下の静寧を祈らせ給ひ、又足利、徳川両将軍家を始め、近江の守護佐々木六角氏以下武家においても、或は神事の退転を防ぎ又社領を寄進するなど、種々の尊崇の実を尽くされたのであります。

天正十八年(一五九〇)豊臣秀次公法華峰に八幡城築城のため、上の八幡宮を麓の社に合祀し替地として日杉山に祀る計画であったが、秀次公は文禄四年(一五九五)自害に及び、日杉山に社は建設されず、現在の如く一社の姿となったのであります。

慶長五年(一六〇〇)九月十八日徳川家康関ヶ原決戦の後武運長久の祈願を籠めて参詣し、御供領五十石の地を寄附せし旨が残されてあり、寛永二十年(一六四四)家光公より御朱印下附があり、以後寛文五年(一六六五)家綱公の御朱印も残されてあり、徳川氏が当社に尊崇を挙げたものと解されます。明治九年(一八七六)郷社に列し、大正五年(一九一六)県社に列せられ、昭和四十一年(一九六六)には神社本庁別表神社に加列、神社名を日牟礼八幡宮と改称しました。(略)」

 

えー……ここに書かれていることを、他の文献から引用するので……これだけ読んでおいてもらえればもういい気がします(残念)。

社伝では、「大嶋大神」という地主神が祀られたのが、「成務天皇」の頃。

応神天皇」は、奈良と大阪に都を置いていましたが、先々代の「成務天皇」が近江の「志賀高穴穂宮」に都を置いていたからか、近江との関係が深いらしいです。

 

「應神天皇六年(二七五)天皇近江行幸の折、奥津島神社に参詣されて遷幸の折に宇津野々辺に御少憩になり、御座所を置かれた。その後年を経て御仮屋の跡に、日輪の形二つ見ることが出来た。それ故に祠を建て「日群之社八幡宮」と名付くと記され、」

 

日本書紀』にはここまで細かくは書かれていませんが、

 

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

↑によれば、

 

「六年の春二月に、天皇近江国へ幸して、菟道野の上に至りて、歌して曰はく、

 

千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ」(P196)

 

とあります。

古事記』にも、同じ歌が掲載されています。

 

持統天皇五年(六九一)藤原不比等が参拝し、和歌を詠んだに因み比牟礼社と改む」

 

↑これは『日本書紀』には記事がありませんでした。

が、順番的に、「日群之社八幡宮」を「比牟礼社」に改める、というのは無理があるでしょう。

宇佐神宮」での「八幡神」奉斎が、神亀二年(七二五)とされているのですから、それ以前に「八幡宮」という呼び名があったとは思えません(「応神天皇」への信仰があったかどうか、はまた別です)。

 

 それではめげずに、まずは、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江輿地志略 : 校定頭註

 

↑こちらから引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える/カタカナをひらがなにした箇所あり)。

381コマです。

 

「○八幡町
大房村の北にあり。此地八幡と号する事は八幡宮鎮座の事によれり、詳に八幡宮條下に出す。大津と八幡とは近江一国にての大邑、其繁昌の地なり。所謂近江蚊帳は此地の名産なり、是のみに限らず此地の名産多し。事つぶさに土産門にのす。中頃、豊臣秀次此地に在城す、故に安土の商買競集り、百工肆を竝べしに、秀次京師に移りて後、自衰微に及ぶ。然ども餘榮尚残りて賑はし。町数六十六町あり。此町安土より引移る者多し、故に安土の旧名あり。(略)


[八幡社]八幡町にあり。大杉町に鳥居あり。一の堀を越し馬場長百五十間幅五間あり。八幡の社地、境内東西八十五間南北九十三間山林長二百間幅九十間餘、(略) 額あり。立額「八幡宮」の三字を書す、持明院の筆也。夫以れば、当社鎮座の義は一修院御宇寛弘二乙巳歳鎮座なりと【年代記】にのす、社僧普門院が記に曰く、八幡宮は一條院の寛弘五戌申影向ありといふ。社家伝説に曰く、一條院寛弘二乙巳年五月八日宇津呂邑の松樹に鎮座あり、此故に今に至つて社家より毎春松葉を氏子に配る、蓋この遺風なり。其後比牟禮山に宮柱太しく立て上の社と号し、山下に神宮皇后・玉依姫を祭る。然るに天正十壬午年、豊臣秀次此山を城地とす。茲に依て上の社を以て山下に下し下の社となす。今の社地是也。祭礼毎年四月卯の日より午の日に至るまで四日を神事とす。卯の夜氏子数十人炬松をふり立をどり廻る、之を卯の夜踊といふ。午の日は御輿を出し、数多のねり物を出す。末社五社あり、所謂岩戸社二尺五寸、若宮大明神社二尺五寸、百太夫社三尺五寸、大島両大神社五尺五寸、牛頭天王社三尺四方以上也。(略)普門院の記に曰く、八幡宮垂迹応神天皇・神宮皇后・玉依姫也。本地は弥陀・観音・勢至なりといふ。普門院は天台の末寺也。護摩堂・庚申堂・弁財天社等普門院の境内に在り。

 

[願成就寺]日杉山にあり、日杉山普門院願成就寺と号す。始八幡山西南の方に在りしを天正年中秀次城をきづくを以て、鷹飼村に移し其後又ここに移す。縁起に曰く推古天皇二十七年正月上宮太子御年四十八、勅を蒙り、近江国内に四十八箇の寺を建立し玉ふに、終に及んで、当寺を開基ありし故に願成就寺と号せらる。本尊十一面観音立像白檀、聖徳太子の作御長二尺、往古一山五十五坊ありて寺領の千四五百石も有りしに、織田信長比叡山を攻むる時当寺も亦滅亡して僅かに其形のみを存す。(略)

 

 

 いまの近江八幡のあたりは、かつて蚊帳の名産地だったらしいです。

蚊帳って、元を辿れば、漁師の網だったりするんでしょうか(民俗学の領域だな)。

だとすると、琵琶湖で漁をしていた人たちの技術が流用されたのかも、と思ったりします。

だいたいが、神社でいただいた略記の通りですが(そりゃそうだ)、

 

末社五社あり、所謂岩戸社二尺五寸、若宮大明神社二尺五寸、百太夫社三尺五寸、大島両大神社五尺五寸、牛頭天王社三尺四方以上也。」

 

末社への言及がありました。

もともとは享保年間に完成したもののようです(頭註をつけてはいますが、できる限り原本に従った、と序文に書かれています)。

江戸時代には、これらの末社があったことは確かなようです。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 新撰近江名所図会

 

↑続いてこちらの27コマ。

 

「八幡町

郡の西方に偏位し県下屈指の都会にして町数六十六、戸数一千五百、人口七千餘を有し街衢整然商業繁盛なり当町古くは馬場村と称せしが天正十三年豊臣秀次安土城八幡山上に移築する時其城下を茲に移したる者にして其八幡と名づけしは八幡神社ありしに因る

八幡神社
郷社八幡神社八幡山麓にあり元正天皇の代藤原不比の創立にして祭神譽田別尊、比賣神三柱、息長足姫尊とす而してもと山上に鎮座し日群と称せしが後更に山下に一社を建てて之を下社となす佐々木氏当国の守護となるや其家祖敦實親王の霊を本社に配祀し崇敬殊に深かりしと云ふ文治三年源頼朝佐々木氏に命じて拝殿を造立せしめ神田三十餘町を寄附せり然るに天正十八年豊臣秀次城を山上に築くに当り本社を他へ遷移すべき命あり依て上社を下社と合祀し八幡神社と改称す慶長五年徳川家康関ヶ原大捷後西上の途次当社に参拝して神領五十四石餘を寄附せり而して祭祀は毎年三月十五日に行ふ此日は町民各松明を兒ぎて市中を練り廻り後社前に到りて奉火す世に左義長祭と称して有名なり」

 

元正天皇の代藤原不比の創立にして」

 

別の伝承のようですが、これは少々怪しいです。

続日本紀』には、これを思わせるような記事はありませんでした。

ただ、「元正天皇」の時代に、「藤原不比等」の長男「藤原武智麻呂」が近江守に任ぜられていたようなので、この辺りに何か理由があるのかもしれません。

 

「佐々木氏当国の守護となるや其家祖敦實親王の霊を本社に配祀し崇敬殊に深かりしと云ふ」

 

これまた別の伝承のようで。

 

○こちら===>>>

敦実親王 - Wikipedia

 

敦実親王」については↑をご参照を。

神社公式の社伝ではなさそうですが、往時の隆盛を思わせる記事です。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江史蹟

 

↑続いてこちらの88コマを。

 

「八幡町 比牟禮山の下、人家櫛比し、一市街を形成す、戸数千五百、人口六千六百之を八幡町となす、由来近江商人の根拠地として、近江蚊帳の産地を以て其名世に著はる、往昔は宇津呂荘の内、馬場村と云ふ、天正十四年豊臣秀次八幡山に築城して、近江全国を領し、城下に市街を開かんと欲し、安土町より商買を移住せしめ、又寺院等も多く之を移す、爲に一時隆盛の市街を爲せり、町名猶安土の旧名を存するもの多し八幡の町名は八幡社のあるに因る、秀次京師に帰るの後、一旦大に衰へたりと雖も爾来再ひ昌へて今日に至る
八幡神社は正暦二年五月、宇津呂村の松林に鎮座する所と伝ふ、其後比牟禮山に社殿を建て上の社と号し、山下に神功皇后玉依姫を祭る、天正十四年秀次城を築くに及ひ、上の社を山下に移し、下の社と合祀す、今の社是なり、後徳川家光、社領五十四石三斗餘を寄附す、国寶安南船の額等は此社の神寶として其名高し」

 

「安南船」については、

 

○こちら===>>>

crd.ndl.go.jp

 

↑をごらんいただくといいかと。

うむ、あまり新情報はない、と。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江

 

↑はどうでしょう。

36コマより。

 

「比牟禮八幡神社

比牟禮八幡神社は八幡町日觸山下に鎮座す譽田別尊、比賣神、息長足姫尊を祭る、比牟禮の名称の語源につきては古来奇説あり、応神天皇六年三月御幸ありし遺跡に後ち日輪の形、二つ見へたり依て社を建て日群の社と称したりと、又寛平元年三月奥津島の神殿鳴動して火玉飛出て比牟禮社に入る依て火振といふと、両説何れも附会の俗説にして探るに足らず比牟禮は日觸の転訛なり国語にふのむに転ずる例多し日本書記譽田天皇(応神)二年の條に

次妃和珥臣祖日觸使主之女、宮主宅媛、生菟道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女、次妃宅媛之弟、小甂媛生菟道稚郎女皇女、

とあり又古事記には

娶丸邇之比布禮能意富美之女名宮主矢河枝比賣、生御子宇遅能和紀郎子、次妹八田若郎女、次女鳥王(三柱)又娶其矢河枝比賣之弟袁那辨郎女生御子宇遅能若郎子(一柱)

と記され応神天皇が和珥臣の祖日觸使主の女宮主宅媛及び其妹小甂媛を妃となし皇子皇女の誕生ありし事紀記共に見へ日觸或比布禮の古語なるをも知る、又書紀気長足姫尊(神宮皇后)の巻、古事記、帯中日子天皇仲哀天皇)の段に和珥臣の祖武振熊(丸邇臣之祖難波根子建振熊命)が官軍の将として忍熊王を討ちし事もあり和珥氏と応神天皇の関係愈深きを察すべし、此の和珥(丸邇、和邇)氏は孝昭天皇の皇子天足彦国押命に出でし貴族なるは書紀及び新撰姓氏録に證さる、和珥氏の本居は大和添上郡和珥なるも一族夙く山城近江摂津丹波播磨讃岐等に分布せること続日本紀続日本後紀、姓氏録等に明なり、比牟禮山上より湖水を隔つる対岸滋賀郡に和邇村あり其南隣に眞野村あり(眞野氏は和邇氏と同祖)又和珥氏の同族に櫟井氏あり、古事記孝昭天皇の段に天押帯日子命は壹比韋(櫟井)臣の祖と見へ姓氏録左京皇別には櫟井臣和邇部同祖とある其證なり、比牟禮山下に大字櫟井あり今市井の仮字を用ゆるも承保元年三月の長命寺文書には正しく櫟井と記す、当社の神主職たりし一井氏は徳治三年八月の譲状を存して祖先以来の神主たりしを記す、一井市井は共に櫟井の略字なり、之を要するに比牟禮の社名は日觸の転にして和邇日觸使主に由来し応神天皇と深き縁故を有し、和邇櫟井同族が江州に土着し櫟井氏は当社神主職を相伝せる等の事跡髣髴として見へ分布の氏族が其祖神或は縁故ある神を奉祀せし我国古代の例證に鑑みて当社が日觸氏櫟井氏の祖神の斎場たるを推想せしむ、特に比牟禮山下の地は皇室御領として南北朝時代まで連綿たりし等を合せ考ふれば(荘園志参照)皇室との縁故濃厚なりしを證し、応神天皇比咩神神功皇后の三柱を祭神とするより按ずれば応神の皇妃は此の日觸家より入内せしにもやと思はるなり、社伝に当社は古へ山上山下二社あり一条天皇の寛弘二年降臨ありといひ上の八幡と比牟禮社とを別殿なりしが如く記す、当社を八幡神社と記せしは慶安四年の文書を最古としてそれより以前は比牟禮社とのみ見ゆれば古へは比牟禮宮にして南北朝の頃より比牟禮八幡宮と称せしが如しこれ武神顕彰の挙に出てしものか、
(略)
比牟禮庄は鳥羽天皇の皇女八條院の御領にして同院以後天皇門院等相次て伝領あり、後宇多天皇に至りて之を後醍醐天皇に譲り給ひし由緒の地なり、されば右の神主職補任状は領家より源重定を補任し併せて荘官百姓等に承知すべきを介したるものなり、此の源重定は櫟井氏ならんそれより八十餘年を経て徳治三年八月当社正神主一井中務太郎入道生蓮は老病により祖先伝来の正神主職を始め畠地及ひ奴僕を目賀田女房に譲與し同年改元延慶元年十二月に至り神主職は再び領家より一井正観尼に補任せられたりし、按するに目賀田女房は一井生蓮の妻なるべし、
(略)
境内に岩戸神社大島神社若宮神社八坂神社百太夫神社あり明治維新後に宮比神社常盤神社繁元神社を八幡古城山より移す」

 

応神天皇六年三月御幸ありし遺跡に後ち日輪の形、二つ見へたり依て社を建て日群の社と称したりと、又寛平元年三月奥津島の神殿鳴動して火玉飛出て比牟禮社に入る依て火振といふと、両説何れも附会の俗説にして探るに足らず」

 

応神天皇」の時代に日輪の形が二つ見えたので「日群の社」とした、又寛平元年(八八九)に、奥津島の神殿から火の玉が出て社に入ったので、「火振」といった、というどちらの説も取るに足らずとバッサリ。

 

「比牟禮は日觸の転訛なり」

 

ということで、「日觸(ひふれ)」という言葉が登場。

 

「次妃和珥臣祖日觸使主之女、宮主宅媛、生菟道稚郎子皇子、矢田皇女、雌鳥皇女、次妃宅媛之弟、小甂媛生菟道稚郎女皇女、」

 

↑『日本書紀』と、

 

「娶丸邇之比布禮能意富美之女名宮主矢河枝比賣、生御子宇遅能和紀郎子、次妹八田若郎女、次女鳥王(三柱)又娶其矢河枝比賣之弟袁那辨郎女生御子宇遅能若郎子(一柱)」

 

↑『古事記』から引用しており、「菟道稚郎子皇子」を生んだ「宮主宅媛(宮主矢河枝比賣」が、「和邇(和珥、丸邇)」と関係のある「日觸使主/比布禮能意富美(ひふれのおうみ)」という人物の娘だった、とあります。

 

「又書紀気長足姫尊(神宮皇后)の巻、古事記、帯中日子天皇仲哀天皇)の段に和珥臣の祖武振熊(丸邇臣之祖難波根子建振熊命)が官軍の将として忍熊王を討ちし事もあり和珥氏と応神天皇の関係愈深きを察すべし」

 

琵琶湖西岸には「和邇氏」の拠点があったと考えられており、「神功皇后」が三韓征伐から帰ってきたら、皇子二人に反旗を翻され、その征伐のために登場した「武振熊」が「和邇氏」の祖先だった、とあります。

 

「比牟禮山上より湖水を隔つる対岸滋賀郡に和邇村あり其南隣に眞野村あり(眞野氏は和邇氏と同祖)又和珥氏の同族に櫟井氏あり、古事記孝昭天皇の段に天押帯日子命は壹比韋(櫟井)臣の祖と見へ姓氏録左京皇別には櫟井臣和邇部同祖とある其證なり、」

 

↑といった辺りから、古代「和邇氏」は広範囲に結構な勢力を持っていたのではないか、と考えられます。

 

和邇櫟井同族が江州に土着し櫟井氏は当社神主職を相伝せる等の事跡髣髴として見へ分布の氏族が其祖神或は縁故ある神を奉祀せし我国古代の例證に鑑みて当社が日觸氏櫟井氏の祖神の斎場たるを推想せしむ」

 

↑最初の方で出てきた「大嶋大神」という地主神が、ひょっとすると「和邇氏」(「日觸氏」)の祖先神だったのではないか、と考えられるようです。

何なれば、「神功皇后」の出身氏族である「息長氏」も近江に勢力を持ち、その祖先は「丸邇臣の祖」(『古事記』)だったりするので、この辺りは「和邇」系氏族の強い影響下にあったのではないか、と考えられます。

となると、『日本書紀』では、「和珥氏」の祖は「孝霊天皇」の兄弟である「天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)」なので、「大嶋大神」はこの方なのでしょうか……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近江の聖蹟

 

↑最後にこちらから。

29コマより。

 

応神天皇と近江

息長中眞若媛、日觸臣の宮主宅媛、和邇と眞野、日觸と櫟井

神功皇后を母とし給ふ譽田別命は叡聖文武の明君として応神天皇諡号を受けさせられた、乃ち御母は坂田の地に在ました息長宿禰王の女であり、成長後迎へられた一妃、息長中眞若媛は日本武尊の御子息長田別王の孫であり、其腹の御子が稚渟毛二俣王で此王が坂田息長の地に住し給へる等、生母と皇妃と皇子との深き縁故を重ねられ給ひしに思ひ及べば天皇と坂田の縁故は深くして密である、されば其の重縁の地に公然に微行に御幸ありしは必ず有り得べき事なるは推定し得る、只国史に記されざるのみ更に天皇と近江の関係を考ふると天皇が近江に御幸ありて和邇臣の祖日觸使主(ひふれのおみ)之女宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を娶り給ふたことが記紀に見へてある、書紀には之を即位六年二月の事として文に

 

六年春二月、天皇近江国、至菟道野上、而歌之曰ク云々。

 

古事記には

 

一時天皇、近つ淡海の国に越へ幸てます、之時宇遅野の上に御立して葛野を望み歌て曰く云々「中略」木幡の村に到りませる時、其道衢に麗美嬢子に遇へり、ここに天皇其嬢子に問て曰く、汝は誰が子ぞ、答へて曰く、丸邇之比布禮の意富美(おほみ)之女、名は宮主矢河枝比賣と、天皇即ち嬢子に詔して吾れ明日還幸之時、汝の家に入りまさんとのりたまひき、故に矢河枝比賣其父に委に語りき、是に於て父答へて曰く、是は天皇にましけり恐こし、我子仕へ奉れと云つ其家を厳めしく飾りて候らひ待てば、明日入りましぬ、故大御饗を献るの時、其女矢河枝比賣、大御酒盞を取らしめて献りき、是に於て天皇其大御酒盞を取らしめながら御歌よみしたまはく云々。

此くて御合まして生みませる御子、宇遅能和紀郎子にましける也。

 

とあり、即ち近江に御幸さるる天皇が山城の宇治の木幡の途上にて容色美の矢河枝媛に邂逅し給ひ、其女が近江の和邇臣祖、日觸の意富美の娘なるを聞き、還幸の途に其家に御幸すると約し、明日日觸意富美の家にて大酒宴の饗を受け父の許しを得て妃とし給へる記事にて、其子が後に百済より帰化せる阿直岐と博士王仁とに漢学を授かり給ふた賢皇子稚郎皇子である。
扨て天皇が近江に行幸ありしは史に何れの地なるを記せざるも、其還幸の途に和邇臣の祖日觸使主の家に御幸なりしを考ふるに、和邇は滋賀郡の湖涯にある地名で湖西の古き港湾である、又日觸は蒲生郡八幡町に日觸山があり其東麓に比牟禮神社が鎮座ましますから和邇家と日觸家の住地は分明してあるされば此の両家に就て少しく述べる必用がある、和邇臣は姓氏録左京皇別

 

和邇部臣和邇朝臣同祖、彦姥津命五世孫、米餅舂大使主(たがねつきのおふみ)命之後也。

 

と見ゆ、和邇は和珥、和邇、丸邇、等とも書され其本居は大和添上郡なるが如きも夙に山城、近江、摂津、丹波、播磨、讃岐等諸国に同族の分住がある、和邇の名は一に和邇船ともいひ水運に因む故に水濱の地に其名ありといふ、近江滋賀郡の和邇も湖水の一湾港にして貞観九年の太政官符に

 

應に近江國司をして和邇船瀬を検領せしむべき事

 

と題し、此の船津は承和年中僧静安の創めし所云々と見ゆれば後世の事である、すると船津によりて和邇の名が生じたのではなくて上古早く和邇部の分住地たるより其地名を生したことが知れる、麛坂王忍熊王が兵を挙げ給ひし時、神功皇后の討伐郡の将に和珥臣の祖、武振熊命が命ぜられた事は古事記に見へてある、されば応神天皇和邇家の関係は早くよりあつた、其天皇和邇臣の祖日觸臣の女を娶り給へるも亦所以あることであろう、滋賀の和邇の南隣に眞野村がある、眞野臣は和邇臣と同祖である事に思ひ及べば地名に因て名が起る所以も解される、更に和邇臣同族櫟井臣の一家もあつた。」

 

こちらでも「和邇」「日觸」「息長」といった氏族が「応神天皇」を囲んでいることが書かれています。

特に、後継と目されていた優秀な「菟道稚郎子皇子」も、「息長」系の妃から生まれているところを見ると、「応神天皇」の宮廷は、一時は「和邇」系の勢力がかなり強かったのではないでしょうか。

応神天皇」が近江に都を置かなかった理由も、自分の出生にまつわる時点で母「神功皇后」は「和邇」系の「武振熊」を将としていますし、都をおかなくても近江は盤石と考えたからなのか。

あるいは近江が「和邇王国」とでもいう状態で、「応神天皇」といえどもおいそれと立ち入ることはできなかったのか。

後者の方が、面白そうですね。

 

「日觸臣

日觸臣は書紀応神天皇紀に

 

和珥臣祖、日觸使主之女、宮主宅媛云々

 

古事記には

 

丸邇之比布禮能、意富美之女、名宮主矢河枝比賣

 

とあり、日觸を記に比布禮と記す、日觸山は近江八幡町の西に聳ゆる一嶺にして東麓比牟禮宮鎮座す、譽田別尊、比賣神、息長足姫尊三座を祭り、古へは単に比牟禮宮と見ゆるに慶安四年の文書より比牟禮八幡の宮と記すもの出て来る、布と牟は同音の通称、日布禮が比牟禮に訛するは当然の事である、其日觸山の麓なる八幡町の北隣に大字市井がある、市井は櫟井の略字にて承保元年三月の長命寺文書には慥に櫟井臣とあり、亦徳治三年八月比牟禮宮の神主職の譲渡人は一井氏と記されて櫟井は市井と略し更に一井と略用するを明に推知される、此の比牟禮庄は皇室御領として久しく伝領せられ建武の乱後は北朝の領地となった、湖水を隔てる東に日觸山があり、西に和邇港があり、其先祖を同じくする眞野臣が和邇の南隣りに住し、櫟井家が日觸山の麓に住して日觸宮の神主職となつて居る、そして其宮に神宮皇后と応神天皇と比賣神の三座を祀つてあるは正しく古へ日觸臣の住居地により此社壇が祀られ、比布禮宮又比牟禮宮と尊崇されて伝はつたのであろう。今県社である。」

 

↑「日觸臣」に関する記事です。

「ひふれ」が「ひむれ」になった……というのが通説のようです。

何しろ古代のことなので、氏族の姻戚関係なんて追うことはできませんが、琵琶湖周辺で「和邇」「日觸」「櫟井」「眞野」「息長」といった氏族が「同族である」という認識のもと勢力を誇っていた可能性はかなり高いと思います。

和邇」については、大和国添上郡が本拠地と言われているので、天皇家がやってくるより前に畿内一帯に勢力を持っていたのかもしれません。

多分、「和邇」は「ワニ(鮫)」のことでもあって、海洋氏族だったか、あるいは琵琶湖を中心として難波から日本海までをまたにかけていたのか、いずれにしろ船に関係ありそうです。

対して「日觸(ひふれ)」ってなんでしょうね……この氏族が近江に土着して移動しなかっただろうことは、「ひふれ」「ひむれ」という名前の神社が他の地域では見られないことから推察できます(いや、津々浦々歩いてませんので、あったらごめんなさいですが)。

これが「ひむろ」だったり、「むれ」「むろ」であればね……。

「日」の文字が当て字とすれば、「氷」の可能性もありますが、古代からの「ひ」であれば「日」か「霊」か、どっちかでしょうか……。

ということは、「日(霊)に触れる」という、シャーマンチックな氏族なのか。

あるいは「日(霊)を振る」という、「物部氏」でおなじみ「フル」系の氏族なのか……あ、こっちもシャーマンですね(「振る」には、振動させて活性化させる、という呪いがこめられています)。

それで、今の八幡山の山頂に社があったのでしょうか……やっぱり太陽神は山頂にあってこそ、な感じがします。

 

114コマに、

 

「五 成就寺と比牟禮宮

成就寺は蒲生郡八幡町の比牟禮山麓に在つた古刹である。寺伝には聖徳太子の御願四十八ヶ寺院建立の最終建築で依て願成就寺と名づけたと見へてある、比牟禮山は応神天皇の皇后の御里和邇家と連婚の名族日觸臣の住所であるから比牟禮宮の鎮座がある。成就寺と興隆寺とは此宮と関連した古き時代の建立であろう、天正十四年豊臣秀次八幡山に城く時寺を今の観音山上に移した、旧寺跡は県社八幡神社神苑の南方であるらしい、正平十六年(康安元年)十二月八日武佐寺に遷幸になつた後光厳帝は其の二十八日に成就寺に遷幸された、是は将軍義詮が京都恢復の為に大挙して上洛したから帝を此寺に遷し奉つたのであろう、皇代略記に左の文がある

 

康安元年十二月八日、寅刻、幸山門、(依南方軍徒相模守源清氏以下襲来也)同日遷御江州武佐行宮
同廿八日、遷幸同国成就寺、

 

二十七日義詮は京都を恢復したれば京都の捷報は成就寺に遷幸の頃は已に伝へられたであろう、帝は成就寺にて正平十七年の新春を迎ひ給ひ新年の五日に滋賀坂本に遷幸日吉社司成圓の邸を行在所とし、二月十日京都北山の西園寺實俊邸に遷御遊ばされたが、坂本遷幸中の正月八日付にて天下静謐を比牟禮宮に祈らしめられた、其の御綸旨が比牟禮八幡神社に存してあるのは帝と成就寺、帝と比牟禮宮との縁由を伝ふるものである、(略)」

 

最初の方で引用した『近江輿地志略』の中に、

 

「[願成就寺]日杉山にあり、日杉山普門院願成就寺と号す。始八幡山西南の方に在りしを天正年中秀次城をきづくを以て、鷹飼村に移し其後又ここに移す。縁起に曰く推古天皇二十七年正月上宮太子御年四十八、勅を蒙り、近江国内に四十八箇の寺を建立し玉ふに、終に及んで、当寺を開基ありし故に願成就寺と号せらる。本尊十一面観音立像白檀、聖徳太子の作御長二尺、往古一山五十五坊ありて寺領の千四五百石も有りしに、織田信長比叡山を攻むる時当寺も亦滅亡して僅かに其形のみを存す。(略)」

 

↑というような、「(願)成就寺」の記事がありました。

本来、「豊臣秀次」が八幡城を築くにあたって、この「日杉山」に「八幡宮」を移すつもりだったようですが、結局は移されませんでした。

もちろん何かの祟りではないのですが、仮に「比牟礼」の地主神を太陽神だとすると、「日杉山」に移るのはいやだろうなぁ、と思います。

「日が過ぎた山」ですから。

八幡山の麓に移されたときは祟っていないようなので、ま、妄想ということで……。

 

○こちら===>>>

八幡山城 - Wikipedia

 

↑何かネタがないか、と思って「豊臣秀次」の建てた八幡山城のウィキを読んでいたところ、

 

「現在の八幡山は独立丘となっているが、築城当時は東西に内湖があり、」

 

↑ってさらっと書いてあったんですよね。

あれ、これって、見ようによっては「島」じゃないの……と思ったら、「大島神社」の謎が解けたような気がしました。

元々「島」に見えていた、それも八幡山は結構急峻な山で、「大きな島」だった、と。

そんな妄想をしてみました。

 

あと、前回の記事で、末社の「宮比神社」の案内板に、

 

安政五年より稲荷山に祀ってあったのを、明治八年に移建した。古くから百太夫神社を合祀している。天河枝比賣は当社に祀られ本社との関係をもっている。」

 

とあった中の、

 

「天河枝比賣」

 

ですが、これって明らかに「宮主矢河枝比賣」の誤記ですよね。

応神天皇」の妃で「菟道稚郎子皇子」の母、しかも「日觸」氏族の姫ですから、そりゃ祀られているでしょうという感じです。

 

あ、神社の略記の中にあった、

 

持統天皇五年(六九一)藤原不比等が参拝し、和歌を詠んだに因み比牟礼社と改む」

 

なんですが……確かに『日本書紀』には、「藤原不比等」がどうしたこうしたという記事はないのですが、気になるのが、

 

「冬十月の戊戌の朔に、日蝕えたること有り。」

 

という記事です。

いえ、「卑弥呼」の時代と違って、太陽が隠れたくらいで王が殺されるようなことはなかったでしょうが(そして、日蝕の時間も大して長くはなかったでしょうが)。

藤原不比等」を派遣して、「比牟礼社」へと改名させた理由がここにあったりしたら……。

 

 

 

 

 

もう秋ですが、妄想です。

 

 

 

 

次で最後ですが、

 

 

日本の神様読み解き事典

日本の神様読み解き事典

 

 

↑から「百太夫神社」の項目を引用してみたいと思います。

 

「百太夫神は道祖神の一つといわれるが、古くは傀儡師・遊女の強い信仰を受け、また一般には小児の厄除けとしても信仰されてきた。

(略)

そもそも百太夫神というのは朝鮮の万神で、八百万の神を司祭していた覡(げき/男巫子)のことであり、八幡信仰に習合して日本に渡来し、変形した民族神である。

しかし、日本に入ってから、なぜ傀儡師の守護神となった理由は定かではない。おそらく、操り人形が朝鮮から入ってきたものであるということと結びついているのではないだろうか。」

 

この解説だけではよくわからないのですが、八幡様との関係がある、ということのようです。

こちらも掘れば何かネタが出てきそうですが、深そうなので……。

近江はやっぱり深いです。