べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「日置神社」(中区)

(※2016/6/28追記)

4/17。

「冨士神社」の参拝を終えて、ちょっとうろうろ。

大須観音」方面から「東別院」へ抜けようとして、思い出しました、日置神社

 

○こちら===>>>

www.city.nagoya.jp

 

↑「別院」コースに含まれています。

 

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大須観音」→「東別院」の辺りはお寺が多いのです。

 

 

名古屋時代MAP 江戸尾張編 (Time trip map)

名古屋時代MAP 江戸尾張編 (Time trip map)

 

 

↑こういった素敵な本がありますので、ご参考ください。

 

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「式内 日置神社

祭神 主座 天太玉命

配祀 品陀和氣命

配祀 天照大御神

由緒

延喜式尾張國愛智郡日置神社と所蔵せられた式内社である。中世、山城國男山より八幡大神を勧請合祀。永禄三年五月桶狭間の役に際し、織田信長公當社に祈誓あり。戦勝後報賽のため松樹千本を神域に植う。世俗、千本松日置八幡宮と称へ奉る。

例祭 十月十五日

この地、古代に日置部が設置せられ地名・社名これに因む。」

 

天太玉命」は、忌部氏の祖神と言われています。

「品陀和氣命」は「応神天皇」で、「八幡宮」。

天照大御神」がいつから配祀されているのかわかりませんが、新しいのではないかと。

ということは、もともとの御祭神は「天太玉命」で、忌部氏系の神社、ということになるのでしょうか。

 

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狛犬さん。

上が橘、下が麻、でしょうか(神紋のことはまだまだ……)。

橘は町名からきていると思いますが、さて下の紋は……。

 

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式内社の主張。

 

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↑上の案内板と異なるところは、

 

「日置の地名、社名は、日置部のあったところから起こったもので、日置部は暦を司った。」

 

という部分。

 

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日置神社碑」と、刻文を写したもの。

それでも読みづらい……。

ちょっと頑張ってみます。

 

「太古乃代吾 皇祖の国土を修理固成し給ふや民人に時を授るを以て大政の要となし給へり 然れも神代■天櫛耳命は其祖天櫛玉命の御業を継て其神孫を■■■住しめ日置■■暦法を頒布せしめ■■■尾張国愛知郡日置郷其一にて此所は祖神を祀■■日置神社……」

 

すいません限界です(早っ)。

 変体仮名が全然読めません……一覧がネットに転がっているんですが、これが検索しづらくて(まぁそりゃそうです)。

まとにかく、冒頭でわかるのは、「天櫛玉命」の子孫である「天櫛耳命」という方が、暦を司った「日置(部)」なんですよ〜、日本中あちこちにあった中の尾張国ではここですよ〜、ということです。

 

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なかなか太ましい石灯籠。

 

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社殿前の狛犬さん。

やはり麻の神紋です。

 

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拝殿を正面から。

瓦が近代的でしょうか……八幡造の変形なのか、権現造なのか……向拝の二重屋根ってどこかでも見た気がします。

 

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テレポート。

あ、いったん境内から出まして、西側の入り口に向かいました。

 

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主張のある狛犬さん。

作られた時代によるのでしょうが、同じ神社なのに全然姿の違う狛犬さんがいますね。

 

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戦前は郷社でした、の主張ですが、「郷社」の部分に何か埋めた感じがします。

 

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こちらの狛犬さんはオーソドックス。

 

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本参道でもないのに、鳥居が三つもあります(豪華?)。

 

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西側から入ってまずあるのは「芳勲塔」。

忠魂碑の類、のようです。

 

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地元の軍人班、奉公団のみなさまによるもの。

 

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その裏に小さい祠があったのですが……なんでしょう。

 

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その隣に、「大黒社」「恵比須社」。

 

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さらに隣は、「廣宮稲荷神社」と奥の院

 

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それほど大きくないながら、彫刻の造作などはお見事、です。

 

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 本殿の西側の摂社はこんな感じで並んでいました。

 

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本殿……じゃない拝殿(幣殿?)ですね。

左手奥に、少し千木が見えているのが本殿です。

 

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「日置龍神由緒

石上古き御代よりしてこれの椋の齋つ木に鎮り給ふ龍神、御名は日置龍神と稱へ奉る。こたび端無くもさる信者に神教ありしかば標縄結び回らしみ殿を設け奉りて、ここに齋き奉る。

霊験灼然にして、諸もろの疾ひの憂き湍に苦しむ蒼生をば救ひ給ひ、各自の祈き事をも叶へ給ふ、阿奈かしこ、あな尊

諸もろの疾ひを癒し諸苦より救はせたまふ奇霊たふとし」

 

社殿東側です。

写真に収まりきってないですが、立派なご神木です。

 

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正面参道途中にありました。

神楽殿……でしょうか。

 

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ちゃんとした(?)力石。

 

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 社殿遠景。

 

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社務所前の「椨の木」。

 

「当樹は、樹齢数百年を経た椨(タブ)であるが、平成十一年の台風により今日の姿になった。

そもそも「椨」は海上からの漂着神の憑る神聖木であり、暖地性のクスノキ科の常緑高木である。したがって北陸能登等の海岸地帯にこの樹木が多いのは黒潮が運んだ種子の漂着が原因であると思われる。因みに、「椨」(禁忌)の社へは禁足の信仰がある。」

 

むうう……民俗学の範疇の話ですね。

 

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さらに遠景。

 

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正面参道、鳥居をくぐって左手の摂社には、葵の御紋が。

 

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「津島社」「熱田社」「秋葉社」を合祀した祠と、「橘社」という尾張第二代藩主である徳川光友公をお祀りしたお社でした。

この神社のある辺りの地名は「橘」です。

徳川光友公と橘の関係は、

 

○こちら===>>>

www.city.nagoya.jp

 

↑をご覧くださいませ。

 

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もちろん入れません。

 

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鳥居の辺りからの遠景。

 

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御朱印にも麻の紋(しかも「麻葉」と書き添えていただきまして)。

いつも神職さんがいらっしゃるかどうかわかりません(たまたま遭遇しただけかも……)。

 

さて。

いつものように引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑の88コマより。

 

「日置八幡宮

妙善寺の西隣なり。日置村の地なる故かく呼べり。[延喜神名式]に愛智郡日置神社、[本国神名帳]に従三位日置天神と記せるは此社なり。[新撰姓氏録]に『日置朝臣応神天皇大山守王之後也』とあるを見れば、日置朝臣等が祖神に、応神天皇を祭り奉れるならん。

 

千本松
日置八幡宮の邊をいふ。信長公桶狭間合戦の時、日置八幡宮に祷られしに、瑞応ありて勝利を得たまひし故、報賽のため松樹千株を植ゑられし故、千本松といひしが、寛文年中町屋となれり。されど今も此邊に古松数多のこれり。」

 

日置神社八幡宮)」と、「織田信長」の植えた「千本松」のことが書かれています。

式内社なので、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑も(406コマ)。

 

日置神社
日置は幣岐と訓べし ○祭神日置朝臣祖歟 ○山田庄日置村に在す、俗千本松八幡宮と称す。 集説 ○古事記、 応神段 大山守命者、幣岐君等之祖、 姓氏録 右京皇別 日置朝臣応神天皇皇子大山守王之後也、
類社
近江国高島郡信濃国更科郡、若狭国大飯郡加賀国江沼郡、越中国新川郡、但馬国氣多郡日置神社、各一座
国内神名帳云、従三位日置天神」

 

ついでに、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑も(168コマ)。

 

日置神社 称日置八幡
祭神 応神天皇
今按姓氏録に日置朝臣応神天皇々子大山守王之後也古事記 応神巻 に大山守命者幣岐君等之祖とあれば実は大山守命を祭るれるに応神天皇を配享せしが後に八幡と云るより主客をとりたがへて大山守命の御名はかくれ玉へるものなるべし姑附て後考に備ふ
祭日 九月十四日十五日
(略)」

 

え〜、今のご祭神は、主祭神が「天太玉命」、配祀として「応神天皇」「天照大御神」ということになっているのですが、江戸の頃は「応神天皇」が重要視されていた……というか八幡様ですから、そうなるのが当たり前で。

神社の案内にあった、「中世、山城國男山より八幡大神を勧請合祀。」というところから、元々のご祭神はおそらく「大山守命」で、そのあと「応神天皇」を勧請したところ、「応神天皇」が主祭神になっちゃった、だから(おそらく明治の段階で)祭神を変更しましたよ、ということでしょうか。

「大山守命」といえば、

 

○こちら===>>>

「宇治神社」「宇治上神社」(考々) - べにーのGinger Booker Club

 

↑でも紹介していますが、「応神天皇」の王子の中でも著名な「菟道稚郎子

「大鷦鷯尊(仁徳天皇)」とともに登場し、「応神天皇」の質問にうまいこと返事ができず山川林野を司りなさいと言われて(ま、左遷ですね)、納得できなかったので「菟道稚郎子」を討とうとして返り討ちにあった方です。

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 

古事記』を見てみると、「土形君、幣岐君、榛原君等の祖」とあります。

この「幣岐君」が、「日置」朝臣として『新撰姓氏録』に掲載されている(日置朝臣応神天皇々子大山守王之後也)ものと考えられているようです。

ん〜……でも、だったら明治の頃に主祭神を「大山守命」にせずに、「天太玉命」にしちゃったのはどうしてなんでしょう。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑の11コマより。

 

日置神社
橘町に坐して今は八幡と称す 延喜式神名帳に愛智郡日置神社尾張国神名帳従一位日置天神とあり鎮座の年月知かたし 社説に応神天皇を祭るよしいへり さて此橘町といへる此社地は日置庄日置村にて旧は松原町といへりしを後に今の名に改られたり そもそも日置といふ地は諸国にあまた例ある名にて先和名抄に大和伊勢尾張安房能登越後丹波丹後但馬因幡出雲周防長門肥後なとにみな日置といふ郷名見ゑたる中に伊勢越後但馬周防長門には比於木と訓註し能登国珠洲郡あるには比岐とかけうを自餘訓註なき傍にみなヒオキと仮名訓つけたるは後人のさかしらにて信難し 当国海部郡 今の海東郡日置村にてかの和名抄に見えたる日置と混すべからず なるは今俚語にヘキといひ当社のはヒオキと呼ならへり 然れはヘキともヒキともヒオキとも呼ならはせる異ありて一向にも決かたき事を知へし 又今の俚語に海東郡なる日置をヘキといへるはヒヲキの本後ともいふべき 古事記に幣岐とあるに合り 是正しき古言の存れるともいふへきなり 此知はいにしへにその日置と呼氏人の代々住りし知にて其祖神を祀れるを疑なからむ この日置といふ氏は姓氏録 左京皇別 日置ノ朝臣応神天皇皇子大山守王之後也とありこの大山守王は古事記にも書紀にも品陀和気命 書紀には譽田天皇とかかれたり応神天皇と称すはこの天皇なり の高木之入日賣命に御合まして生給へりし皇子なり 書紀には大山守皇子之土形君榛原君凡二族之始祖とありて この日置氏を脱せるを古事記に是大山守命者 土形君幣岐君榛原君等之祖 と見ゑたるは伝の正しさなり この幣岐君とあるはすなはち日置君にて後に朝臣といふ姓を給はりて日置朝臣といへり 此處と同例の神社は延喜神名式に近江信濃若狭加賀越中但馬なとに見ゑたり 其中には此處と同神を祭れるもあるへし 又此社を寛永正保の頃まては世に千本松八幡と申さるとそ 其故は府志に伝云平信長桶峡之役出軍祷此祠有霊鳩之瑞果報捷故植松千株以賽之因呼曰千本松後世建商家名橘陌今僅存一松林耳といへるごとし(略)」

 

↑「日置」は「ヒヲキ」なのか「ヘキ」なのか、という考察がされています。

「日置部」というものが、暦を司っていたと考えるならば、読みとしては「ヒオキ」か「ヒヲキ」ではないかと思います。

「暦」は「日読み」のことだと言われています(ただ、その読み方がどうして「カヨミ」→「コヨミ」なのかについて何となく納得できていないんですが……「月読み」が「ツキヨミ」なら、「日読み」は「ヒヨミ」であるべきで……ああこういったことは専門の方に任せておきましょう)。

ということは「日」が関係しているわけで、「日」は概ね「ヒ」と呼ばれます。

「オキ」が何を意味しているのかわからないのですが(太陽の運行に合わせて何かを「置いた」のかもしれないです)「ヒオキ」が音韻変化して「ヘキ」になりますかね……「ヒオキ」→「ヒョオキ」→「ホキ」、が普通考えられる変化だと思いますが……「ヒヲキ」ならなるんでしょうか。

 というわけで、私は何となくですが、「日置」と「幣岐君」はもともと別だったのに、どこかで一緒になってしまって、そこから祖神に関する伝承(「応神天皇」の皇子「大山守命」)も混ざってしまったのではないか、と思います。

 

ところで、

 

風土記 (平凡社ライブラリー)

風土記 (平凡社ライブラリー)

 

 

↑の『出雲国風土記』をつらつら見ていると、

 

「意宇の郡

舎人(とね)の郷 (略)

志貴島の宮に天の下をお治めになった天皇欽明天皇)のみ世に、倉舎人(くらのとね)君らの祖日置臣(へきのおみ)志毗が大舎人としてお仕え申しあげた。すなわちここは志毗が住んでいた所である。だから舎人という。ここに正倉がある。」(p169)

 

「新造の院、一所 山代の郷の中にある。郡役所の西北四里二百歩である。厳堂(金堂)を建立している。《僧はない。》日置君目烈(へきのきみめづら)の造ったものである。《出雲の神戸の日置君猪麻呂の祖(父)である。》」(p172)

 

「出雲の郡

新造の院、一所 河内の郷の中にある。厳堂を建立している。郡役所の真南一十三里一百歩にある。旧の大領の[日]置部臣布彌(おきべのおみふね)の造るところである。《今の大領佐底麻呂の祖父である。》」(p209)

 

といったように「日置君」や「日置臣」がちょくちょく出てきます。

で、平凡社風土記』の注によれば、

 

「倉舎人君らの祖 『姓氏録』に高麗国の人伊利須使主の後裔と伝える日置造・日置倉人がある。倉はおそらくは製鉄現場の谷の意。大舎人は天皇に近侍して身辺の警護・雑用の任にあたったが、ここの舎人は製鉄場の親方の意であろう。日置は氷置の意らしく鉄器の仕上げに関係があるらしい。欽明期に鉄工として奉仕したことをいったものであろう。帰化人の工人である。」(p253)

 

とあります。

ほほう、と思って『新撰姓氏録』を紐解……こうにも手元にはないので、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 群書類従. 第十六輯

 

塙保己一大先達による『群書類従』に『新撰姓氏録』が収録されていますので、こちらから。

101コマです。

 

「左京諸蕃下

(略)

日置造
男馬王(高麗国人伊須意彌之後也)裔孫䒾古君之後也。」

 

平凡社版『風土記』の言っているのは、どうもこの部分のようです。

え〜……読めませんけれどもね。

新撰姓氏録』で「日置朝臣」(「大山守命」の子孫で「幣岐君」のこと?)と言われている集団と、同じく『姓氏録』で「日置造」(高麗系の一族で、鉄工関係者?)と言われている集団は、起源も何も違っているのですが、それがどこかで混ざっちゃったのかもしれない、と思うんですが、だったら祖先の話も一緒にしちゃいますよね……。

で、『新撰姓氏録』のどちらの「日置」集団にしても、自分の祖先ではありえない「天太玉命」を主祭神に据えたのは、どんな理由からなんでしょうか。

神社の神紋「麻の葉」は、徳島県にある「大麻比古神社」が用いています。

 

○こちら===>>>

阿波國一の宮 大麻比古神社

 

↑神社の由緒を公式HPで読むと、主祭神として「大麻比古大神」をお祀りしており、それはどうやら「天太玉命」と同一視されると。

古語拾遺』によると、阿波の忌部の祖神として、「天日鷲命」の子孫がおり、これが「天太玉命」の孫「天富命」に率いられて阿波を経営し、梶や麻を植えたとされています。

広成おじいちゃんの主張はともかく、元々の忌部の祖神としての「天太玉命」、阿波の忌部の祖神としての「天日鷲命」など、忌部の祖神が複数想定されているのは、本来得意とする技術、あるいは住んでいた地域によって氏族化していた人たち(品部)が、忌部の元に緩やかな大きな集団を築いた、と考えるのが常道でしょうか。

そして、その中に「日置部」がいたとすると、忌部の祖神をお祀りしていても不思議ではないわけです。

それがどこかで、「大山守命」の子孫「幣岐君」と同一視され(祖先が誰だかよくわからなくなった)、その縁で「応神天皇(八幡様)」が勧請され、「八幡宮」になってしまった。

明治期にご祭神を変更する過程で、「大山守命」ではなく「天太玉命」を選んだのは、おそらく「大山守命」が当時の皇太子である「菟道稚郎子」に弓を引いたからでしょう。

「大山守命」だって、「応神天皇」の皇子には違いなく、立派な血統であるにも関わらず選ばれなかった……そんなにメジャーじゃなかっただけかもしれません……。

では、と「天太玉命」をご祭神に持ってきた理屈は、結構アクロバティックだと思います。

 

「大山守命」はだめ。

八幡大菩薩」は「応神天皇」にすればそれでいいのだけれど、「大山守命」は逆賊扱いするので、その父を主祭神に持ってくるわけにはいかない。

ではどうするか。

「日置部」も「品部」の一つと考えれば、元をたどれば忌部だろう。

じゃ、「天太玉命」でいいんじゃないの?

 

というやっつけ仕事で決まったわけではないと思いますが……「天太玉命」を引っ張ってくるだけの理由が、他に思いつかないんですよね。

他の地域の「日置神社」を調べれば、何か出てくるかもしれないので……宿題にしておきます。

日置神社碑」に出てきた、「天櫛玉命」とその子孫「天櫛耳命」のことが、いまひとつわかりません……「天櫛玉命」は『先代旧事本紀』には出てくるのですが、「鴨県主の祖先」となっていて、忌部とのつながりがよくわかりません……まあ、ネット検索すれば出てくるのですが、元となる文献が不明なもので……ひょっとしてこの二柱が、「天太玉命」とのつながりを持っているのかもしれないです。

 

▽(※2016/6/28追記)

 

いやあお恥ずかしい。

いえ、何事かって、『日本書紀』垂仁紀三十九年条、「石上神宮」のところで「五十瓊敷命」が剣を千振り作った、っていう例のあの話のところで、

 

「一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名は河上に喚して、大刀一千口を作らしむ。是の時に、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷せて十箇の品部(とものみやつこら)もて、五十瓊敷皇子に賜ふ。」

 

と。ばっちり日置部」が出ていたんですね。

 ちなみに、岩波書店文庫版『日本書紀(二)』の注によると、

 

「日置部も前後の例と併せ考えて神事に関係ある部かとも思われる。日置部の伴造である日置氏は、のち主殿寮の殿部となり、打燭・炭燎の仕事にあたっていたことから推察すると、この部は剣など武器鍛造の際の炭燎に当っていたものか。その分布はほぼ全国にわたる。」(p355)

 

とあります。

暦がどうとかではなく、炭火を燃やす係だったのではないか、と。

となると、実際には「火を熾す」から「火熾し」「火熾」「日置」……という変遷をたどったのかもしれません。

が、「火」は「ほ」だったのが上代で、どのあたりから「火」も「日」も「ひ」になったのでしょう……いや両方使っていたのかもしれないんですが。

あ、あと、『新撰姓氏録』をきちんと最後まで読んでみたら、「未定雑姓」の部分に、


「日置部
天櫛玉命天櫛耳命之後者。不見。」

 

ってばっちり書いてありました。

いや、謎が解けてよかったよかった。

「日置部」が、忌部に関わる部だったかどうかはわかりませんが、「倭文」や「玉作」は忌部に関係ありそうですので、もうそれでいいことにしましょう(?)。

というわけで、文献はきちんと最後まであたりましょう、という反省です(まあ、様々な先達が、記紀あたりのことはかなり研究してくださっているので、見落とさなければどこかで発見できるんですが)。

 

(※2016/6/28追記)△

 

 

日置神社」のすぐ近くにはいくつもお寺があり、南に下れば「古渡稲荷神社」や「闇森八幡社」、北には「大須観音」、東には何と言っても「東本願寺東別院」、とかつての寺社町の名残を感じることができます。

街中に、それほど大きな境内ではないですが、緑多く佇む、良い神社でした。