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「金山神社」を後に、大きな交差点を西に渡ると、(ほぼ)堀川沿いにあるのが「住吉神社」。
○こちら===>>>
あ、左下のはスマートフォンのカバーですのでお気になさらず。
「住吉社記
(略)
例祭 十月第三曜日
前日土曜日
模擬店あり
由緒 享保十九年摂州住吉神を勧請。
当初新尾頭町道筋東側の小堂内に鎮座
したが宝暦十二年にいたり社域を現所に
さだめ大坂廻船名古屋荷主の笹屋惣七
藤倉屋長六ら極印講中十二名は運漕守
護のため社殿を創建して神儀を
した 後に江戸廻船講中時田金右
も信者に加わり修営のことおこたら
霊は遠く伊勢知多熊野の沿岸にもおよ
んだ 別にまた境内の人丸天神両者をあ
わせて和歌三神としての崇敬がおこり松
坂屋先祖伊藤祐民は社前に有志を
和歌法楽をもよおしておびただしき
を献ずるところがあった 社地は堀に
切り立った高台を占め西南にひらけた眺望に
さえぎるものなく名勝とせられた
明治初年村社列格 大正十五年幣帛供進社に
指定せられたが昭和二十年戦災にかかり
都市計画により境内の縮小をみた
境内社 人丸社 天神社 津島社
秋葉社 住吉霊社 山賀稲荷社」
……写真を撮ったときには気づかなかったのですが、柵のせいで文章の下の方が読めなかったりします。
足りない部分は、なんとなく補ってください。
「十月第三曜日 前日土曜日 模擬店あり」……この部分はガムテープ貼ってありますよね……。
いきなりですが、「住吉社」。
向かって右の「人丸社」。
向かって左の「天神社」。
それぞれ和歌に縁のある、ということで「和歌三神」と呼ばれたのでしょう。
和歌に縁がある人は、日本には山のようにいらっしゃいますが。
向かって右手から本殿。
「山賀稲荷社」。
天気に恵まれていますね。
ええと……どちらかが「津島社」で、どちらかが「秋葉社」。
あまり近づいて写真を撮っていなかったようです(なぜだろう?)。
あ、神社で配布されている由緒書によれば、右が「津島社」です。
「御霊社」。
太平洋戦争の戦没者をお祭りしています。
左右にあるのは、日露戦争、日清戦争辺りの戦没慰霊碑でしょうか。
境内にある句碑です。
由緒書によれば、
「「夜の雲見んと暮雨叟に具せられて」
月と雲と大地のたらぬ今宵哉 圃暁
この蘆原に川千鳥啼 暁臺
たのみある一木は松にあらはれて 士郎」
と書かれているそうです。
建立は享和三年(1803)らしいです。
和歌三神なんて言っているので歌碑かと思ったら句碑でした。
昔は俳句、ありませんでしたからね。
○こちら===>>>
↑本家「住吉大社」にも、巨大な石灯籠がたくさんありましたが、こちらもなかなか。
うっすらと彫り込まれた模様に職人の腕を感じます。
境内からは撮影しませんでしたが、結構な高台にあります(風景を撮影する、ということが頭になかったです)。
鳥居の向こうには蕃塀、という愛知県に多い様式ですね。
どうやら「名古屋城建設守護神」だったようです。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑より引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
258コマです。
「住吉社
尾頭町西側にあり。もと小社なりしを、宝暦十二年三月一庵を建立し、黄檗宗東輪寺より、栢禅和尚来りて住持せり。社地堀川東岸にして地高く、西の方郊谷にのぞみて風景甚よし。
本社 祭神底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后。
末社 天満宮。綱敷天神の画像、菅公の御自筆なり。
人丸祠 頓阿の作にて、北村季吟の所持せし古木像なり。
例祭 三月十五日・八月十五日。ともに神楽あり。」
「黄檗宗東輪寺」というのは、
○こちら===>>>
↑名古屋市中区にあるこちらのことではないかと思います。
「頓阿」という人、聞いたことがあったのですが、名前しか出てこなかったので、
○こちら===>>>
↑こちらでご確認を。
「北村季吟」については名前も知りませんでした。
○こちら===>>>
↑こちらをご覧ください。
同じコマには図絵があるのですが、すぐ西側が堀川、ということが、今ひとつはっきり見えないです(なんとなくわかりますが)。
「本殿」「天神社」「人丸社」の配置は現在と同じです。
また、
↑のp119には、
その創建は不明であるが、宝暦十年(1760)海鮮運送問屋連中によって復興した記録がある。そして車内の天満宮は船頭連中の信仰を集めていた。宝暦十一年には東に地蔵堂が建増された。江戸末期頃近隣の子供に「よみ」「かき」を教えていた。これが因縁か、明治七年小学校令が発せらるるや第二十九義校と称してこの地蔵堂が当てられ、世人は住吉学校と呼んだ。後十五年に神社西隣に新校舎ができるに及んで之に復した。この境内に三吟塚がある。
□三吟塚(同)
中部日本における俳諧の雄圃暁、暁台、士朗の句が一石に彫してあり三吟塚という。
夜の雪見んと暮雨菴に見せられて
月と雪と大地のたらぬ今宵哉 圃暁
この芦原に川千鳥啼 暁台
たのみある一木は松にあらはれて 士朗
背に「甘□練石、補天師兼友和調」戸補拙二三句婉麗也峩々」洋々之志宜病巧癈依寸石彫奉納斯此内者矣」
享和三癸亥春三月(一八〇三) とある。
なお市橋鐸氏の説によると芭蕉の小田塚の句碑が、芭蕉翁百回忌前年寛政壬子(四)夏六月(1792年)南路坊黙我(鍵屋卯兵衛とて両替町今の京町に住んだ薬屋俳人)によって地蔵堂近くに建てられ、後住吉神社内に移されたが、明治以降は行方不明になっているそうである。
句は”世に旅を代かく小田の行きもとり”芭蕉最後の旅、元禄七年頃の作ということである。
東へもどると北側に金山神社がある。」
句碑には「三吟塚」という名前があったようです。
「隣りの地蔵堂で寺子屋をしていたら、いつの間にか小学校にされちゃった」、って結構大きな話のような気がします。
「海運守護」のための「住吉神社」、「読み書き」のための「天神社」「人丸社」。
時代と土地の要請があったからこそ、の成立だったのでしょう。
御朱印はありません〜。