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「新宿十二社熊野神社」の参拝を終え、誕生日会まで間があったので、もう少し……と思ってうろうろしていたら発見、「成子天神社」。
◯こちら===>>>
参道の先に朱塗りの鳥居が待ち構え。
なんか、奥までつっきったら、「木花咲耶姫命」の像が。
そのお隣は「浅間神社」です。
富士塚があるそうで。
「大正九年(一九二〇)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。
富士塚は、江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。
成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸藤成子講が奉祀していたもので、最盛期には約二〇〇名の講員がいましたが、現在は活動していません。」
……なんでまた大正になって富士塚だったんでしょうか……江戸期に流行ったのって、やっぱり噴火が原因だったのでしょうか(当時はいろんな講がありましたし、御嶽や白山に比べれば、近くの富士山に目が行くのも道理ではあります……近いし……勉強しないと)。
こちら富士塚です。
後ろにビルが建ってて、規模がよくわかりません。
こちら境内で「七福神」巡りができるようで、まずは「寿老人」。
拝殿。
新しい……のかな。
拝殿脇に、力石が。
「福禄寿」。
狛犬さん……すり減ってるね。
「弁財天」。
狛犬さんその2。
マッシブ。
石灯籠。
神紋は、天神様ですから、梅です。
灯篭の基部。
先ほどのマッシブ狛犬さんを彷彿とさせる意匠でした。
しつこく石灯籠。
しつこく基部。
拝殿遠景。
真後ろにもビル……新宿だなぁという普通の感想。
境内摂社。
謎の三つ足鳥居。
井戸の汲み上げポンプも、それ自体文化財ですね。
神門……に「風神」様「雷神」様。
「毘沙門天」。
由緒書。
「千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹が茂る清らかな神域が広がっておりました。
平安時代の延喜三年(九〇三年)、九州の太宰府で菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りました。そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立されたのです。
その後、徳川三代将軍家光公より春日局に柏木鳴子の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を造営。明治二十七年成子神社と改め昭和三年成子天神社と改称。その後戦災消失、昭和四十一年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。」
なるほど、新しいわけです。
瓦と扁額。
「大黒天」。
「恵比寿」。
社標。
……あれ、「布袋」尊忘れてる……。
御朱印。
デザインが面白いです。
さて。
◯こちら===>>>
大日本地誌大系. 第1 第1冊 新編武蔵国風土記稿壹 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『新編武蔵風土記稿』の柏木村の項に、(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)
「◯天神社 寛文年中本社を成子町へ移しければ、ここは元天神と云」
とありまして(p238)、成子町の項を探したのだけれど見つからない、その前のところをよくよく読んでみると、
とあり、さらに、
「成子町 淀橋町 以上二所御府内の條に辨す」
とあるものですから、なるほど武蔵国ではなく江戸(御府内……いわゆる朱引の内側)になった、ということかとようやくわかりました。
で、『御府内備考』を探してみたのです。
◯こちら===>>>
大日本地誌大系. 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
見つけづらい……p237です。
と、紹介しようと思ってざっと読んでみると、成子の地名譚なんかは掲載されているのですが、天神様の話はなく、「神明社」があったことが書かれているくらい……まあ、『御府内備考』は『新編武蔵風土記稿』と違ってあくまで「備考」のようですから……。
公式の由緒書をある程度信頼するとして、東国でそんな早くから天神様がなぁ……というのが正直な感想です。
まあ、元々は「大神宮」として「天照大御神」が祀られていたようなので、それが「神明社」なのかもしれません。
「春日局」が勧請した、というのを信頼するとしたら、実際の創建は江戸初期で、古そうな由緒は後付けかもしれません。
郷土史家のみなさんにお任せするしかないですね……。
神社としては面白かったです。
私なんかの世代は、成子といったら「フォークダンスde成子坂」……時代……。