さて。
前回の記事中、
◯こちら===>>>
「高座結御子神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑でも引用しました『尾張名所図会』ですが、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
↑254コマから、再度引用します(旧字は改めた箇所あり/判読不能文字は■で代用)。
「高座結御子神社
新はたや町東なる田野にあり。社地甚広く古木繁茂し、遠望するにもいと尊く神さびたり。熱田摂社七社の一社なり。高蔵宮と称す。[延喜神名式]に高座結御子神社(名神大)、[本国神明帳]に正二位高座結御子名神としるし、[続日本後紀]承和二年十二月壬午の記に『尾張国(中略)高座結御子神奉預名神並熱田大神御兒神也』と見えたり。
拝殿
水門神(みとのかみ)祠 祭神速秋津神
新宮祠 祭神素戔嗚尊。ともに境内にあり。其他小祠多く、又廃祠もすくなからず。本地堂に毘沙門天を安置せしも、今は社人の家に納む。しかれども例年正月三日には、当社の神供所にて此像を開扉し、諸人に拝せしむ。神像は弘法大師の彫刻なり。又此日神前にて、きざみたばこ、或は飴にて作りし小判を商ふ。俗に御福といひて必ずもとめかへる事なり。
抑当社は熱田大宮に続ける大社にして、凄然たる森林・鳥聲・風籟まで耳に異なり。さながらいみじくぞ覚ゆる。
麦畑へ風の端やるしげりかな」
「水門神(みとのかみ)祠 祭神速秋津神」というのは、「記紀」においても「水戸(みなと)の神」で、「速秋津日子神」、「速秋津比売神」とされているのでまあいいでしょう。
「海神祠 祭神蛭子神・大黒天神」というのはどうなんでしょうか。
「蛭子神」はいいとして、「大黒天神」も一緒に「海神祠」で祀ってしまうというのは何とも……せめて「恵比須祠」とかにするべきだったのではないでしょうか。
『史跡あつた』という本では、
とあります。
「神功皇后」は、「高座結御子神社」の祭神とされる、「仲哀天皇」の妃で、『日本書紀』中、唯一「皇后」でありながら単独で記事立てされている人物です。
あの「三韓征伐」に出向いた人物でもあります(真偽はともかく)。
その際、自ら武器を取って戦ったと言われています(夫である「仲哀天皇」は亡くなっています)。
それが斧鉞だったり、矛だったりするようですが、ともかく柄の長い武器だったのではないかと。
また「武内宿禰(たけしうちのすくね)」は、「景行天皇」から「成務天皇」「仲哀天皇」「応神天皇」「仁徳天皇」と五代にわたって仕えた、伝説上の忠臣です。
特に、「神功皇后」の「三韓征伐」の際には、重要な役目を担っています。
「鉾取命」がどちらだったにせよ、「仲哀天皇」を祭神と考えた際に出てきたものだと思われます。
ですので、
「仲哀天皇」が祭神になったときに、付随してお祀りされたのか。
あるいは、
「高倉下命」が祭神のときには、また別の神がお祀りされていたのか。
ん〜、でも、仮に「高倉下命」と対になるような、武器を表す神様としたら、「建御雷神」か「韴霊剣」のどちらかしかないと思うのですが。
さてさて、『史跡あつた』の「高座結御子神社」の記事には、
「同神社境内に大国主命の御子木俣神を祭神とする御井社がある。俗称「いとのそき」神事とて七月土用の入子供の虫卦によいと信仰を集めている。この起源は昔王女が重病で苦しんでいられた時これを竜と化して治したのが木俣神の御霊で、棲かがなくてその功によって与えられたのがこの高座の杜の井戸であったという。それでこの井戸の水をいただくとおこりがなおると語りつたえられた」
とあります。
また、

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↑の「熱田大神宮」の記事では、
「(略)高蔵社の側に鉾取祠、水神祠、新宮あり。この社頭の石を携えて旅立ちするに恙なし。帰路には倍して返し奉る風俗(ならわし)なり。」
とあります。
「井戸のぞき」や「子預け」が全然出てこないので、大して有名じゃなかったのか、近世以降に作られた伝承なのか(古い伝承、というものは、比較的新しい時期に作られることもあります)。
地元密着の祭なので、観光客向けの『名所図会』には載らなかっただけ、という可能性はあります。
ただ、↑の、よくある習わしですが、これが「十五才まで子供を預けて、御礼参りをする」という「子預け」にちょっと似ているな、と思ったりします。
……え〜、盛り上がりにかける補遺でした。