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神社仏閣ラブ(弛め)

「生田神社」(補)

さて。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第6編摂津名所図会

 

↑『摂津名所図会』もあるのですよね(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

163コマです。

 

「生田神社
生田宮村にあり。[延喜式]に曰く、名神大、月次、相嘗、新嘗。近隣二十四箇村の生土神とす。例祭七月三十日、又八月二十日。古は生田川の水上砂山にありて、地名を生田長狭国と称す。武庫郡の広田国の類なるべし。例祭にむかしは神輿を兵庫の津・和田の御崎まで神幸あり。其時砂山瀧之寺并に村甲海上氏供奉す。中頃此事絶えたり。今も遺風ありて、海上氏烏帽子装束にて、八月二十日の祭には神輿の神役を勤む。農家に海上氏大切なるによつて、享保年中白川家より村田氏を賜るなり。
祭神 稚日女尊 俗に天照大神の御妹とす。なほ神秘あり。
摂社 神殿東より第一住吉、第二八幡、同西より第一諏訪、第二日吉。
裔神八前 咸域外にあり。一ノ宮北野村、二ノ宮生田村、三ノ宮神戸村、四ノ宮花熊村、五ノ宮平野村、七ノ宮兵庫北浜町、六ノ宮・八ノ宮は倶に坂本村にあり。
日本紀]に曰く、稚日女尊坐于斎服殿。而據神之御服也。素盞嗚尊見之。則逆剥斑駒投入殿之内。稚日女尊乃驚而堕機。以所持梭傷體而神退矣。[同巻]に云く、稚日女尊誨之曰。吾欲居活田長狭国。因以海上五十狭茅令祭之云々。
[三代実録]に曰く、貞観元年正月奉授従四位下。同十年二月生田神加従三位云々。
天照大神 本社の東南向にあり。
稲荷祠 本社の東西向にあり。
和歌宮 稲荷の南に隣る。
雷大臣祠 和歌宮の南に隣る。
神楽殿 中門の外、東の方。
蛭子祠 中門の外、東向にあり。
弁財天祠 中門の外、東向にあり。
絵馬殿 西の方にあり。
梶原井 中門の外、東の方にあり。
箙梅 中門の外、西の方にあり。
神功皇后釣竿竹 絵馬殿の南にあり。
敦盛萩 中門の外、西の方にあり。
生田池 社頭にあり。
(略)
それ社頭は、前は海、後は山にして、生田浦・生田海・生田川・生田杜・生田里等の古詠多し。海浜の神燈は、夜走船の極と成り、磯辺の鳥居より本社まで、馬場八町、梅・桜左右に列り、其中を海道貫きて、行人絶間あらず。梅匂ふ春のあしたより、鶯の初音神籬にのどけく、特に箙の梅はくれなゐの色こく、むかしにかはらず。桜花の盛は、遠近人ここに円居して、酒のみ物喰ひ、詩作りて幽艶を賞し、さながら雲と見れば雪と散り、磯うつ浪に誘ひつれて、浦漕ぐ船に香を送る。抑桜の名所といふは咸山にして、吉野・嵐山などなり。ここは海浜にして汐風にもまれ、枝々風流にたわめるよそほひ又奇なり。原此地は寿永・元暦の戦場にして、一ノ谷の城郭、生田の森は大手の軍門、源氏の五万騎ここに押しよせ、梶原が二度懸、あるは源太が花箙は、[源平盛衰記]に賞し、延元には尊氏と新田と、生田森を後にあてて闘はれたる事、[太平記]に見えたり。今は旧跡のみにして、神徳はますますかがやき、四の海おだやかに、春秋の風色いとみやびやかに、摂津一州の勝地とぞ知られける。」

 

図絵もありますので、ご参考に。

古代の姿はもちろん、源平の頃の様子もあまりわかりませんが……「梶原景季」が超有名人のようだ、ということは何となくわかりました。

平家物語』も『源平盛衰記』も当たってませんけども……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

延喜式』の式内社なので、こちらもみておきましょう。

300コマです。

 

「生田神社(略)
生田は以久多と訓べし、(略)◯祭神稚日女命◯福原荘生田宮村に在す(略)
日本紀、神代上、一書曰、稚日女尊坐于斎服殿。而據神之御服也、云々、又一書曰、日神とあれは、天照大神の別名ともいはんか、されど大神は広田社に鎮座せるは同神には非るか、旧事紀には、稚日姫尊者天照大御神御妹也、と云ひ、古事記には、若晝女神と書て、布忍富鳥鳴海神の娶若晝女神と云ふ、姓氏録、摂津国神別 生田首、天児屋命十一世孫雷大臣命之後也(以下略)」

 

「中臣烏賊津使臣」については、

 

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kotobank.jp

 

↑「コトバンク」を見てみると、

 

「「日本書紀」にみえる豪族。
仲哀天皇,神功(じんぐう)皇后につかえ,皇后が新羅(しらぎ)(朝鮮)出兵で神意をたずねた際,神託の判定者である審神者(さにわ)をつとめた。2世紀余もあととされる允恭(いんぎょう)天皇の舎人(とねり)にもこの名がある。「続日本紀」によれば,中臣氏の祖先とされる。名は烏賊津連,伊賀都(津)臣とも。」

 

となっていました。

審神者を務めた(とされる)くらいですから、「神功皇后」の信頼が厚かったのか、信頼が厚いから審神者を務めたのか、何とも言い難いですが、この辺りの神話は、中央の勢力に豪族の先祖がどれほど関わっていたのか(何代にも渡って天皇に仕えた「武内宿禰」とか)を書いておくことで、その正当性を歴史の中に位置付ける意味合いがあるものと思われます。

中臣家は、「中臣鎌足」か「藤原不比等」のおかげ(Iなのか)で、結構記紀神話には登場しますから、文量配分も考えられて、のことなのかもしれないです。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑まあお約束で。

112コマです。

 

「生田神社(略)
祭神稚日女尊
今按神代巻一書に稚日女尊坐于斎服殿。而據神之御服也云々旧事紀には日姫尊者天照大御神御妹也とみえ神功巻 新羅を伐玉ひし明年の條 に稚日女尊誨之曰。吾欲居活田長狭国。因以海上五十狭茅令祭とある時より此地に祭られ玉へるなりさて征韓の時に神威を顕はし玉へる神なるを以て延喜玄蕃式に凡新羅客人朝者給神酒其醸酒料稲云々摂津国生田社云々五十束云々送生田社云々醸生田社酒者於敏賣崎給之とあるにて其は外蕃人に神威を仰がしむる大御慮ましての御わざなるべし
神位 清和天皇貞観元年正月二十七日甲申奉授摂津国正五位上勲八等生田神従三位九月庚申摂津国生田神遣使奉幣爲風雨祈焉(略)」

 

摂津国生田神遣使奉幣爲風雨祈焉」……となると、御祭神の「稚日女尊」は太陽神ではなくて風神、という扱いになるのか……あるいは、とにかく大社に祈願したというだけなのか……太陽神の神威を弱めることで風雨につながる、という考え方もありますから、なんとも言えませんが……まあ、「神功皇后」の三韓征伐にご加護のあったかたなので、風雨の神でもおかしくないかなと(船の運行に風雨は欠かせませんもので)。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 生田神社誌要

 

「生田神社」が発行した↑のようなものもありますので、ご参考に。

名所の部分だけちらっと引用してみます。

 

「境内名所
生田ノ池
古来騒人墨客の間に喧伝せられし名勝池にして拾遺集を始め順徳院百首夫木集等に其の風詠を載せたり
生田ノ杜
寿永の昔平氏は其の城廓一ノ谷の東門となし源氏の大軍を阻みて輸◼︎を決せしより降て延元元年の古戦場として其名噴々たり
(略)
箙の梅
源平の戦に梶原源太景季此の梅の一枝を手折り箙に挿して蒐けしにより此の名あり
敦盛ノ萩
口牌によれば寿永の遺無官太夫敦盛深く此の萩を愛し国風をも作られしが其の死後遺子某加茂の明神に祈誓して神告を得遥々当地に尋ね来り長途の疲憊を醫せんとたまたま此の小蔭に憩ひ睡眠して夢に亡父に見えし遺跡なりと云ふ
梶原ノ井
一に鏡の井と云ふ梶原源太景季武運を神前に祈らむとて此の井泉を掬ひける時箙の梅花井水に映せしにより此の名ありと云ふ当時景季一首の和歌を詠みて神前に捧けり
けふもまた生田の神の恵かやふたたび匂う森の梅か香
神功皇后釣竿の竹
其の山来素より徴すべきものなし按ずるに昔神功皇后肥前国末羅縣の玉島の里なる小河にて誓ひ釣し給ひしこと史乗に見ゆれば此等に基きてかくは稱ふるならむ
(略)」

 

さてさて、御祭神の「稚日女尊」については、

 

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「丹生都比売神社」 - べにーのGinger Booker Club

「丹生都比売神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

「丹生都比売神社」(補々) - べにーのGinger Booker Club


↑同体とされる「丹生都比売」のところで適当なことを書いておりますので、ご参考に。

 

 

 

……特に考察や妄想はしていませんが、まあこのあたりで。