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神社仏閣ラブ(弛め)

「丹生都比売神社」(補)

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 下編

 

式内社なのでまずはこちらから(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

457コマです。

 

「丹生都比女神社覈録 名神大月次新嘗

丹生都比女は假字也 (略) 高野山金剛峰寺の鎮守となれり、例祭年中五十餘度、○日本紀神功皇后巻云、小竹祝興天野祝共爲善友、 ■■に、小竹祝は神社及び系譜未詳 と云ふは疎漏なり、 釈日本紀曰、先師説云、丹生都比女社者、高野山天野明神也、播磨国風土記曰、 釈日本紀所引用、 息長帯日女命、欲平新羅国下坐之時、祷於衆神、爾時国堅大神子爾保都比賣命、著国造石坂比賣命敬曰、好治奉我前者、我爾出善験、云云、平伏新羅已訖、還上乃鎮奉其神於紀伊国管川藤代之峯、 国人加納諸平云、管川は今筒香と訛りて、天野あたり惣ての庄名なり、藤代峯は富貴筒香大和等の堺の高峯を云りと里人いふ、今は水呑ノ峯とも石堂カ峯とも子粒カ峯ともいへど、古名藤代なり、後に此峯より今の地には遷し奉るなり、彼山は海部郡藤代より山続きなれど、いたくへだたれり、

諸神記曰、寺家申状云、丹生明神、伊弉諾伊弉冉之御娘、高野権現者、日神天照之御甥也、頭注曰、 上略 天照大神之妹稚日女神也、高野明神当宮太子也、一説云、丹生都姫天照大神也、坐和州丹生川之裔、故名丹生都姫、後又顕伊勢国、○丹生津姫記云、 考證所引用 正応六年衆徒奏状■、当社者、乾道七世之胤子、爲八荒鎮将之武神、是以地神第三代天津彦々瓊々杵尊、始祐丹生廟祠■、称常世宮、人皇十六代応神天皇、殊崇霊威■、定山境地、
(略)」

 

日本紀神功皇后巻云、小竹祝興天野祝共爲善友、」という部分がよく出てきますが、

 

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

 

 

の「神功皇后摂政元年」、三韓征伐を終えて大阪〜紀州に入ろうというところ(「忍熊王」を撃つ前)のことで、

 

「是の時に適りて、昼の暗きこと夜の如くして、已に多くの日を経ぬ。時人の曰はく、「常夜行く」といふなり。皇后、紀直の祖豊耳に問ひて曰はく、「是の怪は何の由ぞ」とのたまふ。時に一の老父有りて曰さく、「伝に聞く、是の如き怪をば、阿豆那比の罪と謂ふ」とまうす。「何の謂ぞ」と問ひたまふ。対へて曰さく、「二の社の祝者を、共に合せ葬むるか」とまうす。因りて、巷里に推問はしむるに、一の人有りて曰さく、「小竹(しの)の祝と天野の祝と、共に善しき友たりき。小竹の祝、逢病して死りぬ。天野の祝、血泣ちて曰はく、『吾は生けりしときに交友たりき。何ぞ死にて穴を同じくすること無けむや』といひて、則ち屍の側に伏して自ら死ぬ。仍りて合せ葬む。蓋し是か」とまうす。乃ち墓を開きて視れば実なり。故、更に棺櫬を改めて、各異処にして埋む。則ち日の暉炳■りて、日と夜と別有り。」

(※■は、「火」偏に「榮」)

 

とあります。

 

「昼が夜のように暗くなって何日も経った。皇后が紀直の祖豊耳に尋ねると、老人がいて「これはアヅナヒの罪のためでしょう」と言った。「どういうことなのか」と尋ねると、「二つの社の祝を一緒の墓に葬ったのではないでしょうか」と言った。調べてみると、「小竹祝と天野祝は親友だった。小竹祝が病死すると、天野祝は嘆いて、「生きている間は親友だった。どうして死んで墓を同じくしないことがあろうか」といって、遺体の側で自ら死んだ。同じ墓に葬った、ということなので、墓を開いてみるとその通りだった。棺を新しく作り、別の場所に葬ると、日は再び照り出した」

 

だいだいこんな意味です。

別の神社の神職(祝)を同じ墓に葬る禁忌があった、と伝えているものなのですが、この「小竹」と「天野」というのが、紀伊国の地名で、「神功皇后」の時代にはすでにこの辺りになんらかの社があった、と伝えられていた文献上の証拠として扱われています。

「丹生都比売神社」は、「天野四所明神」とも呼ばれています。

神功皇后」のときには祭神が「丹生都比売」だったかはともかく、なんらかの神を祀る社があった、ということですね。

 

 

ええまぁ、日本中にあったんでしょうが(爆)。

 

 

あと、『播磨国風土記』の引用も多くされているので、

 

 

風土記 (平凡社ライブラリー)

風土記 (平凡社ライブラリー)

 

 

↑こちらから。

 

「播磨の国の風土記にいう、ーー息長帯日女命(神功皇后)が新羅の国を征伐しようと思ってお下りになったとき、もろもろの神たちに祈り給うた。その時、国を固めなされた大神の子爾保都比売命が国造の石坂比売命に託いて教え給うには、「私の祭祀をよくしてくれるならば、私はここに効験あらたかなもの(赤土)を出して、比々良木の八尋桙根附かぬ国、乙女の眉引の国、玉匣かがやく国、苫枕宝ある国、白衾新羅の国を丹波(赤い浪)でもって平伏給うであろう」と。そして赤土を出し賜わった。その土を天の逆桙に塗って、神の舟の前後に立て、また御舟の裳(外装)と兵士の着衣を染め、また海水を掻き濁して渡りなされた時、底をくぐる魚も、また高く飛ぶ鳥どもも往き来せず、前をさえぎることもなかった。かくして新羅を征し終えて還り上りまして、すなわちその神(爾保都比売)を紀伊の国の管川(つつかは)の藤代の峰にお鎮め申した。」(『釈日本紀』十一)

 

見ての通り、『播磨国風土記』はかなりの部分が残っているのですが、欠けている部分(明石郡の部分)もあり、こちらは逸文で、『釈日本紀』に掲載されているものです。

ですので、資料的価値はやや落ちるのかな、と。

「大神の子爾保都比売命」を、「丹生都比売大神」と比定しているわけですが、この「大神」が誰なのかには諸説あるようです。

伊弉諾神」と考えれば、『神社覈録』にあるように、「丹生都比売大神」=「稚日女神」となる理屈はわかりますし、飛躍して「丹生都比売大神」=「天照大御神」というのも整合性はとれています。

 

次に、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 紀伊国名所図会. 後編 中巻

 

↑の「天野神社」の記事を見てみましょう。

活字でないので、かなり「■」が多いですが、ご勘弁を(282コマ)。

 

「天野神社 丹生四所明神と称す高野一■の鎮守なり当社毎年五十余度の神事あり■■式■■■■■■■■■■■ 祀神四座

一宮 正一位勲八等丹生津比賣大神 一祝惣神主丹生一麿当社の神事を司る
延喜式云 丹生津比賣神社 名神大 月次新嘗相嘗
三代実録云(略)
山史云 寛平九年丁巳冬十二月鎮守大明神被授従三位
淳方勘状云 天暦六年五月奉増一階又云■歴五年二月又被奉増一階又云永治元年七月奉増一階
百錬鈔云 寿永二年十月九日紀伊国丹生高野神奉加一階
宝蕑集云 寿永二年十月十六日勅正二位丹生明神今奉授従一位

二宮 正一位丹生高野御子大神 二祝子丹生相見某当社の神事を勤む
三宮 気比大神 三祝子丹羽某当社の神事を勤む
四宮 厳島大神 四祝子松嶋某当社の神事を勤む
末社 左右十二王子社 瑞牆の内左右にあり左は五神合殿右は六神合殿別外衣比須社と合せて左右十二王子の社といふ
番神社 同右にあり
若宮 行勝上人の社なり上人終焉のとき誓ひて丹生一の祝と謂て日■死せば永く当社の守護神となるべしと祝答へて曰上人は当社の中奥なり争う礼教せざらんやとて没後当社を建て若宮と称すと■
拝殿 又は透廊といふ中門の西なり
神人庁 中門の東
御供所 社殿の坤にあり西の端に竃明神の祠あり神職の篭所なり
舞台 透廊の前にあり毎年六月十七日十八日能あり此会を笈■といふ
精霊 舞台の西にあり応仁年中に鋳■■■
持所 御社の西にあり延慶年中勅願により■創造す本尊は不動愛染合体の秘仏なり
護摩所 御社の東にあり不動明王智■大師の作なり
御影堂 護摩所の東にあり天野口伝抄に曰二位禅尼女人の■■■■生るを■■■ざる■なげき■堂を建■■■大師の尊像を仏師に命■■■■夢中に尊像を拝し■■■模造すといふ
多宝塔 御影堂の北にあり本尊五智如来なり
神輿 多宝塔の北にあり
山王堂 又本地堂をいふ神輿堂の北にあり四社明神の本地仏を安置すと 東三条院御願なり
荒神社 山王堂の■にあり
不動堂 荒神社の東にあり
長床 不動堂の北西にあり小庵堂といふ西の■に行者堂あり
一切経蔵 長床の東にあり池水■■を廻り■法親王御灌頂の日行勝上人をして止雨の法を行いしむ即功■あり■賞として斯経蔵を創造■■■■といふ
宝蔵 経蔵と同く池中に建つ
祝詞棚 経蔵の北にあり■処■■■二八十一三ケ月■■式あり神幸のとき玉津嶋明神へ祝詞をあぐる■なり
輪橋 本社の正面にあり橋下の池を御池といふ又■池ともいふ他中に小丘あり昔八百比丘尼といふもの神■を納とぞ
花表二基 輪橋の前後にあり
大庵室 又曼荼羅院と号す大師の創建■なん

 

謹みて当社の神系を按ずるに 一宮丹生津比賣大神ハ伊邪那岐伊邪那美二柱の御子に坐し異国降伏の守護神にて 昔神功皇后三韓征伐の大挙に当りて神霊針間国造石坂比賣に着したまひ我霊を祀れば善験を現さんと教たまひし赤土を■し給ひぬ 皇后その赤土を以て天の逆鉾に塗て神舟の艫舳に建■御舟裳とも軍人の着衣とも染させ給ひ 又は海水を掻濁して■■■給ひ■■■海上平穏に■■■■新羅を平伏給へり因て御凱陣のとき其神霊を木国管川藤代峯に鎮め奉り給ふ 応神天皇の御宇神霊更に奄田村の石口に顕■■所■に遷幸あり■■遂に当社に鎮座し給ふ 三韓の役に勲功ありし神霊なるを以て勅して神地の■■を定め給ふその地大抵今の寺領■■四■是なり又毛荒物毛和物を猟て神に供せんが為に黒白の犬二部并に犬飼二人を■■■■其犬の口代とて田地若干を■寄せ給ひぬ ■即弘仁年間に大師を導たる狩場明神の祖なり又紀国造職譲補のときに白犬一疋を相見■■■■当社に献ずるを古例とす大師開山の後供御の式■■■■■犬を■■■■■の縁なり ■■■神に坐せぞはやく官社に列して朝廷の御崇敬も他に異なり ■後蒙古の賊皇国を窺しとき弘安四年四月五日同十二日当社四所明神の内三の大神託宣■りて日本国中の諸神蒙古を征せんが為に九州に発向したまふ先例に任せ■■天野大明神一陣に向ひ給ふ■■と議定既に■ぬ我明神の為に楯を突き真先に魁すべし明神の進発は来二十八日の丑の刻なり 云 かかる霊験あり■■■よりて異賊降伏せし■ば正応五年勅して和泉国日根郡近木庄一所を寄附したまへ■■
二宮高野御子大神は 御子は彦と通じ天若彦を天若御子と言いたる如し此神高野彦にして往昔此地の領主な■■■■ 天野祝の遠祖にして丹生津比賣大神いまだ此地に鎮座したまはざる■■以前は天野祝専此神に奉仕せしにぞあらん故に満山の衆僧苟くも此神を崇敬せざる時は■に祟りをうくといふ二神は大師開山の時より密教擁護の御誓ひ浅■■■屡出現ましまして山上の弘隆を守護したまふ事緒書に詳に■■■■世に普く知る所なれば今略■■
三宮気比大神 正応官符に三宮を蟻通神といへり又の御名とかや 四宮厳島明神二座勧請の由来■元年間丹生明神行勝商人に告給■■越前の気比と安芸の厳島の二神は我古の親友なり願くは一所に在て密教を擁護し又異国征伐のとき扶翼の神将とせん早く丹生の祝に命じて我殿中に勧請すべしとのたまへ■■■■■■二神を此に合祠し四社相並べしより丹生四所明神と称すとなん 以上四座の御伝異説諸書に紛■として一小冊に■す■■■■山上伝ふる所を又異な■■他日其弁を詳にすべし」

 

読んでいただけば(読みづらいですが)わかりますが、今と違って仏教様式の建物がたくさんあったようです。

307コマに図絵がありますので、そちらもごらんいただければと思います。

中心となる神社建築はほとんどがそのままです。

 

あと、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑も見ておきましょうか(413コマ)。

 

祭神 爾保都比賣命
今按播磨風土記に息長帯日女命欲平新羅国下坐之時祷於衆神爾時国堅大神之子爾保都比賣命昔国造石坂比賣命教日好治奉我前者我西出善験而比々良木八尋杵根底不附国越賣眉引国玉甲賀々益国苦尻有寳白衾新羅国矣以丹波而将平伏賜如此教賜於此出賜赤土其土塗天之逆桙建神舟之艫舳又染御丹裳及御軍之著衣又撹濁海水渡賜之時底潜魚又高飛鳥等不往来不遮前如是而平伏新羅己訖還上乃鎮奉其神於紀伊国管川藤代之峯とある爾保都比賣命は式帳にいはゆる丹生都比賣命是也さて此神の鎮座すは高野山なる天野村なる故は釈紀に先師説云丹生明神者伊弉諾伊弉冉之御娘云々神名帳頭に天照大神之妹稚日女神也云々一説云丹生都姫天照大神とあるを以て紀伊風土記に丹生津比咩は伊弉諾伊弉冉二尊の御兒天照大御神の御妹にして稚日女尊と申し神世より本国和歌浦玉津島に鎮座せりと云れと丹生都比賣神と稚日女尊と同神なる證なけるは信かたく古史成文には埴夜須比賣神亦名丹生都比賣神として其伝に彼赤土を賜へる事を云ひ丹生は埴土の義にて土を掌玉ふの名なりと云へれと是亦證ある事なし仍て祭神爾保都比賣命と記せり」

 

↑こちらは前半は『播磨国風土記』の引用ですが、後半では、

 

紀伊風土記に丹生津比咩は伊弉諾伊弉冉二尊の御兒天照大御神の御妹にして稚日女尊と申し神世より本国和歌浦玉津島に鎮座せりと云れと丹生都比賣神と稚日女尊と同神なる證なけるは信かたく古史成文には埴夜須比賣神亦名丹生都比賣神として其伝に彼赤土を賜へる事を云ひ丹生は埴土の義にて土を掌玉ふの名なりと云へれと是亦證ある事なし」

 

と、「丹生都比売大神」=「稚日女尊」説どころか、「丹生都比売大神」=「埴夜須比売神」説という初めて見た説もぶった切って「証拠がないので信じがたい」と書いています。

う〜ん、痛快。

 

そもそも「稚日女尊」は、

 

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 

 

↑「神代」の、「素戔嗚尊」が高天原に上っていったシーンでの一書で、

 

「一書に曰はく、是ののちに、稚日女尊、斎服殿に坐しまして、神之御服織りたまふ。素戔嗚尊見して、則ち斑駒を逆剥ぎて、殿のうちに投げ入る。稚日女尊、乃ち驚きたまひて、機より堕ちて、持たる梭を以て体を傷らしめて、神退りましぬ。」

 

という感じで登場します。

これは、本文では「天照大御神」の役どころなので、ここから、「天照大御神」=「稚日女尊」という説が生まれています。

一方「神功皇后摂政元年」の記事、先ほど引用した部分の少し前では、

 

「皇后の船、直に難波を指す。時に、皇后の船、海中に廻りて、進むこと能はず。更に務古水門に還りまして卜ふ。是に、天照大神、誨へまつりて曰はく、「我が荒魂をば、皇后に近くべからず。当に御心を広田国に居らしむべし」とのたまふ。即ち山背根子が女葉山媛を以て祭はしむ。亦稚日女尊誨へまつりて曰はく、「吾は活田長峡国に居らむとす」とのたまふ。因りて海上五十狭茅を以て祭はしむ。」

 

とあり、明らかに「天照大神」と「稚日女尊」が異なる神として書かれていますので、おそらくこのあたりから、「天照大神」の妹神が「稚日女尊」という説が生まれているのでしょう。

この部分、急に船が進まなくなってしまった、という描写なのですが、これに対応しているのが、「神功皇后摂政前紀」の冒頭部分で、夫である「仲哀天皇」に新羅に向かうことを勧めた神は誰なのかを確かめるために自ら神がかりして、それが

 

「神風の伊勢の国の百伝ふ度逢県の折鈴五十鈴宮に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」

 

「幡荻穂に出し吾や、尾田の吾田節の淡郡に所居る神有り」

 

「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神有り」

 

日向国の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、名は表筒男・中筒男・底筒男の神有す」

 

であることを知ります。

船の止まった場面では、「事代神」や「住吉三神」も登場しています。

三韓征伐にあたって、これらの神が力を貸したのですが、その報いを求めて、「神功皇后」の船を止めた、と考えられます。

ですので、それぞれの神は、「○○に居たい」とか「○○に祀れ」と要求し、それに応えることを約束すると、船は再び動き出します。

この一番目の、やたら名前の長い神が「天照大神」の荒魂ではないか、と考えられており、二番目の「尾田の吾田節の淡郡所居る神」が「稚日女尊」に対応すると思われます。

 

長くなってきましたので、この辺りで休憩〜。