最近発売された本に、
↑という本があります。
……最近でもないですね。
以前に発売されたものに新しい記事を差し込んだもの、だと思います(違ったらごめんなさい)。
こちらでも、「陶祖加藤春慶碑銘」という記事が取り上げられていますので、一読してみるのも一興かと。
さて、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
↑の140コマからが瀬戸の話なのですが。
できれば図絵も見ていただけると面白いです。
陶器製造の場面が詳細に描かれています(多分)。
いってみましょう(※旧字を改めた部分あり。■は判読できなかった文字。「かま」は「窯」の字に統一してある)。
「名産瀬戸磁器
瀬戸村に陶工多くありて、皿・茶碗・茶壺をはじめ、くさぐさの器物を焼き出し、砂鉢・甕・半胴のたぐひは、赤津村にて作れり。すべて諸国に作る陶器をあまねく瀬戸物といふ事は、全く此瀬戸村の産を主として呼び初めしが、やがて器物の惣名とはなれり。[延喜式]践祚大嘗祭の條に、尾張国所造甕八口。缶(ほとぎ)五十口。筥坏(はこつき)四十口。甅(さらけ)八口。瓮(もたひ)十口。短女坏(ひきめつき)三十三口。酒瓶八口。匜(はさふ)十六口。片坏(かたつき)四十口。陶臼八口。餝甅八口。高盤四十口。坩(つぼ)十二口。都婆波(つばは)十二口。酒盞(さかづき)十二口。酒缶八口としるし、[日本後紀]の残欠に、弘仁六年正月丁丑五日造瓷器生尾張国山田郡人三家人部乙麿等三人。伝習成業。准雑生聴出身と見え、[弘仁式]に應供神御由加物。所司具注所須物類。預前申官八月上旬差宮内省史生。遺五箇之国造。河内和泉一人。尾張参河一人。備前一人。到国先祓而後造作焉。としるせり。その由加物とは[延喜式]の此條に、雑器者神語曰由加物。と見えたれば、雑器の事とは聴こえたれど、その品々をしるせるみな瓷器の類なり。また[延喜民部式]の年料雑器のうちに、尾張国瓷器大椀(おほもひ)五口。径各九寸五分。中椀五口。径各七寸。茶小椀。径各六寸。茶椀二十口。径各五寸。盞五口。径各四寸七分。中擎子十口。径各五寸。小擎子五口。径各四寸五分。花盤十口。径各五寸五分。花形鹽坏十口。径各三寸。■(※瓶のへんとつくりが逆)十口。大四口。小六口。と見えたるは、いづれの地にて焼きしか定かならねど、[日本後紀]に見えたる三家人部尾乙麿等三人は山田郡の人とあれば、此あたりにて焼きしもしるべからず。かくて弘仁年中より藤四郎が此地に来りし貞応年中までは、凡四百餘年の星霜を経たり。されば藤四郎も此辺に古窯跡などのありしを見て、当所の土の磁器によく合ふ事をさとりて焼き初めしものなるべし。※略※ 元来当所の磁器はむかしより名高く、希代の名物なども焼き出ししが、南京様染付の陶器のみ其工夫を得ざりしを、享和元年頃より専ら焼き試みけるに、※略※ 次第に其業委しくなり、餘人も多く伝えて、今は染付窯多くなれり。むかしよりの本業の陶器はさらなり、南京様・高麗様とも、公用の品物となりて、将軍家搢紳家(しんしんけ)にも御献進あらせられ、實に御国産の魁品といふべし。」
「尾張国所造甕八口。缶(ほとぎ)五十口。筥坏(はこつき)四十口。甅(さらけ)八口。瓮(もたひ)十口。短女坏(ひきめつき)三十三口。酒瓶八口。匜(はさふ)十六口。片坏(かたつき)四十口。陶臼八口。餝甅八口。高盤四十口。坩(つぼ)十二口。都婆波(つばは)十二口。酒盞(さかづき)十二口。酒缶八口としるし」……、もう、難読漢字のオンパレードです。
そんな字、絶対ないだろ、と思っていたらちゃんとあったりしますし(PC環境によって読めない可能性はあります)。
昔は「瀬戸物」といえば、瀬戸産の焼物のことを指していたのが、「やがて器物の惣名」になったのですね。
いつのことなのやら……wikipediaさんで調べてみましょう。
◯こちら===>>>
あ、嘘でしたコトバンクでした。
「その用語例は1563年(永禄6)に織田信長が下した制札に始まるが,一般に用いられるようになったのは,江戸時代に入って窯業生産の主座から転落した瀬戸,美濃において,大衆向けの日常食器類が主として焼かれ,それが全国的にひろく流通するようになってからであろう。」
どうやら、芸術的な陶磁器生産の主役を九州中国地方に奪われたために、日常食器にシフトしたところ、貨幣経済の流通に乗って全国に広まった、というところのようです(多分)。
「瀬戸物は、勝負に負けて名を残した」わけですな。
まぁ、唐津も伊万里も有馬も残ってますから、勝ってはいないんですけど。
「通常,瀬戸物の語を用いるのは近畿地方以東の東日本であり,中国、四国、九州などの西日本では唐津物(からつもの)の語が流布している。」
私が東日本の人間なので、「瀬戸物」という言葉しか聞いたことがない、というだけだったようです。
「陶工元祖藤四郎の伝
藤四郎とは加藤四郎左衛門の略称にして、父は藤原元安(元安先祖は橘知貞といふ。大和国城下郡諸輪庄道■村に住す。藤四郎も此所にて誕生す。元安故ありて後に備前国松尾に配せらる。)母は平道風が女なり。(山城国深草の人)成人の後久我大納言通親卿に仕へ、五位の諸大夫となる。名を景正といへり。春慶(或は俊慶また春景)といへるは別號なり。深草の里は母の故郷なるが故に、此所に住みて土器を製し試みるに、いまだ其業に委しからず、況や薬を用ふる法を知らねば、只土器(かはらけ)・土鍋等を造るのみ。高麗・南京其外の焼物を集め、いかにもして斯る器物を製せんと、朝暮心を砕くといへども、其伝を得る事なきを患ふ。ここに越の永平寺開山道元禅師は、通親卿の二男なりしが、後堀河帝の貞応二年入宋の志あるよしを聞き、終に此人に随つて入宋す。一説に、藤四郎是れより以前、諸国を経回し、当国瀬戸に来り、居をしめ、窯を造りて、陶器を製造せしが、此頃道元禅師野田密蔵院にしばしば来遊ありしかば、藤四郎常に禅師と、交深かりしが、入宋の志あるをしり、従者となりて入宋せしとも云ふ。此時宋朝は寧宗帝嘉定十六年なり。夫より彼地に居る事六年の間、南京・北京其外国々を経回し、陶器制作の秘奥をきはめ、又禅師に随つて安貞二年の春帰朝す。此時二十六歳なり。かくて肥後国川尻の辺に着船せしかば、先此所に小き窯を作りて、彼地より持ち来りし土をもつて、小壷三つ造り焼きしに、最勝れたれば、時の将軍家又禅師にも奉る。(今世に残りし名物なり。) 夫より父の配所備前国松等尾に到り、暫くここにても陶器を作り、其後深草の里に帰りぬれど、程なく母も身まかりければ、是より陶器に合ふべき土を尋ねむと、泉州堺・江州・濃州各務郡野口村・当国知多郡半月村・愛智郡末森村等にて焼き試むといへども、いまだに心に應せず。故に猶国中山野を巡り見るに山田郡瀬戸村の山祖母懐(そぼくわい)といふ所は、山高くして谷深く、水清浄にて、陽に向ひ、土色も他に異にして、唐土より持ち来りし土に違う事なければ、諸州無双の好土なりとよろこびて、爰に居をしめ、窯を造立し、専陶器を製し業とす。藤四郎家貧しかりしかども、数多の器物を造る事をなさず。それをいかにといふに、多く後代に残りては、後々窯屋衰微に及び、又祖母懐の土絶えん事を愁へて焼かざりしといへり。数年住居の所なれども、瀬戸村に残る物は深川神社の狛犬一隻と、神酒壷一つあるのみなり。今も古窯跡を掘れば、破れ損じたる焼物数多出づる。当時の名人も及ばざる焼加減なり。此頃は今とは異にして、器物の間にへだてを入れざりし故、多く焼き損じたるなり。藤四郎が宅址は深川神社辰巳の方、田圃中島といふ所にあり。今杉一株あり。又是より北の方に禅長庵といへる字之残れり。こは藤四郎老年に及び、男藤五郎に世を譲りて後、閑居の地なりといふ。山下に比丘尼屋敷といへるあり。藤四郎が妻の居住したる所といひ伝ふ。[古今名物類聚]に、藤四郎唐土の土と薬とを携へ帰りて、初めて尾州瓶子窯にて焼きたるを唐物と称す。倭土和薬にて焼きたるを古瀬戸といふ。古瀬戸は惣名なり。大形に出来たるを大瀬戸といふなり。此手古瀬戸に異なり。入唐以前焼きたるを口兀厚手・掘出手といふ。大名物は古瀬戸唐物なり。誠に唐土より渡りたるものをば、漢といふ。是は重宝せぬ物なり。唐物と混すべからず。掘出手といふは、一窯土中に埋みたりしを、後に掘り出したるなり。一説には遠州公時代に掘り出したるともいふ。すべて入唐以前の作は、出来田夫にして下作に見ゆるなり。古瀬戸煎餅手といふもあり。是は何れの窯よりも出づる。窯の内にて火気強くあたり、上薬かせ、地土ふくれ出来たるものなり。後唐の土少く成りたるによりて、和の土を合せて焼きたるを春慶といふ。春慶は藤四郎が法名なり。二代目藤四郎作を眞中古物といふ。藤四郎作と唱ふるは二代目をさすなり。元祖を古瀬戸と称し、二代目を藤四郎と称するは、同名二人つづきたるゆゑ、混せざるために唱え分けたるなり。藤四郎春慶も二代目なり。三代目藤次郎是を中古物といふ。金華山窯の作者なり。四代目是をも中古物といふ。破風窯の作者なり。黄薬といふも破風窯より出でたるものなり。正信春慶といふ者あり。正信は何人なる事を詳にせず。又後時代春慶と称するは、堺春慶・吉野春慶なり云々。小壷を焼くことは、元祖藤四郎をもつて鼻祖とす云々と見ゆ。此書に正信春慶を不詳といへり。或伝記に、二代目藤四郎は志野宗信の聟にて、名を正信といへり。正信春慶と銘ある茶入あり。至て上作なりとしるせり。此外花藤四郎・柳藤四郎・糸目藤四郎・刷毛目藤四郎など、[和漢茶入譜]に見ゆ・こは藤四郎の異名にてはなく、器物の名なり。混ずべからず。元祖藤四郎をはじめ、歴代の伝説、陶工家にいへると、世に伝へたるとは、大同小異ありて、一定しがたし。今諸説をとりて折衷し、ここにしるす。藤四郎入宋の後、諸国を経回し、其後当所にとどまり居りし事は慥にて、其子孫なりとて加藤氏を称する陶工多し。(されど其末裔今詳ならず。) 夫より六作・十作などの名人出でて世に鳴り、享保年間に春暁、宝暦年間に春宇などの名工もあり。又正木文京・千村伯就・山本自警軒など、近くは平澤九朗、これらはいづれも職業ならねど、皆思ひ思ひに工夫を凝し、一家の風致をなせる妙手にして名工の右に出づるも少からぬは、全く土宜によるしるしなるべし。今赤津の春岱などは、陶工中の巨擘にして、盛に焼き出し、其名世に聞たり。さて藤四郎春慶、風雅にも心をよせし事は、[温故集]に「淋しさの友達になる火桶かな」といへる句ありて、世にしるところなり。」
「藤四郎とは加藤四郎左衛門の略称にして」ということで、出自は怪しからず、藤原氏のようです。
「久我大納言通親卿」は「源通親」のことで、鎌倉時代初期に活躍したお人のようです。
「永平寺開山道元禅師」は、曹洞宗の開祖「道元(1200-1253)」で、「源通親」の子供、という説があります。
つまり、このくらいの時代の人です。
今年(2014)が、生誕800年なので、生まれは1214年、と伝わっているようです。
「道元」禅師はご存知の通り、入宋するわけですが、それが貞応二年(1223)……ええと、すごいな藤四郎、
9歳でついていきましたか。
ま、伝説ですから。
それに、生誕800年、が間違っている可能性もあります。
「道元」との邂逅は諸説あり、「野田密蔵院」にしばしば来ていたときに出会ったのではないか、との説が書かれています。
恐らく、愛知県春日井市にある「密蔵院」のことと思われますが、wikipediaによりますと、開創が嘉暦三年(1328)ですから……「道元」禅師入滅してますね。
ま、伝説ですから。
入宋した当時は南宋(金に圧迫されちゃった後)で、「寧宗帝嘉定十六年」は、ちょうど寧宗の在位最後の年で、1223〜24年……うん、「道元」禅師に関する年代は符合します。
ま、伝説ですから。
日本に戻ってから、藤四郎は「数多の器物を造る事をなさず」だったらしいです。
その理由は、「多く後代に残りては、後々窯屋衰微に及び、又祖母懐の土絶えん事を愁へて焼かざりし」というわけで、当時現存していたのが「瀬戸村に残る物は深川神社の狛犬一隻と、神酒壷一つあるのみなり。」。
先見の明というべきか、他に事情があったのか。
瀬戸の焼物の価値を高めたかったんでしょう……。
その下は、焼物に関する記述です。
中国から持ち帰った土がなくなったので、「倭土和薬にて焼きたるを古瀬戸といふ」、つまり日本の土と日本の釉薬で焼いたものを、今は「古瀬戸」と呼んでいるんですね。
当たり前ですか?
他に、「掘出手」という、窯ごと土中に埋めたものを後に掘り出す手法で造られた焼物があるとか。
「遠州公時代」に掘り出したものもあるらしく……「遠州公」というのは、備中松山の藩主「小堀政一」のことらしいです。
生誕は、天正七年(1579)。
……300年埋めてたってことですか……100年物のマッカランとかで悦んでいる場合じゃないかもしれません(?)。
「後唐の土少く成りたるによりて、和の土を合せて焼きたるを春慶といふ。」、「二代目藤四郎作を眞中古物といふ。」、と藤四郎が名跡となったわけですね。
二代限りかもしれませんが。
「元祖を古瀬戸と称し、二代目を藤四郎と称する」のは、二代続けて藤四郎だったから、わかりやすくするため、とのこと。
そして、いつから藤四郎が「加藤」を名乗ったのかがここからでは分かりませんが、「其子孫なりとて加藤氏を称する陶工多し。(されど其末裔今詳ならず。)」ということのようです。
『尾張名所図会』を著した人達は、断定を避けて複数説を載せることが多いですね。
まるで、
『日本書紀』
のようです。
日本人、昔から、断定があまり好きではなかったのかもしれません。
藤四郎春慶(と書いてあるから二代目でしょうか)は、他にも雅な趣味があったようで、「[温故集]に「淋しさの友達になる火桶かな」といへる句ありて、世にしるところなり。」だそうです。
何か、えらく近代的な俳句だなぁ……ていうか、俳句自体が近代のものですし、俳諧だって室町時代じゃなかったでしたっけ(昔、そう習った気がします……元々「連歌」ですよね?)。
……ま、伝説ですし(いえ、私が『尾張名所図会』だけを読んでいるからいけないんですよ、もちろん。資料はいろいろ当たりましょう)。
「六作十作の事
永禄六年、信長公国中巡覧の節、瀬戸にて名家六作といへるを定めたまふ。また天正十三年、古田織部正重勝、名家十作といへるを定めらる。其名印ども左の如し。六作のうち、市左衛門の子孫、今の加藤清助なり。前にいへる吉左衛門・民吉・唐左衛門等みな清助の別家なり。(※以下略)」
「古田織部正重勝」この人、あの有名な「古田織部」かと思って検索したら、どうも違うみたいです(古田織部の名前は「重然」)。
「古田重勝」さんを探すと、「初代松阪藩主」がヒットしました。
ほぼ同時代の人のようですが、血縁関係があるのかないのか(「新井白石が「重勝は重然の甥」と主張しているが根拠はない」、とwikipediaでバッサリ)。
ともあれ、この時代で、この土地ですから、どこを切っても「信長様」が出てきますね。
「祖母懐土(そぼくわいのつち)
同村辰巳の方にあり。陶工の用ふる絶品の土にして、今官禁となり、猥に取る事あたはず。伝へ云ふ、藤四郎が祖母或時山野を見巡り、雨池洞といふ所にて此土を得、懐にして帰りし故に名くるといへるはいかがあらん。[鹽尻]に、祖母懐の土は当所のうちにあり。國禁にして命にあらざれば取る事を得ず。或説に、祖母懐は土の名にあらず、地名なり。[辨玉集]に載する古竃のうちに、祖母懐竃、此所をうばが懐といへり。上作竃なりと記せり。按ずるに此所よりよき土出でたる故、やがて地名を土の名に負せしなるべし。」
「祖母懐」という地名は、今も瀬戸市にあります(「深川神社」から南東ですね)。
『尾張名所図会』が書かれた頃には、「藤四郎が祖母或時山野を見巡り、雨池洞といふ所にて此土を得、懐にして帰りし故に名くるといへるはいかがあらん。」と疑われていたわけですから、藤四郎と結びつけるのは牽強付会というものでしょう。
そこまで欲張らなくても。
まぁ、地名説話はロマンがあったほうが楽しいですけれど。
『塩尻』というのは、尾張藩士・天野信景という人が書いた随筆です。
『名所図会』より古いので、参考にしたいところですが、「全1000巻」だそうで。
……言葉も出ないですね。
『辨玉集』は、『茶器辨玉集』というものではないかと思いますが、どんな本かはさっぱりわかりません。
147コマでは、窯で陶器を焼いているところが書かれています。
遠くには「祖母懐」の文字が。
そういえば、「窯神神社」の本殿は、「窯」の形をしているんですね。
そんなの知ってた?
いや、気づかなかったもので。
そして149コマが、冒頭の本でも紹介されている「陶祖加藤春慶碑銘」なのですが。
これ、今どこにあるんだろう……戦争で焼けたかな……と思っていたら。
◯こちら===>>>
http://www.seto-marutto.info/cgi-bin/data/miru/011.html
↑瀬戸市の「陶祖公園」というところに、普通にありました。
……。
…………。
………………。
冒頭の本を書いた方、ここは紹介しておくべきじゃないでしょうか?
宣伝、下手ですか?
まぁいいんですが……。
この碑の文面を読んでみたいなぁ、とふらふらしていたら、当の「深川神社」のコラムに書き下し文が掲載されているので、
◯こちら===>>>
深川神社コラム:瀬戸歳時記/深川神社と藤四郎(4):2010年11月1日
↑参照ください。
この図絵、碑を覗こうとしているようにしか見えないおじさんが描かれていて、なかなか面白いです。
おいおい、「深川神社」のHPがちゃんとあるじゃないですか。
しかも、内容も充実している。
◯こちら===>>>
深川神社 | 愛知県瀬戸市 神社建築史上に残る文化遺産として、瀬戸市の有形文化財に指定されています。
↑参考に〜。
さてさて。
焼物というのは、世界中で焼かれているわけですが。
最初に始めたのは誰なんでしょうか。
「文明の漂着地」日本でも、縄文時代といわれる時代から土器がありました。
「土師器」といえば素焼きの焼物。
「須恵器」とか「陶器」はそれよりは高度で、大陸〜半島由来の技術者が持ち込んだもの。
それから後も、芸術的な焼物というのは、大陸〜半島にはなかなか追いつけなかったようです。
技術を学びに行ったり、陶工を連れて帰ってきちゃったり(秀吉の対明戦争の頃のことですね)。
今では、陶芸が趣味、という人もいるわけで。
長く、永く、まさしく「人の手」を経て、受け継がれていくものがある、というのは素敵なことだと思います。
やったことないですけど。