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ぼんやりしていたら、御朱印帳の残りページが少ないことに気づきました。
また熱田さんをお参りして買ってこよう……と思ったのですが、その前にちょっと。
というわけで、緑区にあります「氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)」へ。
◯こちら===>>>
氷上姉子神社 | 初えびす 七五三 お宮参り お祓い 名古屋 | 熱田神宮
主要幹線道路から離れたところにありますので。
左が「氷上姉子神社」、右は「元宮神明社」。
鳥居。
神職の縁の方でしょうか、掃除しておられました。
「境外摂社」という奴です。
木造のシンプルな鳥居です。
「ご祭神 宮簀媛命(みやすひめのみこと)
当神社は昔から「お氷上さん」と親しく呼ばれ、尾張氏の祖神として、大高町はもとより、広く当地方一円の人びとから厚い崇敬を集めています。
ご祭神の宮簀媛命は、尾張の国をおさめておられた、乎止与命(おとよのみこと)の女で、古代随一の英雄とたたえられた日本武尊が東国平定からの帰途、この地に留まられた時に結婚されました。その後、尊が伊勢の国の能褒野で亡くなられてからは、尊から託された草薙神剣をこの地で守護してこられましたが、やがて神剣を熱田の地へお祀りされ、熱田神宮御創祀の貴い道を開かれた方です。
御社殿は、乎止与命の館跡(現在の元宮の地)に、仲哀天皇四年に創建、持統天皇四年に現在の地に遷座されました。以後、延喜式(西暦927年)の小社に列せられ、江戸時代の貞享三年(西暦1686年)には、幕府によって御造営が行われるなど、厚い処遇をうけて今日に至っています。」
参道は直角に曲っていますが……例のあれ、でしょうか。
木造の燈籠が整然と並んでいます。
「熱田神宮摂社で祭神宮簀媛命を祀る。「寛平熱田縁起」によれば、日本武尊を建稲種命が火上(現大高町)にお迎えした時、妹の宮簀媛を妃とされ、東征の帰途にも立寄られ、草薙劔を留められたという。仲哀天皇四年、館跡に社殿を設けて媛を祀ったのが起源で、持統天皇四年(690)に現在地に移ったといわれる。」
拝殿。
本殿が全く見えませんが。
半分が森に埋もれたような、何とも言えない風情があります。
それでは、先ほどの看板のところまで戻りまして。
「元宮」へ。
木漏れ日美しく。
油断していましたが、かなり登ります。
若葉萌むいい季節です。
「神明社」。
さらに登ります。
そろそろ、虫が気になり始めます。
まだ蜂さんたちの活動季節ではないですが……。
到着〜。
こちらが「元宮」です。
石碑があります。
読みづらいので。
おや?
「倭武天皇」?
そう、ときどき、「日本武尊」は、「天皇」と表現されることがあるんですね。
もちろん、皇統譜に載せられているわけではなく、民間伝承ですが。
うーん、何か、意図があるのでしょうか。
そして、ひそかに「尾張国造之祖」。
媛命の父が「乎止与命」で、「尾張国造」の祖としてはふさわしいのですが。
山を下りて、先ほどの道を戻りますと、右手にあります「玉根社」。
井戸か、手水鉢か。
ひっそりながら、陽光を浴びて。
医薬・医療・酒造りの神様
長寿・病気平癒の信仰が厚い。
大国主命と共に国造りに力を尽くされた神様である。」
……どうしてまた、ここにぽつんと。
何か意図があるんでしょうかね。
神社で戴いた栞に、もう少し詳しく書かれていたので、引用してみます。
「由緒
(前略)
当社は、古代尾張の開拓神であった天火明命(あめのほあかりのみこと)の子孫で、当時の尾張国造(現在の地方長官)として、火上の地を本拠としていた乎止与命(おとよのみこと)の館跡(現在の火上山山頂近くの元宮の地)に、宮簀媛命を御祭神として仲哀天皇四年(195)に創建された由緒正しい神社です。
(中略)
その後、後醍醐天皇の延長五年(927)に編纂された『延喜式』には、火上姉子(ほのかみあねこの)神社と記載され、又貞治三年(1364)の『尾張国内神名牒』にも従一位氷上姉子天神とあって、古くから格式の尊いお社であったことがわかります。さらに康正元年(1455)十二月には、遷宮を示す棟上げのことが見え(『熱田宮年代記』)、永正六年(1509)九月には、本殿と供御所の御修理が行われた記録(『氷上社記』)もあり、江戸時代の貞享三年(1686)には、幕府によって御社殿の造営が行われました。現在の御本殿は、明治二十六年の熱田神宮御改造の時までの別宮八剣宮の御本殿を、当社へ移築した由緒の深い建造物です。」
「氷上・姉子の名称
当社の御鎮座地は大高町火上山ですが、昔は「火高火上(ほだかひかみ)」と称しました。ところが当社及び大高の民家がたびたび火による災害を蒙ったので、それまでの地名から火の字を忌んで、「大高氷上」と改めたといわれています。尚、現在は地名については元の火上山に復しています。
また姉子については、『尾張国熱田大神宮縁起』に、日本武尊が御東征の帰路、甲斐国の坂折宮で宮簀媛命を恋い偲のんで詠まれたと伝える次の御歌から付けられたと云われています。
年魚市潟(あゆちがた) 火上姉子は 我れ来むと 床去るらむや あはれ姉子を」
「古代尾張の開拓神であった天火明命(あめのほあかりのみこと)の子孫で、当時の尾張国造(現在の地方長官)として、火上の地を本拠としていた乎止与命(おとよのみこと)」とありますが、恐らく当時はまだ、「尾張国造」ではなかったのでしょう。
「「火高火上(ほだかひかみ)」」という地名の由来です。
登ってみてわかるのですが、結構高いです。
ある本によれば、「館の灯りは、海からの目印になったのではないか」とあります。
「当社及び大高の民家がたびたび火による災害を蒙ったので、それまでの地名から火の字を忌んで、「大高氷上」と改めた」そうです。
ただ、『延喜式神名帳』では、「火上姉子(ほのかみあねこの)神社」とされています。
つまり、『延喜式』の頃は、「火」は「ほ」と読んでいたんですね。
「火」を「ひ」と読むようにならないと、「火上」が「氷上(ひかみ)」にはならないでしょう。
ですので、それほど昔の話ではないように思われます。
なお、「年魚市潟(あゆちがた)」というのは、この頃の伊勢湾岸の干潟のことで、ここから「愛知(あゆち)郡」という呼称が生まれたと考えられています。
「フィロソフィ(哲学/ギリシア語で「知を愛する」)」
とは何の関係もない、当て字なんですね(当たり前ですが)。
さて。
日本武尊に関する文献は、恐らく山のようにあるので、一つ一つ探っているわけにもいきませんが。
とりあえず、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第9編尾張名所図会
↑の84コマから「火上姉子神社」の記事が、85コマには図絵が掲載されています(※いつものように、旧字を改めた部分あり)。
「火上姉子神社
同じ村にあり。今氷上神社と称す。熱田七社の一なり。祭神宮簀媛命。[延喜式]に火上姉子神社、[本国帳]に正二位氷上名神とある是なり。[神皇正統記]及び[熱田縁起]等には、皆稲種の妹なりとあれど、姉子神社の称号は、稲種の姉妹の論にはあらず、すべて夫のなき少女をさして姉子と称せしに起るなるべし。日本武尊東征し給ふ時、此地にて此媛命を幸し玉ひ、御別に臨んで、神剣を留めさせ給ふに、尊崩御の後、此媛命社地をえらみ、神剣を安置し奉りし伝由は、熱田の條下に詳なれば、ゆづりてここに略しぬ。抑当社は、仲哀天皇の御宇、社を沓脱島に遷し、是を元宮と称す。同帝の四年に又今の地に遷し給ふ。今も沓脱島には朝苧社といふありて、当社の神輿神幸の所なり。社地広大にして、千載の古木枝をたれ、深碧を畳みて、日影をを漏さず。青蘇厚く地を封じ、ものさびたるさま、さながら神徳のほども推しはかられて、いと尊くぞ覚ゆる。
神宝 太刀一振。平治年中、義朝当国知多郡に下り、当社に後栄を祈りし時の奉納なりとぞ。
例祭 八月朔日、花車・ねり物を出し、また馬の頭多く出づる。
摂社 八剣社・源太夫社・紀太夫社・広田社・稲荷社・山神社・天王社・白山社・白鳥社、以上九社。今は廃して社地のみ存せり。
元宮 上古氷上鎮座の地をいふ。
常世社 宮簀媛命の荒魂にして、則墓地なり。故に陵と通称す。
朝苧社(あさをのやしろ) 火高大老婆の霊を祭る。大老婆は火高の里の地主なりしとぞ。
姓社 火明命と天香語山命と二座を配せ祭れり。二神ともに尾張姓の神なれば、大姓社とも称す。
濱社 鹽土翁を祭る。
雨講社 星社 左右二社あり。
祠官 久米氏。」
図絵も見ていただきたいのですが、「神明社」、「元宮」と、現代と同じような位置関係にあります。
他の小さな社がどうなったのかはよくわかりません。
「玉造社」っぽいのは見当たりませんね。
「皆稲種の妹なりとあれど、姉子神社の称号は、稲種の姉妹の論にはあらず、すべて夫のなき少女をさして姉子と称せしに起るなるべし。」とあります。
結婚していない女性を「姉子」と読んだ、ということは、日本武尊が坂折宮で歌を詠んだとき、宮簀媛命とは結婚していなかったということになります。
……でも、その後には結婚しているはずなんですが……どうして「姉子」のままなんでしょう?
「社地広大にして、千載の古木枝をたれ、深碧を畳みて、日影をを漏さず。青蘇厚く地を封じ、ものさびたるさま、さながら神徳のほども推しはかられて、いと尊くぞ覚ゆる。」……昔から、緑深い土地だったのですね(といっても明治時代ですが)。
「馬の頭多く出づる。」と、祭のところで書かれているのは、
◯こちら===>>>
愛知のオマントとは - 国指定文化財等データベース Weblio辞書
↑の「オマント(「馬の塔」)と呼ばれるものだと思います。
「常世社 宮簀媛命の荒魂にして、則墓地なり。故に陵と通称す。」……この「常世社」、どこに行っちゃったんでしょうか。
「荒魂」、つまり「荒々しい部分」が残っていたんですよね。
祟りなすのが「荒魂」だとすると、どうして宮簀媛命がそうならなければならなかったのでしょうね。
うーん……。
さてさて。
『古事記』より、宮簀媛の登場するところを引用しますと、
「故、尾張國に到りて、尾張國造の祖、美夜受比賣の家に入りましき。すなはち婚ひせむと思ほししかども、また還り上らむ時に婚ひせむと思ほして、期り定めて東の國に幸でまして、悉に山河の荒ぶる神、また伏はぬ人等を言向け和平したまいひき」
「その國より科野國に越えて、すなはち科野の坂の神を言向けて、尾張國に還り来て、先の日に期りたまひし美夜受比賣の許に入りましき。ここに大御食献りし時、その美夜受比賣、大御酒盞を捧げて献りき。ここに美夜受比賣、その襲の襴に、月経著きたりき。故、その月経を見て御歌よみしたまいひしく、
ひさかたの 天の香具山 利鎌に さ渡る鵠 弱細 手弱腕を 枕かむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど 汝が著せる 襲の裾に 月立ちにけり
とうたひたまひき。ここに美夜受比賣、御歌に答へて曰ひしく、
高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経往く 諾(うべ)な諾な諾な 君待ち難に 我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ
といひき。故ここに御合したまひて、その御刀の草薙劔を、その美夜受比賣の許に置きて、伊吹の山の神を取りに幸行でましき。」
「尾張國造の祖、美夜受比賣」とあります。
『古事記』的には、実際の尾張の支配者の系譜がどうであれ、宮簀媛命の時代に、朝廷の傘下に入った、という解釈なのでしょう。
「ひさかたの 天の香具山 利鎌に さ渡る鵠 弱細 手弱腕を 枕かむとは 我はすれど さ寝むとは 我は思へど 汝が著せる 襲の裾に 月立ちにけり」
「高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経往く 諾(うべ)な諾な諾な 君待ち難に 我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ」……この歌は、簡単に書けば、
「久しぶりにこの土地に戻ってきて、さて一緒に寝ましょう(つまり性交渉)かと思ったら、服の裾に月(経血)がかかっているじゃないか」
「長い間あなたが待ち遠しかったので、月もかかるでしょうよ」
といった意味の歌のようです。
それから、剣(草薙剣)を媛命のところに置いて、伊吹山の神様退治に出かけます。
『日本書紀』では、
「日本武尊、更尾張に還りまして、即ち尾張氏の女宮簀媛を娶りて、淹しく留りて月を踰ぬ。是に、近江の五十葺山に荒ぶる神有ることを聞きたまひて、即ち剣を解きて宮簀媛が家に置きて、徒に行でます。(中略)日本武尊、是に、始めて痛身(なやみますこと)有り。然して稍に起ちて、尾張に還ります。爰に宮簀媛が家に入らずして、便に伊勢に移りて、尾津に到りたまふ。」
とあります。
剣を置いて伊吹山に向かうのは同じですが、「尾張に還ります。」と、一度戻ってきたことが書かれています。
それなのに、「爰に宮簀媛が家に入らずして、便に伊勢に移りて、尾津に到りたまふ。」と、媛命のところには立寄らなかったようです。
また、『先代旧事本紀』には、
「日本武尊、東夷を平けて、還り参るとて未だ参らず。尾張国に薨りましぬ。」
とだけ。
日本武尊が亡くなったとされているのは、三重県の「能褒野」という場所なのですが、何故か「尾張国」で亡くなったとなっています。
さてさてさて。
宮簀媛命は、単独で祭られる神社があるほどですので、地元では超有名人だったのでしょう。
それは恐らく、日本武尊よりも、です。
「熱田神宮」ですら、媛命が「草薙剣」をお祀りしたことから始まっています(つまり、御祭神には名が連なっていても、決して主祭神は日本武尊ではないのです)。
天孫瓊瓊杵命とは兄弟神です。
皇室の直系の祖先と兄弟です。
ということは、そう書かざるを得ない何かを尾張氏は持っていたのではないか。
そこで、宮簀媛命なんですが。
この媛命、日本武尊と結婚したのにですね、
子どもがいないんですね。
石女(うまずめ)だったのかどうかはわかりませんが、それを象徴しているのが先ほどの歌で。
当時、月経の期間に妊娠しないことがわかっていたかどうかは知りませんが。
そういった医学的な知識とは別に、「月の障り」という言葉があるように、不浄の期間で同衾しないのが当たり前だったんです(多分。その時期に、わざわざ籠る小屋を作るような地域もあったような記憶があります……これは民俗学の分野ですが)。
もちろん、経血がついた服を着ていたからといって、月経の間に同衾したとは限りませんが。
結局、子どもは生まれなかったわけです。
宮簀媛命は、どうやら「荒魂」を発現させる方だったようです。
世の中のヤマトタケル神話の解釈とはちょっと異なると思うのですが。
宮簀媛命、日本武尊を殺したんじゃないでしょうか?
理由は、子どもが生まれなかったこと。
「荒魂」ですから。
そう考えると、伊吹山の神を退治しに行くのに、剣を置いて行った理由もわかります。
死人は剣を振れませんから。
もっとも、媛命がどのタイミングで日本武尊を殺害したかはわかりません(東国から戻ってきたときなのか、あるいは伊吹山の神と対峙して戻ってきたときなのか)。
とはいえ、大和朝廷の皇子ですから、殺人だと悟られるわけにはいきません。
伊吹山以降のヤマトタケル伝承は、殺人をごまかすために潤色されたものではないでしょうか。
いや、東国ではかなりの力を持つ尾張氏の祖が、朝廷の傘下に入ったのは、この一件があったからなのかも……。
ちなみに、七束脛(ななつかはぎ)という人が、日本武尊の東征に従ったという話が『記紀』にあります。
この人、膳夫(かしわで)、つまり料理人です。
何人かの部下の名前も記されているんですが、料理人も名前を載せられるなんて、当時から軍隊においてコックさんは重要だったんだなぁ……というのが一般的な見方でしょうか。
でも、料理人です。
毒、入れ放題でしょ?
『記紀』を編纂した人達は、ひょっとしたら日本武尊が殺されて、それも料理人が怪しい、と思ったから、あえてこの人のことを書いたんじゃないでしょうか。
ちなみに、この七束脛という人、久米直(くめのあたい)の祖先だとも書かれています。
引用した『尾張名所図会』の最後のところに、
「祠官 久米氏」
とあります。
あれ?
実行犯は七束脛だとして、では計画したのは……?
信じるか、信じないかは、あなた次第です。
かなり冒涜的なことを書きましたが、宮簀媛命がこの地ではとても人気がある神であることは間違いありません。
ひょっとすると、大和朝廷の征服軍(日本武尊はどう考えても、征服軍の大将です)から、体を張って尾張を守った英雄なのかもしれないです。
その「荒魂」を真摯にお祈りしましょう。
↑これが、おすすめです。