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「味鋺神社」と「護国院」の参拝を終えて、さてどうするかとふらふらしている内に、わりと近場にあったじゃないか、ということで。
「窯神神社」です。
◯こちら===>>>
http://www.seto-marutto.info/cgi-bin/data/miru/009.html
「民吉出生の地
この地に、加藤民吉の出生地である大松屋敷がありました。民吉は江戸時代後期に九州で磁器製法を学び、瀬戸に伝えて磁器の生産が本格化することに貢献した「瀬戸焼中興の祖」です。「磁祖」として窯神神社に祀られています。
また、ここでは、有田を始めとする九州の窯場で、磁器の釉薬に用いられていた柞(いいす)の木が民吉の九州の修行を偲んで植えられています。」
「磁祖」。
マグニートーかい。
いえいえ。
私、芸術関係にさっぱり疎いので、「磁器」が「陶器」とどう違うのか、説明できません。
検索してくださいね。
あるいは、『なんでも鑑定団』とか、ご覧になってください。
小さなお社。
町内安全とあるので、神明社でしょうか(?)。
少しばかり山を登って、到着。
窯跡なんですね。
……まだ登るのか……。
この碑は、昭和三十一年建立のようです。
鳥居。
野趣溢れる……というと聞こえはいいですが、手入れされているようには感じませんね。
狛犬。
恐らく陶製なんですが……野ざらしよりましか、てなもんで。
こちらが、本殿というか、拝殿というか。
「窯神神社
江戸時代後期に九州で磁器製法を学び、瀬戸に伝えて磁器の生産が本格化することに貢献した「磁祖」加藤民吉(かとうたみきち 1772〜1824)を祀っています。
9月の第2土・日に開催される「せともの祭」は民吉を称える祭礼です。
神社の北側からは陶土珪砂採掘場を望むことができます。採掘場では、木節(きぶし)・蛙目(がいろめ)粘土と呼ばれる良質な陶土やガラスの原料の珪砂が掘られています。」
「せともの祭」というのは、
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↑で確認していただけますが、さながらコミケのような人のにぎわい、なお祭です。
私は行ったことがないのですが、仕事上ちょっとだけ関係していまして。
できれば、そのときには瀬戸には近づきたくないです。
いえ、盛り上がっているのは喜ばしいことなんですけれどもね。
それにしても、加藤民吉氏を祀ったお祭だったんですねぇ……そういうことはもっとちゃんと伝えるべきではないかと思います。
「愛知県陶磁器工業協同組合」さんが奉納した額。
焼いてあります。
本殿(多分)はこんな感じです。
様式なんかありませんが、それが面白いのではないかと。
加藤民吉氏が江戸後期の人ですから、神社自体ももちろん新しいわけです。
「窯神神社の由来
窯神神社は、磁祖加藤民吉翁が信仰していた秋葉大権現・天満威徳天神・金比羅大権現三神の遥拝所建立を申請し、文政七年(1824)五月に尾張藩の許可を得て、翁の窯場背後の山上に祀ったのが始まりであります。その後に民吉翁が合祀され、「やきもの」の神社として市民の崇敬を受けています。
加藤民吉翁のこと
安永元年(1772)に瀬戸村で生まれ、文化元年(1804)二月より、当時伊万里焼に市場を奪われ苦境にあった郷土の産業を救わんと、熱田奉行津金文左衛門胤臣父子の支援を受け、同郷の天草本渡東向寺住職天中和尚を頼り、肥後・肥前の磁器製造法を習得し、同四年六月に帰国しました。以後、更に技術を開発し当地の繁栄に寄与したのであります。
中興の祖、磁祖といわれる所以であります。
文政七年七月四日没 享年五十三歳」
「天満威徳天神」というのが、サイトによって「矢満威徳天神」と書かれていますが、単なる読み間違いで、要するに菅原道真公のことです。
天草の東向寺というのは、
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のことのようです。
HPから引用しますと、
「天草島原の乱後、民心安定のために建てられたお寺の一つ。創建は慶安元年(1648年)」
で、
「15世住職の天中和尚が、瀬戸焼の陶祖・加藤民吉を高浜焼窯元上田家に仲介した」
とのことです。
「瀬戸焼の陶祖」←これ、微妙に違っておりますが。
天草島原の一揆の後、というところに、
幕府の政治力全開
で建てられた感じがします。
まぁ、当時は私寺なんてないわけですが。
境内は公園のようになっています。
「残心の杉
加藤民吉翁は、1804年(文化元年)、九州へ磁器製法修行の旅に出発しました。
1807年(文化4年)修行を終えた翁は、修業先の福本仁左衛門家を去るにあたり、記念に杉を植えました。この杉は長崎県佐々町に「残心の杉」と命名され現存し、大切にされています。
民吉翁の九州修行200年を記念し、この大杉の枝を取り寄せ、東京大学付属愛知演習林の指導・協力により挿し木・育成し、ここに植樹しました。」
「飲水思源碑
民吉翁は、九州での修行の際、本渡(現天草市)の東向寺で菱野(瀬戸市)出身の天中和尚に大変お世話になりました。
瀬戸市は1959年(昭和34年)、その東向寺開山300年記念として「民吉翁之碑」を贈りました。磁器の原料でもある天草陶石のこの「飲水思源」碑は、その返礼として1962年本渡市より贈られたものです。」
いろいろな努力があっての、「窯神神社」ということなんですね。
もうちょっと整備してもいいんじゃないかな……。
加藤民吉翁。
さて。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
↑の140コマ辺りから、瀬戸の記述になります。
144コマの記事を引用しますと。
「新製染付焼
前にもいへる如く、当所の土は、陶器によく合ひて最上なれば、古今種々の器物を焼き試みるに、一つとしてならずといふ事なし。されど往古より南京様の陶器を焼き得る事なかりければ、是のみ陶工の嘆息なりしが、府下の藩士津金文左衛門胤臣の工夫にて、享和元酉年より焼き試みけるに、薬の加減など未委しく得ざりしに、陶工加藤吉左衛門の二男民吉といふ者、土の調合、焼方の秘奥を練熟し、焼き初めしが、其細工の絶妙、伊万里・唐津はいふも更なり、唐製にもをさをさおとらぬほどの染付を焼き出し、其後次第に窯数多くなりて、今は本業窯よりも染付の丸窯多し。是ひとへに民吉の功抜群にして、萬世不易の基を開きけり。上よりも御褒賞あらせられ、民吉・吉左衛門ともに永代苗字帯刀を免じ給ふ。民吉常に信仰せし太宰府の天満宮を、宅の後の山上に勧請し、左右に秋葉・金毘羅の小祠あり。これを窯神と名け、当村の修験泰澄院司る。実に御国産の第一なれば、村内に官舎ありて、焼き立つる器物を改め、しかして後府下の瀬戸物会所へ出し、夫より三都及び諸国へ運送す。享和元年より、染付焼取締役加藤唐左衛門・同清助に命ぜらる。」
この記事を読む限りでは、「南京様の陶器」を焼けなかった瀬戸焼が、「陶工加藤吉左衛門の二男民吉といふ者、土の調合、焼方の秘奥を練熟し、焼き初めしが、其細工の絶妙、伊万里・唐津はいふも更なり、唐製にもをさをさおとらぬほどの染付を焼き出し」た、つまり大陸製のものにも劣らない磁器を作ることができた、ということのようです。
「今は本業窯よりも染付の丸窯多し」というのは、陶器の窯よりも、絵付をする磁器の窯が増えた、ということでしょうか。
「民吉常に信仰せし太宰府の天満宮を、宅の後の山上に勧請し、左右に秋葉・金毘羅の小祠あり。これを窯神と名け」と、「窯神神社」についても書かれています。
「窯神神社」のみで名所、というよりは、瀬戸焼全てひっくるめての名所、ということで理解したほうがいいようです。
次も瀬戸です〜。