5/3。
遠出できないGWなので、近場を攻めようのコーナー。
今回は、「伊奴神社」。
◯こちら===>>>
西区というところは、名古屋では端っこで、大きな川が近くを流れています。
ま、それがどうした、ですが。
「御由緒
延喜式には『尾張国山田郡伊奴神社』と記載されている式内社で、第四十代天武天皇の御代(673年)、この稲生の地でとれた稲を皇室に献上した際に神様を祀り社殿を創建したものと伝えられる。
御祭神
素戔嗚尊・大年神 伊奴姫神を主神として十柱の神をお祀り申し上げる。
(略)
玉主稲荷社 天神社 日枝社 春日社 大杉社 白龍社」
「祭神
稚産霊神 保食神 倉稲魂神 伊弉冉神(いざなみのかみ) 早玉男神 事解男神 天照大神 熊野神」
町中にあるにしては、広い境内です。
蕃塀。
石造ではないですね。
明らかに何かを塞いでいますが、それが怨霊かどうかは秘密です。
本殿の様式は、明らかに寺ですね。
どうやら、「稲生町の地名の起りともいわれている」ようです。
「稲を生んだ→伊奴姫神を祀った→地名が稲生になった」
割とすっきりした感じですが、だったら「伊奴」が地名になってもよかったんではないかと思ったりします。
お犬さんがいらっしゃいます。
神社でいただけるパンフレットから引用すると、
「当神社には次のような言い伝えがあります。
昔、庄内川(※西区の傍を流れる大きな川です)の氾濫に困った村人が旅の山伏にお願いしてお祈りしてもらったところ、その年は洪水が起こらなかった。不思議に思った村人が開けてはならないと言われていた御幣を開けたところ、中には一匹の犬の絵と「犬の王」という文字が書いてあった。
そして次の年はまた洪水になってしまった。再び立ち寄った山伏に村人は御幣を勝手に開けてしまったことを詫び、もう一度お祈りをして欲しいと頼んだ。
すると山伏は「御幣を埋め社を建て祀れ」といい、その後洪水はなくなった。それが伊奴神社の始まりと云われている。
御祭神の伊奴姫神様は安産、子授けにご神徳があり、また犬は安産することから犬の石像が奉納されており、安産祈願に訪れる妊婦さんが犬石像を擦ってお祈りする姿がよくみうけられます」
とのことです。
……突っ込みは後ほど。
なかなか立派な絵馬殿です。
立派な木だったもので。
蕃塀近くにある「白龍社」。
御祭神は「高龗神(たかおかみのかみ)」。
「社伝によるとこの社は明治の初め頃この場所に鎮座するもその後諸般の事情により荒廃す。
平成七年五月、崇敬者の篤志により再建され、元の如く篤い崇敬を集めている。このご神木にいつの頃からか蛇が棲みつき、神さまのお使いとして崇め尊ばれてきた。
現在も毎年蛇の脱皮が見受けられその脱殻が大変珍重がられている」
「高龗神」は水神ですので、ほぼイコールで蛇神でもあると考えられています(元々、日本には竜(龍)という概念はなかったので、龍神はやはりほぼ=で蛇神です)。
その蛇が住み着いて、脱皮をして脱け殻を残していく、というのは、蛇にしてみれば恐らく、
単に住みやすい
だけです。
そこに神秘を感じるのが人間ですね。
「大杉社
この大杉のご神木にはその昔天狗が住んでいたと社伝に有り、「大杉を手で擦り患部を撫でると病気平癒に殊に御霊験あらたかである」と云い伝えられ、崇敬者の篤志により平成八年九月に社殿が創建され爾来その御神徳を祀る」
天狗までいましたか……。
末社の「日枝社、春日社、天神社」。
……超有名所から勧請しておりますので、説明略。
「玉主稲荷社
元は本社の西側に鎮座するも昭和29年本殿の造営にあたり此の場所に遷座す。(以下略)」
「E」を右に90度回転させたような配置になっており、正面と左右に参道があります。
もちろん、朱色の鳥居も並んでおります。
さて、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
で見られる『尾張名所図会』の、49コマに「伊奴神社」のことが書かれています。
「稲生村にあり。今は三熊野十二所権現と称す。「延喜神名式」に山田郡伊奴神社、「本國帳」に従三位伊奴天神としるせり。祭神は大歳神の妻神伊奴姫なるべし」(※一部旧漢字を変更)
これだけです。
おいおい、「犬」はどうした?
というわけで、江戸末期にはそれほど盛んに信仰されていなかった、と思わせる記述です(まぁ、観光名所案内ですから、まるっと鵜呑みにするわけにはいきませんが)。
先ほどの、「山伏が、犬の絵を描いた御幣で洪水を沈めた」云々という話が、この神社の創建の話ではないか、と言われているのですが。
うーん……ぎりぎり?
「延喜式」は、10世紀半ばには完成しています。
そこに書かれた由緒は、673年創建。
一方で、「山伏」と称される修験者の元祖といえば、スーパー神変大菩薩の「役行者」です。
wikipediaによればこの方、634年-701年に生きていたようで。
673年には壮年ですから、信者が多く、修験者が近畿地方に広がったという可能性は低くはないですが。
さて、尾張地方までやってきて、治水の呪術を行なうほどにポピュラーな存在だったのかどうか。
とはいえ、五行的に考えると、「犬(戌)」は「つちのえ」で「土気」、「土剋水」=「土は水に勝つ」ですので、呪術としては間違ってないんですよね。
個人的には、「稲生」という地名が先にあって、そこから「伊奴姫神」を祀り、修験道が流行するにつれて(ほら、天狗もいたしね)、治水の呪術を行なうものが現われ、それがたまたま「戌」で……という順番だったのではないかと思います。
さて、実際のところどうなんでしょうね。
そして気になるのは「犬の王」ですが……。
ひょっとして、「犬」を使った治水の呪術って、「蠱毒」だったんでしょうか。
それがあまりほめられた感じではないので、こんな言い伝えになった、と。
でも、「蠱毒」で治水というのは聞いたことないな……。
いずれにしろ、面白神社はまだまだあるのです。