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黄金週間、遠出をしてみよう、ともくろんではいたのですが、そうもいかず。
というわけで、身近にしておこうと。
最近、郷土史家みたいになってきましたが。
◯こちら===>>>
「式内大社」。
ついでに、「尾張国 二の宮」でもあります。
尾張国の式内大社(全て名神大社)は、wikipediaによれば、「大神神社」「真清田神社」「尾張大國霊神社」「太神社」「熱田神社」「日割御子神社」「孫若御子神社」「高座結御子神社」と、「大縣神社」の8つがあったそうです。
他の神社も、およそ比定されているようです。
「真清田神社」「尾張大國霊神社(国府宮神社)」「熱田神社(熱田神宮)」は今も大神社ですね。
「日割御子神社」「孫若御子神社」は、「熱田神宮」の境内摂社です。
「大神神社」は、「真清田神社」と「尾張一の宮」を争っている神社のことですね(争ってないか)。
「太神社」は……行ってないですねぇ……。
読めそうで読みづらいので、神社でいただいた「大縣神社のご案内」から。
御神徳 尾張開拓の祖神を祀る当社は、古来より朝廷を始め衆庶の崇敬篤く、尾張の二宮様として親しまれ、事業繁栄・開運厄除の守護神として仰がれております。
由緒 当神社の御鎮座は古く社伝によれば、垂仁天皇二十七年(紀元前三年)に濃尾平野を見下ろす本宮山頂より現在の里宮に御遷座申し上げたと伝えられて居ります。
延喜式神明帳には名神大社として登載され大正七年十一月に國幣中社に列せられました。
現在の御社殿は、尾張藩主二代目徳川光友公が寛文元年(1661)に御再興された建物で、尾張造を正確に伝へ、特に御本殿は三棟造・大縣造と称され他に類をみない特殊な様式を備え、国の重要文化財の指定を受けて居ります。」
元々、「本宮山」の山頂にお祀りされていたのが、降りてこられたのが垂仁天皇の頃。
『日本書紀』には、そんな記録はもちろんありません。
拝殿。
「尾張造」という特徴的な造りの解説は、
◯こちら===>>>
生涯一設計士・佐々木繁の日々:雨処理ウォッチャーの目 2 … 雨処理に優れる「尾張造」と 雨は応急処置のままの「神明造」
↑検索していたら、こちらが見つかったので、ご覧いただければ、と。
拝殿、本殿、その間の祭文殿を一直線に並べ、それぞれを廻廊でつないだ、左右対称の建築様式、だそうですが、「大縣神社」ではよくわかりません。
なんとか、様子をうかがえないかといろいろ試してみましたが……。
◯こちら(175コマ)===>>>
近代デジタルライブラリー - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
描かれております(明治に入るまで、「熱田神宮」も「尾張造」でした)が、なんか、イメージと違います……。
「大縣神社」の方は、
◯こちら(187コマ)===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会
こちらの方が分かりやすいでしょうか。
「姫之宮」。
御祭神は「玉比売命」「倉稲魂神」。
「玉比売命」は、御祭神の御神裔だそうです。
女神の社だからなのか、「稲荷様」が合祀されているからなのか、朱塗りが鮮やかですね。
「姫之宮」に沿って奥へ行きますと、「むすひ池」があります。
「むすひ池について
この池は、神話の時代より濃尾平野を潤してきた源流の水を湛えております。
池の名の「むすひ」とは、人と人とを結び付ける神霊の力と、形のないものを結び付け形にする神霊の働きの事をいいます。
祈願の際は、用紙にお願い事などを記入、お賽銭として百円硬貨などをのせ、水面に浮かべます。
祈願用紙が早く沈めば祈願が早く成就し、遅く沈むと縁が遠いと云われております。
むすひの力を戴き、皆様の願意が御神意によりむすび叶えられますようご祈願下さい。」
もちろん、やってませんが。
この手のイベント(不敬な)は、客寄せには必要ですからね……「パワースポット」などと名前をつけ直すのも同じような効果でしょうか。
その奥にある「姫石」。
最初、何が「姫」なのかわかりませんでしたが……要するに「女陰」をかたどっているわけですね。
どうやら、2月頃の「豊年祭」という有名なお祭では、
◯こちら===>>>
↑のHPではさっぱり様子がわかりませんが、女陰をかたどった御神輿が登場するのだそうで。
「奇祭」として有名だそうで。
全然知らなかったですけどね。
まぁ、フロイト先生やリンガ信仰を持ち出すまでもなく、女陰男根崇拝は世界中にあるでしょうし、子どもを残すということが非常に重要だと考えられていた時代には、それだけ切実な願いがあったということでしょう。
いえ、現代でも重要だということはわかりますが。
個人ではなく、社会の切実さが違っていただろう、という意味で。
そうじゃなかった輩は、今も昔もそりゃたくさんいたでしょうけども。
「大黒恵比須神社」。
なんだ、「他十五社」って……。
上の三枚の写真で、「尾張造」な感じがわかるのではないでしょうか。
「楽田神社」。
地元出身の英霊をお祀りしているそうです。
「護国神社」、「招魂社」、ということですね。
海軍大将八代六郎が地元出身ということで、併せて祀られているそうです。
◯こちら===>>>
社務所手前に、「解除社」がありました。
普通、「祓戸社」といわれているものだと思います。
案内もなく、ですが。
……なんだ、この写真。
本殿前の駐車場なのか、お祓い場所なのか……。
撮った理由をもう覚えていません。
さて、『尾張名所図絵』によれば、本社の御祭神は「国狭槌尊(くにのさづちのみこと)」、「活目入彦五十狭芽天皇(いくめいりひこいさちすめらみこと/垂仁天皇)」、「国常立命」、「豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)」だったそうです。
「垂仁天皇」以外は、『日本書紀』では「神代紀」の最初に登場する神ですね。
祖神、氏神とするには抽象的すぎる気がします。
そこで、「大縣大神」が作られたのでしょうか。
また、境内社として「神明社」、「戸塚若宮社」、「多賀社」、「中宮社」、「辯財天四社」、「毘沙門社」、「大黒社」、「白山社」、「瘡神社」、「神宮寺社」、「妙見社」、「伽藍祭社」があると書かれています。
「大黒恵比須社」に祀られているはずの「事代主神」がいないんですよね……。
後からくっつけたとして、「辯財天四社」を四社だと数えると、「他十五柱」とだいたい一致するので、「大黒恵比須社」は、境内社を合祀したものだと考えてもよさそうです。
それはいいとして、やっぱりですね、
「姫之宮」に当たるものがない
んですよねぇ……。
まあ、『尾張名所図会」は観光ガイドブックみたいなものですから、厳密さを求めるのも無理があるのかもしれませんが。
「例祭」の中にも、先ほどの「豊年祭」に一致しそうなものがありません。
『尾張名所図会』がそもそも結構新しいものなんですが(1850年代)、そこに載っていないとすると、「姫之宮」も「豊年祭」もかなり新しいものと考えなければなりません。
あるいは、「表に出せない、
秘密の祭り
として地元の人達のみで細々と続けられてきた」
という可能性もあります。
そっちだと面白いんですけども。
あとは、社伝を読めばわかるんでしょうが、ここから先は郷土史家の方にお任せしまして。
ゆるい神社仏閣好きは、妄想で楽しみます。
……だって、奥が深いんだもの、尾張。