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用件ありで出かけたので、ついでに今まで立ち寄っていなかったところへ。
「和示良神社」。
◯こちら===>>>
↑公式HP等はないようですので、こちらで。
住宅街の奥の方にあるので、入り込むのに迷いそうです。
だいたい「わじらじんじゃ」か、私などは「にじらじんじゃ」と読んでいたのですが、とりあえず「かじらじんじゃ」と読むようです。
「由緒
古くからの語り伝えによると、この地に居を構えていた武内宿禰の子孫が、安土・桃山時代の文禄二年癸巳(1592年10月6日)に創建したとされている。当時この地は、秀吉の海外出兵等の際の交通の要所として栄えており、宿禰の子孫は平和(安全)をお願って社を建て、御神(仁)に武内宿禰を祭った。創建時、記念として境内に植えられた栃の木が、幹周り三m程の大木に成長し近隣の人々より、「学問・長生き・五穀豊穣・繁栄にご利益がある」と親しまれ、明治の始めまで「原の天神様」と呼ばれていた。
大木は伊勢湾台風で倒れ、平成始めまで廃木として残っていたが、いつしか姿を消した。
御神(仁)(祭られている神様)
五仁吉師(山ノ神)……字薮下より移す
大山祇神(山ノ神)……字交換より移す
富士浅間社 秋葉山……西原交差点西北より移す」
えー……不敬を承知で申し上げますが、
なんてセンスのない拝殿
なのか、と思いました。
一見、公衆便所かと思いました……古式が全てとは思いません、現代的でも構わないんです、木造である必要すらないです。
が、センスがないのはいかがなものか。
残念……(氏子の皆様、申し訳ありません。単なるおっさんの感想なのでご容赦いただきたい)。
本殿。
普通です。
ほっとします。
「英霊社」だそうです。
「秋葉社」。
地面にまで緑青がこぼれているのか、ペンキなのか。
「山ノ神社」。
「名東区の史跡散策路」では、
「西ノ切にあった富士浅間社」と「欠下にあった山ノ神社」を「明治41年に合祀して村社とした」
とあります。
「西ノ切」も「欠下」も、神社のある住所からほど近くです(字なので、今は使わないこともあるでしょう)。
さて、『延喜式』によれば、尾張国山田郡には「和尓良(わにらの)神社」があった、とされています(wikipedia「尾張国の式内社一覧」より……ほしいなぁ『延喜式神名帳』……)。
で、名古屋市の北にある春日井市というところに、「和爾良神社」というのがあるそうで(未踏)。
どちらが『延喜式』に載せられている神社なのか、あるいは他にも候補があるのか。
こういう、『延喜式神名帳』に名前があるのだけれど、候補となる神社がいくつかあるものを、
「論社」
というらしいです。
で、『延喜式』の「和尓良神社」の御祭神が何か、までは今の私では調べる術がないのですが(ネットの限界というか、私の限界)。
とりあえず、「和示良神社」は、かつては「原の天神様」と呼ばれていたくらいなので、「菅原道真公」をお祀りしていたのではないか、と思います。
それがどっか行っちゃいましたね。
御祭神には「誉田別命」、即ち「応神天皇」も入っているので、「あれ、昔は八幡社だったの?」と思ったりもします。
(1)かつて、山田郡のどこかに「和尓良神社」と呼ばれた神社があった。
(2)時代が下って、地名に「わにら」だけが残った。
(3)そのうち、天神様をお祀りする神社が建った。
(4)この辺りの氏神様になった。
(5)何だかよくわからないけれど、地名は「わにら」だか「かにら」だし、『延喜式』にそんな感じの神社があるので、「和示良神社」にしてしまおう。
みたいな流れじゃないのかなぁ、と想像されます。
いや、想像ですから。
そもそも、この辺りの地名が「和示良」だったかどうかも調べてません。
ところで、由緒書に、
「五仁吉師(山ノ神)……字薮下より移す」
ってありますけど。
これ、どう考えても、
「王仁吉師」
のことですよね?
誰か、神職さんに教えてあげた方がいいのではないでしょうか?
ほら、「千字文」とやらを日本に伝えたと言われている、実在しているかどうかも分からない「王仁」さんですよ。
そういえばこの人、「わに」さんですよねぇ。
「和爾」さんとも書きますよねぇ。
とはいえ、「五仁吉師」という表記が正しい、という可能性も十分にありますので、誰も教えてあげないんですね、きっと。