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仕事で出かけた先で、思いのほか時間ができてしまったので、ふらふらしていたら発見。
「白山神社」。
◯……オフィシャルHPがないので、「近代デジタルライブラリー」の『尾張名所図会』より(コマ番号102)===>>>
近代デジタルライブラリー - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会
そういえば、桜の写真を撮っていなかったな、と思っていたところに遭遇したので。
メインは桜です。
「美濃路
美濃路は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ脇街道として発達したものである。その経路は宮の宿で東海道と分かれて名古屋・清洲・稲葉・萩原・起の各宿を経て美濃国に入り、墨俣・大垣を経由して、垂井宿で中山道に合流した。
その里程は十四里二十四町十五間(約57キロメートル)といわれ、五街道とおもに道中奉行管轄の主要な街道であり、大名行列、朝鮮通信使、琉球王使などのほか、多くの庶民も往来し、にぎわいのある街道であった。
立て場
白山神社の前は、立て場であった。立て場というのは、人夫が杖を立てて休息する所からいわれ、宿と宿の中間にあって、旅人のために茶店等が設けられた。
白山神社について、『尾張名所図会』は、「社内に榎一株あり。是即白山の神木なれば、榎権現の称ここに起る。」と記している。神社の西側を流れていた笈瀬川に権現橋という石橋があった。現在、川も橋もないが、かつての橋の欄干は白山神社の垣根の一部として使われている」
手水鉢にも花筏。
いきなり拝殿です。
新しいですね。
本殿を横から。
メインは桜です。
「少将稲荷」。
メインは桜です。
うーん、写真が今ひとつですな……。
鳥居まで戻ってみました。
境内社。
向かって右から「戸隠社」、「金刀比羅社」、「天神社」。
鳥居外から拝殿方向を。
メインは桜です。
何と、素敵末社を発見。
「田道間守社」。
「オオナムチノミコト」は、「大国主命」の別名で、「因幡の素兎」の神話でお分かりの通り、治療に威力を発揮した神でもありました(兄である八十神に殺されたときなどは、母神等の力を借りて甦ったりしていますし)。
「タジマモリノミコト」は、第十一代垂仁天皇の頃に、「非時香菓(トキジクノカグノコノミ)」を求めて常世の国に渡り、数年を経て戻ってくると既に天皇は亡くなっていたので、皇后と陵に「非時香菓」を捧げて、悲嘆のうちに自らも死んだ、という人です。
「天之日矛」という、朝鮮半島から渡ってきた(らしい)神様がいらっしゃるのですが、その方が多遅摩俣尾(たじまのまたお)という神の娘と結婚してできた血統です。
「トキジクノカグノコノミ」は、今でいう「橘の実」のことではないかと言われています。
「菓子」というのは、昔は「果物」のことを指していました(全部じゃないでしょうけれど)。
世にも珍しい「橘」をとってきたので、「菓祖」と言われるようになったのでしょう。
でも、「橘」ってそんなに珍しいんですかね……。
「トキジクノカグノコノミ」は、名前の示す通り、不老長寿の実と考えられていました。
常緑樹の橘と結びつけられたのでしょう。
落葉樹と常緑樹の対比は鮮やかですし、それはまた花散る桜との対比にもなったのでしょうか。
「右近橘、左近桜」というのもありますね。
「田道間守」をお祀りした総本宮が、兵庫県にある「中嶋神社」です。
◯こちら===>>>
「田道間」、「多遅摩」はつまり「但馬」です。
今の兵庫県北部です。
で、何故ここで「田道間守」が御祀りされているのか……ネットの検索ではよくわからないようです。
メインは桜です。
「権現橋」の欄干。
神社の玉垣代わりに使用されており、それが一風変わった風情を生んでいるのかもしれないです。
「名古屋十名所」の碑。
◯こちら===>>>
http://www.aruku88.net/memo/01nagoya10/index.html
↑で紹介されております。
「熱田神宮 名古屋城 笠寺観音 闇ノ森 榎ノ権現 櫻田勝景 圓頓寺 久屋金刀比羅 山田元大将之社 天理教々務支庁」
「大正十三年に新愛知新聞社(現中日新聞社)が選定した」らしいです。
……最後のが気になりますが。
とにかく、メインは桜ですので。
さて、最初に紹介した『尾張名所図会』の解説ですが、
「白山権現社
押切町の北側にありて、俗に抜(ぬけ)の権現と稱す。別当は榎本山福満寺と稱して、紀伊国高野山金剛三昧院の末寺。文禄年中(1592〜96)の建立なり。縁起略に曰く、当社は文明九年(1477)、当国の太守斯波大輔義廉、清洲に在城の時、加州白山権現を信仰ありしに、或夜夢中に老尼顕れ、我は白山の霊なり、当国鴛鴦喜里(おしきり)の沼の辺に勧請すべし。武門を守護せんと見て夢覚めぬ。夫より此社を勧請し、左右に神明・秋葉を祭れり。又社内に榎木一株あり。是即ち白山の神木なれば、榎権現の稱ここに起る。近年榎枯槁すといへども、猶其通稱は残れり。当社鰐口に正長二年(1429)九月九日の文字見えたり。西国の諸侯方・琉球人などまで、皆当社に休息す。書院よりも西北の眺望、打開きて風景頗るよし。」(一部旧字を改め、西暦を追加)
とあります。
「田道間守社」のことには触れられていませんので、いつからあるのかがわかりません。
また、図絵中「本社」の向かって左に小さな社が見えるのですが、ネット上では文字が読めません。
そして、「少将稲荷」の「少将」って誰なんだろうとか……「深草少将」でしょうかね。
だったら何か伝説なりがあってもよさそうですが。
それとも「少将井」と何か関係があるんでしょうか……近くに「八坂神社」があるようですし(近世に移築されているので、関係はさっぱり)。
◯こちら===>>>
「織田信長が永禄3年(1560年)の桶狭間合戦の時、勝利祈願に太刀一口を寄贈したといわれています。」
だそうです。
そんな大事なこと、もうちょっと大きく書いてもいいのでは……あ、どこかに立て札あったのかな。
とりあえず、お花見気分での短時間参拝でした〜。
御朱印はあるかどうかはわかりません。