9/14。
「吉備津彦神社」の参拝を終えて、駅まで向かうも電車を逃しました。
駅前には、明らかなママチャリをレンタサイクルとして貸し出している店があり、それを借りるのも一興、と思いながらも、地図を見てみると目的地までさほど遠くない。
というわけで、徒歩です。
スマホで見てみると、1.6キロくらい。
とぼとぼと、線路と平行して歩きました。
暑い、そして案外遠い。
これが、吉備の中山です。
向かって左手に「吉備津彦神社」がありました。
向かって右手の、山の麓を目指しています。
「これより東備前」。
東から歩いてきましたので、ここが国境。
備中国を目指します。
というか、入ってます。
やっと参道までたどり着きました。
松並木はなかなかの風情です。
暗いですが。
到着〜。
◯こちら===>>>吉備津神社
山に寄り添う感じで建てられていますので、ここから上らなければなりません……幸い、階段なんですが。
「矢置岩の由来
社伝によれば、当社の西北八キロの新山に温羅という鬼神あり、凶暴にして庶民を苦しむ、大吉備津彦命は「吉備の中山」に陣取り鬼神と互いに弓矢を射るに、両方の矢、空中にて衝突して落つ、そこに矢喰宮(旧高松町高塚に現存)あり、また中山主神は鬼神の矢を空中にて奪取す、当社本殿の中に祀る矢取明神はすなはちそれなり、この戦のとき大吉備津彦命その矢をこの岩の上に置き給いしにより矢置岩と呼ぶと(後略)」
鳥居の代わりに立ってます(代わりじゃないか)。
階段、かなり急ですので、お気をつけを。
北随神門。
門の半ばまで階段、という珍しい造り。
参拝者はまずここで驚くのではないでしょうか。
拝殿。
1.5キロを歩き、階段を上り切って、足はパンパンです。
ぜえぜえしながら、参拝。
本殿を、向かって左側面から。
「吉備津造」と呼ばれる独特の形で、国宝に指定されています。
パンフレットによれば、室町時代に建て直されていますので、それ以前の様式のままかどうかはよくわかりません。
いずれにしろ、独自性は、力を持っていたか、力を誇示したかったかを示しているのでしょう。
近畿地方(畿内)に政権の中心があったころ、九州(海外への玄関口)と畿内をつなぐ山陽道の要衝に位置し、瀬戸内海も睥睨していた吉備地方は重要だった、ということでしょうか。
「比翼入母屋造」とも言われています。
そこから境内を巡ってみることに。
まずは、「一童社」に向かいます。
……よくわかりませんが、ご利益あっても、センスが今ひとつ……なーんてね。
「外」って……。
学業にご神徳のあるみなさまがお祀りされているようです。
ちらっと本殿が覗けました。
おみくじで「合格」。
……最初、いたずらかと思いましたよ。
そしてここから、険しい山道というか階段を上ります。
「如法経塔」。
なんか、キノコの類。
「滑ります」。
というわけでたどり着いた「岩山宮」。
御祭神は「建日方別神」。
「イザナギ」「イザナミ」両神が、「大八洲(おおやしま)」の次に生んだ六つの島の一つ、「吉備児島」の別称を「建日方別」というそうです。
往時は本当に島だったかもしれない、児島郡(半島)と周辺の島々のことを指していると思われます。
「タケヒカタワケ」と読みますが、「◯◯ワケ」という名前が、記紀神話の中で流行った時期があるようです。
例えば、応神天皇とかね(「ホムダワケ」)。
「◯◯ワケ」という名前を持つ人は、吉備に縁のある人かもしれません。
どうもこんばんは、妄想です。
階段を降りてくると、境内北側です。
「祖霊社」があったり。
子どもの霊を祭るお社があったり。
これは、本来水子供養として、お地蔵様の出番なのですが。
日本でいえば、「蛭子神」がふさわしいでしょうか。
ちょいと行くと、三重塔の遺構らしきものを発見。
古図なんかを見て、往時の様子を確認してみたいですねぇ。
回廊に戻ってきました。
こちらは「えびす宮」。
「明治期に、奥深くに納められて以来祀ることもなくなったのを、殿宇を建ててお祀り」したそうです。
昔は大層有名だったそうですが。
「蛭子神」は、日本の神様ですから、廃仏毀釈で突っ込まれることも少ないんじゃないかと思うんですがね……何があったのやら。
本殿の方まで戻ってきました。
御祭神は「大吉備津彦命」、その弟「若日子建吉備津日子命(ワカヒコタケキビツヒコノミコト)」、その子「吉備武彦命(キビタケヒコノミコト)」など八柱をお祀りしているそうです。
「大吉備津彦命」は、又の名前を「比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)」(日本書紀では「彦五十狭芹命」)と言いまして、孝霊天皇(第七代)の皇子です。
崇神天皇(第十代)の頃に、四道将軍の一人として、吉備地方に派遣されました(同じように、四道将軍として派遣されたお方に「大彦命」がおられます。伊賀国一宮「敢国神社」にお祀りされている方ですね===>>>敢国神社 - べにーのGinger Booker Club
)。
だから、「大吉備津彦命」になったのだと思います(つーか、他に考えられません)。
「吉備武彦命」は、系譜的にはよくわかりませんが、「日本武尊」の東征に従った方のようです。
ま、多分、吉備出身だったんでしょう(「御鋤友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)」という名前も伝わっています)。
ここまで「吉備」「吉備」と主張されるってことは、それだけ古代から「吉備」が重要な地域だった、ということなのか。
あるいは、「あくまで正当な手段で手に入れた吉備地方ですよ」ということを知らしめておきたかったのか。
ちなみに、吉備の国は「備前、備中、備後、美作」の四つの国に分裂しますが、「備前、備中、備後」の三国の一宮はいずれも「大吉備津彦命」をお祀りしており、この「吉備津神社」から御分霊したものを思われます。
で、かなりくたくただった私はといいますと、他にもお参りすべきところがあったのですが、残念断念。
超有名な「鳴釜神事」に触れることもできず……何しに行ったんだろう。
はぁ……。
逆光で見えませんが、吉備津駅付近にありました。
駅から本殿までが参道になっています。
線路をまたいでいるんですな。
で、神社から北の方を見てみますと、またこんもりとした山があります。
中山もそうですが、こういう山を見ると、古代から山々に支配者がいて、様々な戦いが繰り広げられたんだろうなぁ、と思います。
さて、「温羅退治」の伝説は、「桃太郎」の原型と言われています。
どこからか飛んできた「温羅」という暴れん坊(百済の王子ではないか、という説もあります)を、朝廷から派遣された「比古伊佐勢理毘古命」が退治しました。
「吉備津神社」のHPには、「降参した「温羅」が、地元の人から呼ばれていた「吉備冠者(きびのかじゃ/きびつかじゃ)」という名前を、命に献上し、それ以降「大吉備津彦命」と呼ばれるようになった、とされています。
別の伝承では、命は「温羅」の首をはねたのですが、唸り続ける首を「お釜殿」の地中に埋めたそうです。
降参したのに首をはねられちゃった、と考えると何とも惨い話ですが、まぁ昔からよくある話でもありまして。
ただ、この「温羅」、どうやら地元で「吉備冠者」と呼ばれていたらしい、と。
「冠者」は、いろいろな意味を持っています。
「若者」だったり、無官の人だったり(日常的にはあまり聞きませんが、狂言には出てきますね)。
そんなに古い言葉でも無さそうですが、「吉備の若者」とか、「吉備の役人」とか、もっと言えば「吉備の代表者」というイメージが浮かびます。
地元の人から呼ばれていたんだから、リーダー的な存在だったのではないか。
とすると、「大吉備津彦命」は、単に侵略しにきただけで、この「温羅」も、それに抵抗しただけなのではないでしょうか。
「鬼ノ城」という山城が、朝鮮半島式のものではないかと考えられている通り、渡来人だった可能性もあります(出雲〜吉備にかけては、半島が近かったのですから、渡来人も多かったでしょう)。
で、山に立てこもって抵抗したけれども、残念なことに敗れてしまった。
それも、かなり恨みを飲んでいたようなので(切り落とされた首が唸るんですから)、ひどい奸計で殺されたのではないでしょうか。
で、HPで語られている「鳴釜神事」の起源にですね、命の夢枕に立った「温羅」の話があるんです。
『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに 鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』
妻の「アソヒメ」を、神事を執り行う神職につけろ、ということですね。
祟りをなす神がいると、関係者を見つけてきて祀らせろ、というのはよくあるパターンの話です(「オオタタネコ」神話等)。
古代から伝わる、祟りを鎮める一つの方法です。
ということは、「祟りをなすほど恨んでいる」わけですが、「祟り」というのは常に「祟られる側の問題」です。
悪い神を退治して祟られたところで、本来ならどうってことないはずなんです。
しかし、その祟りが現実に脅威をもたらすとなると、それはもう「祟られている側」がやらかしたことの応報なんですね。
後ろめたいのは、「祟られる側」なのですから。
でで、よく読むと、もっと恐ろしいことが書いてありまして。
『ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え』
これ、要するに、「お前はもう死んで、神となれ」って言ってるわけです。
なかなか強烈です。
実際にそうなったのかどうかはともかく、「温羅」の首はこちらに祀られて吉凶を占い、「大吉備津彦命」は中山に葬られました。
Googleマップ等でこの辺りを見ていただくと、古墳がたくさん見られます(古墳があんまりない地域、というのが実は珍しいのですが)。
古代のロマンに、もうちょっとゆっくり思いを馳せたかった、という岡山の旅でした。
「鬼ノ城」行きたかったなぁ……。
私の年代で「温羅」っつったらもうこれなんですよねぇ……イワン・シュテンドルフ。
「温羅」=「酒呑童子」、というトンデモ話です(漫画です)。
そういえば、「冠者」は「童子」と似たような意味ですねぇ……まさか……。
どうもこんばんは、妄想です。