べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「知立神社」(再)(知立市)〜高速初詣三河編〜

1/9。
空模様も怪しくなってまいりましたが、ラストに立ち寄ったのは知立神社」です。

 

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「知立神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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鳥居。

人手がすごくて驚きました。

さすが式内、三河二宮。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん(ニカッ)。

 

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提灯。

神紋は「青海波」です。

 

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御朱印

 

……え、写真はこれだけですけど何か?

 

いや、人が多い上に、雨がぱらついたりしていたもので、生活防水のない私のiPhoneでは……(防水機能のためだけに機種変更をしようと思っています……あ、いえ、バッテリーももはや死にかけなので)。

 

さて、前回の記事では、神社でいただく由緒書から引用しておりませんでしたので(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

知立神社は、池鯉鮒大明神とも称し、古来三河国第一の名社で、東海道沿線屈指の大社でもあります。
抑々当神社は、第十二代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国御平定の砌、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給ひ、依って以て数々の危難を脱して平定の大功を完うし給へるにより、其の報賽のため、建国の祖神、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊、玉依比売命神日本磐余彦尊神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた、国家的由緒あるお社であって、後世、文化の恩神聖徳太子を合せ祀り、相殿には当碧海地方開拓の祖神青海首命をもお祀り申上げてあります。
当神社は斯様な尊いお社柄でありますので、御歴代天皇の御崇敬も厚く、亀山天皇の弘長元年には正一位の神階を奉られ、元寇襲来に際しては、正安二年七月十三日附を以て異国降伏の御祈願がかかり、明治元年九月明治天皇御東幸の際には、勅使を差遣して金幣を捧げ国運発展の御祈願があり、又仝二年十一月十一日皇后御代拝参向の節は、神札の献上を命ぜられました。
されば領主を始め諸大名の崇敬も厚く、参勤交代の途次には必ず神札を拝受せられましたが、就中大垣藩主戸田氏は信仰極めて厚く、例祭には遠路わざわざ代参を立てられ、又刈谷藩主は毎年三回参拝奉幣せしめられ、例祭には特に警固の士をも派遣せられました。
当神社は古来「蝮よけ、長虫よけ」「安産」「雨乞い」等の霊験いとあらたかにましますにより、崇敬者は全国にあまねく、従って御分社も県内は固より遠く関東関西に亙ってその数夥しく、又大氏神と崇敬して例祭に参拝した村落が古来四十有余にのおり、現今に於ても当碧海地方一円の大氏神として崇敬を集めさせられて居ります。
(以後略)」

 

ううむ、「聖徳太子」を祀った理由がやっぱりよくわからない……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

式内社、ということで『神社覈録』からいってみましょう。

 

知立神社 
知立は音読也、和名抄、(郷名部) 知立、 ◯祭神吉備武彦命、 (熱田社鎮座記)◯池鯉鮒駅に在す、(略) ◯熱田社鎮座記云、三河国碧海郡知立神社、祭武彦命、寛平縁起云、倭武命奉命東征、(中略)天皇勅吉備武彦與建稲種公服従倭武尊、日本紀景行天皇四十年七月條云、天皇則命吉備武彦與大友武日連、令従日本武尊
或書に、祭神葺不合尊といふは、例の信用しがたき説也、今は従はず、(以下略)」

 

どうやら、御祭神が「鸕鷀草葺不合尊」というのは信用し難い、後付け、元々は「吉備武彦命」だったんじゃないの、ということのようですが……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 特選神名牒

 

↑『特選神名牒』も見ておきましょう。

 

知立神社
祭神 吉備武彦命
今按熱田鎮座記に三河国碧海郡知立神社祭武彦命々々々者孝霊天皇之皇子也今熱田龍神社記武彦命とあるは古伝によりて云るものなるべければ今之に従ふ社伝に鸕鷀草葺不合尊とあり又神主永見氏の記に末社に親母神と云あり豊玉姫命を祭ると云るは龍神なと申すよりの説にはあらざる歟附て後考を俟つ(以下略)」

 

やっぱり御祭神は「吉備武彦命」じゃないのかと……社伝はばっさり、ということですか。

「吉備武彦命」は、神社のお隣の公園にある「土御前社」に祀られています。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第3編

 

↑『尾三郷土史料叢書』の第3編に収録されている『三河国古蹟考』を見てみましょう。
気になるところだけ。

 

知立神社
(略)
◯熱田宮鎮座記云三河国碧海郡知立神社祭武彦命武彦命者孝霊天皇之皇子也今熱田竜神社祀武彦命 ◯按ニ永見氏云、末社ニ武彦命ノ社アリ。
(略)
尾張国帳集説ニ云知立社ハ、木花知流比賣也。
◯按ニ永見氏云、木花知流比賣命ハ地主ノ神にて別社ナリ。(以下略)」

 

「木花知流比賣命」が登場……ああ、「知流」が「ちりゅう」だから、ですか。
……うん、さすがに無理があると思います……「このはなちるひめ」の「ちる」、「散る」の当て字でしょうから、そこから「ちりゅう」になるというのはちょっと……でも、記紀神話でもマイナーな女神を地主神にしようという着眼点は素晴らしいかと。

まあ、結局「聖徳太子」が祀られている理由とか、「蝮除け」とか、謎ばっかりなんですけれども……郷土史家のみなさんにお任せしましょう。

というわけで、ようやく初詣の記事が終了です……もう10月だ……ここからスピードアップできるかどうかは、BABYMETALさんとさくら学院さん次第です……。

「不乗森神社」(安城市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

豊川市からたらたらと名古屋へ向う途中、そうだと思って安城市に。

「不乗森(のらずのもり)神社」へ。

 

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不乗森神社

 

三河地方をつらつらと検索しているときに発見。

神社名(字面含めて)のかっこよさでは愛知県ベストスリーに入るのではないか、と思う厨二病

 

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「闇之森八幡社」(中区) - べにーのGinger Booker Club

 

「闇之森(くらがりのもり)八幡社」に匹敵するかっこよさ。

 

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社標。

枯れてますね……現実時間はもう10月で、また枯れ始めますね……いや時間かかりすぎで申し訳ない。

 

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鳥居。

 

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周辺の史跡図です。

 

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忠魂碑、かな。

神社は常若、が基本です。

 

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おや、山王鳥居、ということは「日吉大社」系列、御祭神は「大山咋神」でしょうか。

 

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「当神社創立は第六十三代冷泉天皇の御代(九六八)に滋賀県大津市坂本に鎮座する日吉大社東本宮の御祭神を此の地に勧請奉祀したと伝えられています昔より鎌倉街道に沿い往来する人々はうっそうとした社頭に下馬し旅の安全を祈願して通行したので、のらずの森と云われました
御神徳は当地方の大氏神山王宮として称えられ、土地開拓及び殖産縁結び交通安全の神として民衆に崇敬の篤い神社であります
例祭日 十月九日
湯立神事 三月九日
境内末社 東日吉社 神明社 山神社 秋葉社 厳島社 津島社 稲荷社
境外末社 社口社 東山秋葉社

 

なるほど、本家から勧請、ということでしたか。

伝承にしろ、かなりの古社ですね。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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鳥居。

 

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拝殿前には、マサルさんたら、

 

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マサルさん

「日吉」系ですからね。

 

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拝殿と回廊がくっついた……何ていうんでしたっけ……。

 

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神楽殿、かな……いや、狛犬さんがあって、平入で、ということはここが元々の拝殿でしょうか。

 

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三猿。

 

 

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「幸福釜」という御釜。

 

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社殿向かって右手からの、本殿方向。

 

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名前が見えない……。

 

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その隣の「稲荷社」。

 

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「稲荷社」の鳥居。

 

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「東日吉社」……御祭神は「大山祇命」……あれ、「東本宮」から勧請したのなら「大山咋神」のはずなんですが、でもそれは本殿っぽいので……「東日吉社」って何なんでしょうね……。

 

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秋葉社」。

 

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厳島社」。

 

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えっと、境外に出ているのかな……今までは、社殿向かって右手へ進んできましたが、そこからはちょっと外れています。

「社口社」。

「シャグチ」、「社宮司神社」のことだと思われます。

 

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「神猿神社」。

神使である「神猿」も、神社に祀られているようです。

 

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境内を石鳥居のあたりまでもどっての、子安石。

新しいっぽいですが、どうなんでしょう……古いとしたら道祖神なのでしょうが、真ん中に子供がいるというのが珍しいかな。

 

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神水

 

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社殿向かって左手……なんでしょう、土俵でも作るんでしょうか……。

奥の方に祠がありますね。

 

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こちらは、神楽殿か拝殿の、蟇股の彫刻。

ところどころ脱落してしまっていますが、十二支です。

 

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社殿向かって右手の、境内摂社。

 

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社務所方面……さざれ石と、おっと、「天満社」がありました。

 

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社務所の近くに御神田。

 

御朱印……はいただけるのだと思うのですが、御神職不在で残念。

 

さて。

↑の公式HPより、由緒を引用させていただきます。

 

「当神社の創立年代は、第六十三代冷泉天皇の御代(九六八年)近江国坂本村(大津市坂本町)に鎮座まします日吉大社東本宮の御祭神大山咋命の御分霊を観請して奉斎申し上げたと伝えられる古社である。

当時社頭は、旧鎌倉街道に沿い「野路の宿」(現知立市八ッ橋町)と共に「宮橋の里」と称する駅次の所在地にして、古来より街道を往来する人々は、社頭通行にあたり馬に乗りし者は下馬して自ら敬虔の念をもって拝礼の上通行した。

故に駄野森山王宮と称したが、明治維新改革に際し不乗森神社となる。」

 

なるほど、明治になってからの命名でしたか……。

境内摂社についても一覧的なものがありましたので。

 

神明社…天照皇大神(あまてらすのおおみかみ)
日吉社大山祇命(おおやまつみのみこと) 
厳島社…市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) (市杵嶋比売命)
秋葉社…火産霊命(ほむすびのみこと)
山神社…大山祇命(おおやまつみのみこと) 
津島社…須佐之男命(すさのおのみこと)
稲荷社…倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」

 

大山祇命」の社が二つあるのは、一つが「山神社」という、今のお稲荷さんのようにいたるところに小さな祠のある神社だからでしょう。

うーん、やはり「東日吉社」がよくわからない……。

で、国会図書館デジタルコレクションで、『参河名所図絵』や碧海郡の文献を探ってみたのですが、ざっと見た感じ見当たらず……ううむ、安城の図書館とかに行ってみないとですねきっと……。

ちょっと消化不良〜。

「五社稲荷社」(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

「菟足神社」の参拝に向かう途中で、大きな赤い鳥居を見かけたような気がしたので向かってみました。

「五社稲荷社」、というそうです。

 

◯こちら===>>>

五社稲荷社

 

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これは、その大きな鳥居ではなく、駐車場のところにある鳥居です。

 

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こっちが大鳥居。

国道151線に面しています。

 

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石鳥居。

地元の参拝者のみなさんが多く、あれだけ大きな鳥居が作られているのですから、しっかり根付いているのだろうなと思います。

 

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「五社稲荷古墳

現在、五社稲荷社の本殿が建っている山が本古墳である。昭和五十六年にこの本殿を建設する時に発掘調査が行われた。その結果、直径約三十二・五メートル、高さ約四・七五メートルの円墳で、埋葬施設は木棺直葬と考えられる。墳丘内には多量の弥生土器が含まれていたことから、周囲の土を盛り上げて造られたことがわかった。埴輪や葺石、周溝などは確認されていない。築造年代は本古墳に直接伴う遺物が出土していないためはっきりしないが、古墳時代中期と思われる。

本古墳は直径三十メートルと大型であることに加えて、段丘の縁端部に立地し、豊川右岸に広がる広大な生産基盤である沖積平野を一望にできる。また、後の東海道と伊那街道が交わるという交通の要所に存在することなどから、被葬者は豊川右岸下流域一帯を掌握していた首長であっただろう。

本古墳の北東(奥の院の裏側には直径十七・五メートルほどの円墳である糟塚古墳がある。また、この付近は弥生時代中期から後期の大集落跡、欠山遺跡が広がっている。」

 

なるほど、古墳の上に建てられていますか。

水辺(川岸)、古墳の上、という立地が、古くからの何かしらの聖地だったことを思わせます。

 

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鳥居とおキツネ様

カゴはなんだろう……油揚げをお供えするのかな。

 

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階段を上がって、の鳥居。

 

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本殿をちらりと。

 

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本殿右手から奥の院へ。

やや降っています。

 

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到着。

 

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宝珠。

 

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本殿を後方から。

 

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本殿後方をぐるりと巡って戻ってきます。

 

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えっと……大黒様、だったかな。

 

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鳥居の奥に見えるのが大黒様、ちょっと登ってきています。

 

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拝殿。

墳丘の頂上に建てられている、というのが実感できました。

 

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境内周囲をごそごそしていて見つけた小祠。

 

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幟を外から。

 

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「鶏を捨てないでください」……え、捨てる人が?

神社だからいいだろ、ってことなのかな……「伊勢神宮」には放し飼いの鶏がいますが(神使)、お稲荷さんだからなぁ……。

 

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大鳥居を神社方面から。

 

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御朱印

 

さて、とりあえず神社でいただいた略記を見てみます。

 

三河国 白狐ヶ丘」、なのだそうです。

 

「御祭神
宇迦之御魂神
宇迦之売神
稚産霊神
大宮能売神
屋船神」

 

伏見稲荷神社」の五柱とは少々違っていますね。

「宇迦之御魂神」「宇迦之売神」「稚産霊神」の三柱はいずれも穀物の神様です。

「宇迦之売神」は、「外宮」の御祭神「豊受大神」と同一視されることもあります。

大宮能売神」は「伏見稲荷」でも祀られています。

さて、「屋船神」というのは……屋敷神ということなのか、総じて建築関係の守護神なのか……あまり聞いたことがないですので、昔は違った名前だったのかも。

 

「ここ白狐ヶ丘は弥生中後期の住居遺跡で欠山式土器の発掘地として知られており五社稲荷社は明暦年間(一六五六年頃)にこの遺跡の中央前方部大古墳上にこの古墳の尊厳を守り五穀豊穣を祈るため「保食神」を斎祀したのが始まりと伝えられております。百年ほど後の延享四年(一七四七年)御本殿の造替の棟札には「稲荷五社大明神」とあり、その以前より五柱の神々を斎祀したものと推測されますが、古文書から見ますと伏見稲荷大社から文政十三年二月(一八三〇年)正式勧請し五社稲荷社と称され今日に至っております。当時の神社の様子は「参河国名所図絵」に画かれており境内は今の様子とほぼ同じことがうかがえます。

又ここの古墳は前方後円墳と云われております。周辺部が損壊されているので確認は困難ですが東三河地方第一の規模を持つもので造成期は五世紀末から六世紀初めと伝えられ古墳の西方二〇〇米に鎮座する白鳳十五年(六八六年)創建の古社菟足神社の御祭神である大和葛城の豪族葛城襲津彦命の裔、菟上足尼命の墳墓と推定されています。この命、第二十一代雄略天皇の朝「穂の国」の国造として当地に派遣されその治績高く治民の功大なるものがありました。」

 

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「菟足神社」(豊川市)〜高速初詣三河編〜 - べにーのGinger Booker Club

「菟足神社」(補) - べにーのGinger Booker Club


前回の記事で紹介した「菟足神社」の関係がこっそり。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

↑『参河国名所図絵』をちらっと見てみます。

87コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「稲荷社
同村の中菟足社の北に在近頃村中の人に付て社壇を造立せんことを望む故に社祠を立て是を祭る。

稲荷塚
小坂井と篠束の地境に大塚二つ有小坂井の方を稲荷塚と云篠束の方を糟塚と云と二葉松に見ゆ」

 

まあ、これだけなのですが……90コマの図絵を見ていただくと、小高い丘の上の社殿が描かれているのは、神社の略記にもある通りです。

いずれにしろ、戦国末期〜江戸初期にかけていろいろ整ったようですので、うーん、「豊川稲荷」の影響なんかもあるんでしょうか。

ちなみに、大鳥居は平成十七年の建立だそうです。

 

「菟足神社」(補)

さて。

 

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

まずは、『東海道名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、

 

「菟足神社

駅路小坂井村にあり。延喜式内。里俗菟足八幡宮と称す。例祭四月十一日。放花炮(はなび)を多く揚ぐる。

祭神兎上王(うさきかみのきみ)『古事記』にいわく、開化天皇記紀伝承上の天皇]の条下、「大股王の子、[中略]兎上王は、比売陀君の祖なり。」社説にいわく、「祭神兎上の王なり。白鳳年中[六七三〜六八五]神告に依りて、八幡宮を併せ祀る。祭式に雀十二を射取り、祭牲をなす。」『三代実録』にいわく、「貞観六年[八六四]二月、参河国正六位上菟足の神に従五位下を授く。」

鐘銘にいわく、

参河国宝飯郡渡津郷の兎足大明神、洪鐘。右の志為ること、天長地久。仰ぎ願わくは円満、国土安穏、諸人快楽、鋳奉る所なり。

大工 藤原助久

勧進聖 見阿弥陀仏

檀那 朝阿弥陀仏

応安三年庚戌[一三七〇]十一月

ここの村老いわく、この鐘、社頭の東方土中より掘り出だす。その遺跡、方五間ばかりの地、今にあり。不浄を祓い、注連引わたす。」(p120)

 

 

うむ、表記として「菟足」だったり「兎足」だったりしているわけですね。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

『神社覈録』を見てみましょう。

 

「兎足神社
兎足は宇多利と訓べし ◯祭神菟上王、(社伝)◯度津庄小坂井村に在す。今菟足八幡宮と称す。 (二葉松、私考略、) ◯古事記、 (開化段) 日子坐王娶山代之荏名津比賣、生子大股王、(中略) 故兄大股王之子、曙立王、次菟上王、 (二柱) 云々、
(連胤)按るに、爰に菟上王を祭り、碧海郡に肥長比賣(日長神社也)を祭る事、垂仁段の故事は、国を隔つといへども由縁ある事なるべし、
(略)」

 

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 


古事記開化天皇の段を見てみますと、

 

「故、兄大俣王の子、曙立王。次に菟上王。(二柱)この曙立王は、(伊勢の品遅部君、伊勢の佐那造の祖。)菟上王は、(比賣陀の祖。)」

 

とあり、この「菟上王」が「菟足神社」の御祭神としたいようです。

この方がどんな活躍をされたかというと、『古事記垂仁天皇の段を見てみますと、

 

「故、その御子を率て遊びし状は、尾張の相津にある二俣榲を二俣小舟に作りて、持ち上り来て、倭の市師池、軽池に浮かべて、その御子を率て遊びき。然るにこの御子、八拳鬚心の前に至るまで真事とはず。故、今高往く鵠の音を聞きて、始めてあぎとひしたまひき。ここに山辺の大鶙を遣はして、その鳥を取らしめたまひき。故、この人その鵠を追ひ尋ねて、木国より針間国に到り、また追ひて稲羽国に越え、すなはち旦波国、多遅麻国に到り、東の方に追ひ廻りて、近つ淡海国に到り、すなはち三野国に越え、尾張国より伝ひて科野国に追ひ、遂に高志国に追ひ到りて、和那美の水門に網を張りて、その鳥を取りて持ち上りて献りき。故、その水門を号けて和那美の水門と謂ふなり。またその鳥を見たたまはば、物言はむと思ほせしに、思ほすが如くに言ひたまふ事なかりき。

ここに天皇患ひたまひて、御寝しませる時、御夢に覚して曰りたまひけらく、「我が宮を天皇の御舎の如修理りたまはば、御子必ず真事とはむ。」とのりたまひき。かく覚したまふ時、太占に占相ひて、何れの神の心ぞと求めしに、その祟りは出雲の大神の御心なりき。故、その御子をしてその大神の宮を拝ましめに遣はさむとせし時、誰人を副へしめば吉けむとうらないひき。ここに曙立王卜に食ひき。故、曙立王に科せて、誓ひ白さしめつらく、「この大神を拝むによりて、誠に験あらば、この鷺巣池の樹に住む鷺や、誓ひ落ちよ。」とまをさしめき。かく詔りたまひし時、誓ひしその鷺、地に堕ちて死にき。また「誓ひ活きよ。」と語りたまへば、更に活きぬ。また甜白檮の前にある葉広熊白檮を、誓ひ枯らし、また誓ひ生かしき。ここに名を曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王と謂ひき。すなはち曙立王、菟上(うなかみの)王の二王をその御子に副へて遣はしし時、那良戸よりは跛盲遇はむ。大坂戸よりもまた跛盲遇はむ。ただ木戸ぞこれ掖月の吉き戸と卜ひて出で行かしし時、到ります地毎に品遅部を定めたまひき。
故、出雲に到りて、大神を拝み訖へて還り上ります時に、肥河の中に黒き巣橋を作り、假宮を仕へ奉りて坐さしめき。ここに出雲国造の祖、名は岐比佐都美、青葉の山を餝りて、その河下に立てて、大御食献らむとする時に、その御子詔りたまひしく、「この河下に、青葉の山の如きは、山と見えて山に非ず。もし出雲の石◼︎の曾宮に坐す葦原色許男大神をもち拝く祝の大廷か。」と問ひたまひき。ここに御伴に遣はさえし王等、聞き歓び見喜びて、御子をば檳榔の長穂宮に坐せて、駅使を貢上りき。ここにその御子、一宿肥長比賣と婚ひしましき。故、その美人を竊伺たまへば、蛇なりき。すなはち見畏みて逃げたまひき。ここにその肥長比賣患ひて、海原を光して船より追ひ来たりき。故、益見畏みて、山のたわより御船を引き越して逃げ上り行でましき。ここに覆奏言ししく、「大神を拝みたまひしによりて、大御子物詔りたまひき。故、参上り来つ。」とまをしき。故、天皇歓喜ばして、すなはち菟上王を返して、神の宮を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子によりて、鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定めたまひき。」

 

とあります。

簡単に書くと、「垂仁天皇」の御子に「本牟智和気(ほむちわけ)王」という人がいて、この人は「沙本毘賣」との間の子なのですが、兄の「沙本毘古王」が叛逆を企て、「沙本毘売」は兄についてしまった、と。

このとき身ごもっていた「沙本毘売」ですが、劣勢になり城(稲城)に火を放たれてしまいます。

「沙本毘売」は「御子を天皇の子だと信じるなら、どうか連れていってくれ」と城の外に出し、兄と共に焼け死にます。

この辺りは、「木花佐久夜毘売命」の神話と通じるものがあり、一種の神判、火から逃れる、ということで証明される何かがあったのでしょう。

で、「本牟智和気王」は、ヒゲが胸元に垂れ下がっても物を言わなかったのに、ある鳥(鵠(くぐい))の声を聞くと口を動かした、と。

そこでこの鳥をある人に追わせて捕まえてきたのですが、残念ながらしゃべれるようにはならなかったのです。

垂仁天皇」に夢のお告げがあり、どうやら「出雲の大神」の祟り(「うちの宮を、天皇の住居のように修理してくれたら、御子は喋れるようになるんじゃないのかなぁ、多分」)のようなので、御子に「曙立王」「菟上王」をつけて、出雲へと旅立たせました。

出雲に到着し、出雲国造の祖先が宴会をもよおすと、突然喋り出した「本牟智和気王」、こりゃびっくりと天皇に報告しに行きました。

その間に、御子は「肥長比賣」と結婚したのですが、この方実は蛇の化身でした……とこれはあれですね、「海幸山幸」、「豊玉毘賣」の神話と似ています。

報告を受けた天皇は喜んで、「菟上王」を出雲へ戻して、「神の宮」を造営させた、と。

この部分だけでいろいろ妄想できるのですが……(例えば、この部分が、それ以前の「海幸山幸」「木花佐久夜毘売」の伝承の繰り返しのように見えるのはなぜか、とか、大人になっても話せなかった御子というのは「大和の言葉がわからなかった」のではないか、とか、「沙本毘古王」の反乱からして出雲の陰謀じゃないかとか、名前の類似から「ホムチワケ」、「誉田別」、「ホムタワケ」つまり「応神天皇」のことじゃないのか、とか)……『古事記』の中で結構な誌面を割いているにも関わらず、「本牟智和気王」は天皇の後継者にもならないし、この後さっぱり出てこない……「重要人物と思わせて実はそうではない」なんてしょうもない叙述トリックを『古事記』の時代にやったとは思えないので、何かしら「出雲」に配慮して持ち込まれた部分なのかもしれません。

それにしては、「菟上王」と「肥長毘賣」のつながりが薄いですけれども……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

尾三郷土史料叢書』の第4編、『参河国名所図絵』を見てみます。
コマ数ではなくページ数で164からです。

 

「菟足神社
同村に在社領九十五石祭神(社説に云兎上王)又八幡宮を合せ祭る例祭四月十一日(略)
当社は延喜式に載る所の宮社也今菟足八幡宮と云社説に云祭神(開化天皇の皇孫大股王の第二子)兎上王 天武天皇白鳳年中神告によりて八幡宮を合せ祀る(草鹿砥宣隆此社に詣て神主川出氏に祭神を聞に往古は品多別命を祭りしに白鳳年中神託により平井村より兎上足尼を迎へ奉りて相殿に祭りてより兎足八幡宮と云といへり) (略) 今按るに古事記伝(廿三ノ六十八丁)此王を祭れりと云ふこと心得ぬことなりと謂はれたり社説は古事記の菟上王と国造本紀の菟上足尼とを混へて伝へたる歟考ふへし又神名式に伊勢国朝倉郡に菟上の神社あり又古事記(中ノ廿四丁)に云(日子坐王御子丹波比古多々須美知能宇斯王子)朝廷(みかど)別王者(三川之穂別之祖) 旧事紀(五ノ廿二丁)三川穂国造美巳止(みこと)直とありミコトミカド能く似たれば若くは同人には非る歟と古事記伝(廿二ノ七十二丁)に云はれたり(略)」

 

休憩。

古事記伝』は本居宣長による『古事記』注釈本だと思っていただければいいのですが、古事記の菟上王と国造本紀の菟上足尼とを混へて伝へたる歟考ふへし」ってところを読んで、「ああ、菟足ってひょっとしたら「菟上足尼(うなかみのすくね)」の略なのか……ってそれ明らかに漢字を当てたあとの話だよね……」と了解したのか、疑問が増えたのか……。

 

「天野信景の塩尻に云三河国宝飯郡兎足神社は国造本紀に兎上足尼云々兎足とは文字を略きて書然ればウソコと称ふへきを今はウタリの神社と呼伝る諸神祠の号其称号と正し其元を知るへき也ウカミのカとタと横音通し又ミトリと通へり谷をタリと訓に似たり然れはウタリはウカミの音便歟三代実録(八ノ廿二丁)に云清和天皇貞観六年二月十九日丙子授三河国正六位上菟足神従五位下和漢三才図会(六十九十丁)四月十一日祭礼其上旬射取雀十二羽爲祭牲」

 

尾張の博覧狂記・天野信景翁の『塩尻』からの引用として、何らかの音便変化があったか、とあります。

「ウカミ」から「ウタリ」は遠い気がしますよね……もともと「ウタリ」だったんじゃないかな……と思いたいところですが、証左は無し。

 

「谷川氏の和訓栞(三ノ六丁)生贄の条に三州小坂井村の兎足神社の祭にも雀十二羽を献すとあり又吉田綜銘に云祭礼四月十一日なり風の祭と号す雀拾二羽を射取て贄をなす往古は小田の橋にて旅人の児女を待受て人身御供と為せしと云中比は猪鹿を献りしとも云い又人を生ながら捕て生贄と為せし事今昔物語(巻十五)宇治拾遺物語(巻十)なとに見ゆ宇治拾遺のは人の生贄を留めて後猪鹿を生贄になせしとあれば似たることなり又続紀(廿五ノ廿六丁)淡路廃帝天平宝字八年の条に云又諸国進御贄雑完魚等類悉停云々宇治拾遺(四ノ十二丁)云三河入道いまた俗にてありける折もとの妻をば去りつつ若きかたちよき女に思ひつきてそれを妻にて三河へゐてくたりけるほどに(中略)三河国に風祭と云ことをしけるにいけにへと云ふことに猪をいけながらおろしけるを見てこの国のきなんと思ふ心付てけり云々又三河雀に云四月十一日毎年風祭あり卯月上旬より十日限に雀十二羽を射取雀矢に中りて血流れぬれば氏子に災難ありと云へりなと敬雄の官社考に云へり」

 

なかなか生々しいお祭りだったようで……この辺り、「諏訪大社」の「御頭祭」を思い起こさせますね……となると、ここでもひょっとして古代ユダヤ氏族が登場するのでしょうか(トンデモギリギリ)。

 

 

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

先代旧事本紀』の「国造本紀」には、

 

「穂の国造
泊瀬朝倉朝(第二十一代雄略天皇)の御代に、生江臣(武内宿禰の後裔)の先祖、葛城襲津彦命(娘の磐之媛の命は第十六代仁徳天皇の皇后で、履中・反正・允恭の母)の四世の孫、菟上足尼(うなかみのすくね)を国造に定められた(穂国は三河国宝飯郡、愛知県豊川市付近)。」

 

とあります。
↑↑の方にもありましたが、

 

古事記(中ノ廿四丁)に云(日子坐王御子丹波比古多々須美知能宇斯王子)朝廷(みかど)別王者(三川之穂別之祖) 旧事紀(五ノ廿二丁)三川穂国造美巳止(みこと)直とありミコトミカド能く似たれば若くは同人には非る歟と古事記伝(廿二ノ七十二丁)に云はれたり」

 

というわけで、国造が誰だったか、その祖が誰だったか、『古事記』や『先代旧事本紀』が書かれた頃でさえいろいろな説があるものなので、何とも決めがたい……。

「菟上足尼」が、この辺りの実力者で、名前の近い「菟上王」と同一視され、神格化されたのかなぁ……くらいなのかもしれませんが、出雲の大神(「大己貴命」か「素盞嗚尊」かはさておき)の宮を盛大に修理したにしてはやっぱりそのあと記紀神話での影が薄いし、どうにもマイナー感がいなめません……むしろ、そのマイナーなところが狙い目だったとすれば、穂の国としては箔をつけることはできた、んでしょうか……うーん……。

『参河名所図絵』には、図絵も掲載されているのですが、神社の位置は今と同じようにちょっと小高い丘の上で、川沿いで、一の鳥居の位置も同じ、ということは江戸末期ですでに参道は直角に曲がっているのですよね……社殿の真正面に橋がかかっていないのが、地理的要因によるものなのか、怨霊封じなのか……様子としては、伊勢の「内宮」「外宮」の配置とも似ています……ということは、昔は川に船をつけて、そこから入ったのかな……。

いろいろ妄想が浮かんできますが、あとは郷土史家のみなさんにお任せするとして、次に行ってみましょう〜。

 

「菟足神社」(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

まだ見ぬ御朱印……神社を求めて検索検索、式内社を発見。

「菟足神社(うたりじんじゃ)」です。

 

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www.toyokawa-map.net

 

豊川市観光協会のHPです。

「豊川進雄神社」からナビ通りに進んだのですが、いまいち地形がいまいちよくわからない……一度、駐車場の入り口を通り過ぎて、慌てて引き返しました。

 

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正面鳥居。

 

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由緒書。

 

「式内 菟足神社
御祭神 菟上足尼命
創立 白鳳十五年(六八六)
穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが、間もなく当地に御遷座になった。
当社の大般若経五八五巻は、國の重要文化財に指定(昭和三六年)されている。僧研意智の書(一一七六〜一一七九)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下りのおり洪水のため渡航できず、滞在七日の間に書き上げ神前に奉納したと信じられていた)。
なお応安三年(一三七〇)の銘のある梵鐘(昭和三九年文化財指定)は、本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼があったことが江戸末期の参河名所図絵に出ている。
当社のお田祭の行事(昭和二九年県無形文化財指定)は旧正月七日に行われる。
風祭りとして知られる例祭は、四月第二土曜日曜日に行なわれ、打上花火、手筒花火は特に名高い
すた 祭礼の古面(五面)は昭和四〇年県文化財に指定されている。」

 

最後のところは、字が消えてしまっているのか、私にはこうとしか読めませんでした。

豊川は花火が盛んなんですね……あちらもあげればこちらも、という感じで、競い合うように盛んになったのでしょうか。

元祖はやはり、「豊川進雄神社」なのでしょうか。

 

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境内図。

ちょっと小高いところにある神社なのですが、そのためか最初の鳥居が社殿の正面にはありません。

高田崇史式によれば、「参道が曲がっているので、多分怨霊」ですが……さてどうでしょうか。

 

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「菟足神社と徐福伝説」。

なんですと……もうこの時点で、お腹いっぱいな感じです。

とりあえず今回は、徐福伝説は置いておきます(興味のある方は、写真を拡大してくださいね)。

 

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「菟足神社貝塚」。

なるほど、歴史の古い神社の多くが水辺にある、という話もありますので、この場所が聖地となっていた歴史はかなり遡れるのかもしれません。

が、考古学は範疇外ですもので、こちらも興味のある方はお読みください。

 

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賽銭箱にウサギの紋と、ちょこんとウサギ。

 

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「三尾神社」〜近江めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

 

ウサギの紋といえば、滋賀の「三尾神社」を思い出します。

何かしらつながりがあるのかしら……。

 

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「家康の制札」。

ちょっと字が小さいので、拡大しても読めないかもです。

 

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「菟足八幡社」の……扉。

 

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境内摂社。

「津島」「金比羅」「山住」。

 

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忠魂碑。

 

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こちら、案内板にあった、大般若経を収めた……経堂とは言いづらい、倉庫、でしょうか。

 

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拝殿。

うーん……緑青に赤錆が……風情というよりは、ちょっと寂れて見えてしまいます……修復できないものか。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

こちらも随分、錆びを受けているような……。

 

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本殿をちらりと。

 

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神楽殿。

 

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石灯籠。

 

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ウサギさんがいます。

 

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こちらにも。

 

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ウサギさん。

 

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見辛いですが。

 

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遠景。

石畳も錆びにやられてますか……。

 

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こちら、鳥居を出たところから南側を向いて撮影。

ちょっと小高いのがわかっていただけるかと。

 

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全景。

 

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御朱印

たまたま神職さんに遭遇し、いただきました。

ウサギの図案化が可愛らしい。

さて、引用などは次回に〜。

「豊川進雄神社」(再)(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

豊川稲荷」の近くの神社、ということで「豊川進雄神社」へご参拝。

 

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豊川進雄神社のご案内

 

↑公式HP……なのかな。

 

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「豊川進雄神社」「素戔嗚神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

このときは、「素盞嗚神社」にもお参りしています。

 

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鳥居。

 

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狛犬さんたら、

 

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狛犬さん。

 

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境内摂社。

 

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こちら「出雲神社」で、以前の記事ではやっつけ仕事ですな、なんて書いてありますが、開扉されていたので中に入ってみたら、

 

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きちんと大社造でした……あいすみませぬ……。

 

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御朱印

判子です。

「今では書ける人がいなくなって」と、神社の方がおっしゃっておられました。

残念。

 

さて、神社でいただいた由緒書きから。

 

「御祭神
当神社には本社(豊川西町一三四番地)と元宮(豊川町仁保通)の二つの社があり、本社の御祭神は進雄命です。元宮(稲田神社)には進雄命の妃稲田姫が祀られていましたが、大正十二年(一九二三)に本社へ合祀され、現在は御旅所となっています。
御由緒
当神社は、大宝元年(七〇一)現在の元宮の地に創建。その後、現在地に遷座したと伝えられています。古代から中世の頃には、平家の鎌倉追討使の戦勝祈願や鎌倉将軍上洛の参詣があったと伝承されています。
平安時代以後、進雄命は牛頭天王(天王)と称された祇園精舎の守護神で、薬師如来の仮の姿ともされ、厄除けの神とされてきました。鎌倉時代、津島牛頭天王社の鎮座する尾張海東郡の領主、大江一族が当地に入り、室町時代になって天王信仰が盛んになったといわれています。天正十八年(一五九〇)豊川村が吉田城主池田輝政の領地となり、輝政は深く当社を崇敬し、刀・鞍等を奉納したと伝えられています。
江戸時代には、領主の水野佐渡守や天領代官鈴木八右衛門、さらに小笠原壱岐守など多くの領主に保護されましたが、なかでも享保二十年(一七三五)名奉行で知られる大岡越前守忠相が当地を所領すると、刀や灯篭、本殿修理料などが献じられました。以後幕末まで大岡家から継続して代参があり、供物が献納されました。
明治時代になると、政府の神仏分離の方針に従って、神社名を「豊川牛頭天王社」から「進雄神社」と改めました。さらに大正十二年(一九二三)には「豊川進雄神社」と改称されました。そして、昭和四十年(一九六五)愛知県神社庁指定の四級社に昇格しました。」

 

とのことです。

順番的には、元宮から、なぜか「進雄命」だけが離されて「稲田姫」は残り、大正になってようやく合祀された、と。

「素盞嗚尊」→「牛頭天王」という流れについては、いろいろな本で解説されていると思いますので、そちらを確認ください。

いろいろあって、疫病除けの神となったために、「薬師如来」の垂迹、とされたようです。

そうか、「大岡忠相」はこの辺りを領地としていたんですね……だから「豊川稲荷」でも名前が出てきたのか。

 

「奉納綱火と手筒煙火
(略)
豊川進雄神社の花火の起こりについて、斎藤家所蔵の古文書には「寛文元年(一六六一)六月始まり申、花火其の他つるし提灯仕り、車と山へ縄を張り縄火大分の事也、大からくりもあり」と記録され、また、西本会所所蔵文書には、「花火初之年、万治三年(一六六〇)六月十九日古より有之候所、中頃中絶仕候を親中田四郎右衛門取立之申候也」と記されています。
宮座の一員である四郎右衛門義直は、二十一歳の時に花火を始めましたが、費用もかさみ運営がままならないため、若い者に呼びかけ権現堂わき(現東部中学校敷地内)にあった荒地を開墾し、花火畑(花火の費用を補助する収入を得るための畑)をつくりました。一方では、若い者に花火の製法を教え、若い者を東西二つに分けて花火を競わせました。これが現在の煙火の起源となっています。この花火畑は歴代領主より天王除地として年貢を免除され、祭礼の費用にされました。
古文書の記録に残る煙火の名称は、「綱火」「からくり」「花火」ですが、近年各所で盛んになってきた大筒や手筒は、この花火として一括記録されています。」


花火で有名なのですが、何故に花火だったのか、というのはよくわかりません。

祭りは陰暦六月十九日・二十日、ということなので、夏越の祭りだったのかとは思います。

川の近くに「牛頭天王社」があるのは、津島にならってのこと、なのかもしれませんが、疫病は水辺からやってくる、という発想があったものと思われます。

水を払うには火だ、という単純な連想(あるいは、五行に則ったもの)でしょうか。

疫病はともかく、弔いに火を焚くのは日本では当然のようなところですし、それが大人数になればなるほど火の規模も大きくなって、隅田川の花火大会みたいになっていく……んだったかどうかは覚えていませんが。

 

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

東海道名所図会』には、

 

牛頭天王
神明、八幡宮ともに御城内にあり。天王祭、例年六月十五日。

放花炮(はなび) 六月十四日夜、吉田本町、上伝馬町の両町にて揚ぐる。高さ十三間、幅三間、これを立物という。これ過ぎて大花炮あり。火の移らぬように大釜を覆いにす。これに火をうつすときは、屋上に群がる見物の人々、濡筵を被くこと多し。そのほか、町々の花炮数百ありて、群衆夥し。
(略)
また笹おどり、大太鼓一人、小太鼓二人、同じ衣装に塗笠被り、覆面し、錦の陣羽織、小手、脛当など着し、いたって古雅の体相なり。囃子方は編笠、湯衣を着し、笹に提灯をゆい付けて、数十人同音に諷う。その唱歌にいわく、

天皇といふ人は何仏にまします。
日本一の荒神
あらゐ、橋本、塩見坂、名所名所の花を見さいな。

これをくりかえしくりかえし謳うなり。
(略)」(p132)

 

とあります。

↑公式HPには、現在の笹踊りの神歌が記されていますが、『東海道名所図会」と一致する歌詞はありません。

ということは、『東海道名所図会』に掲載されている「牛頭天王祠」が、「豊川進雄神社」と同じかどうか、がわからないということですね(祭礼の日にちが違うしな……)。

さて、どんなものでしょうね……。

 

 

今回はこの辺りで〜。

 

 

三河、まだまだ見て回ります。

「豊川稲荷」(再)(豊川市)〜高速初詣三河編〜

1/9。

まあ、豊川市ですから、豊川稲荷には行きますよね。

 

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豊川稲荷公式ホームページ TOP

 

↑公式HPです。

 

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「豊川稲荷」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

いやもう、完全に油断していまして、駐車待ちの車も多くて、ちょっと離れたところに駐車して、徒歩での移動。

参拝客の多いこと……。

 

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というわけで、基本おキツネ様の写真ですが、「霊狐塚」は行列だったもので諦めましたよ。

 

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御朱印も、並んでいたので書置きのものをいただきました。

 

さて。

東海道名所図会』には、豊川の項目はあるんですが、「豊川稲荷」はないんですよね……。

ううむ、どうしよう。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 豊川円福山妙厳寺鎮守吒枳尼真天略縁起

 

↑『豊川円福山妙厳寺鎮守吒枳尼真天略縁起』という、ほぼこれだけで間に合いそうなものがありましたので引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

「開創縁起
三州豊川妙厳寺人皇百一代後花園天皇嘉吉元年僧義易の創建にして禅曹洞宗に属す(略)猶吒枳尼真天の堂宇の如き荘厳華麗を盡し結構総へて神社に擬す世俗概ね稲荷の名を以て之を呼ふと雖も安置する所の仏像は真天にして稲荷の本体にあらすと云然れ共之を豊川稲荷と称し四方の賽人日夜絶ゆることなし(略)現今殿堂并諸建物左に

大門、楼門、通用門、本堂、開山堂、吒枳尼天、奥院、籠堂、禅堂、額堂、庚申堂、秋葉堂、大黒天、愛染堂、万燈、札所、鐘楼、座敷、玄関、広間、立願所、茶所、庫裡、書院、方丈、新方丈、宝庫、浴室、舂屋、
(略)
吒枳尼真天縁起
凡そ聖者賢人の世に出て人を救ひ給ふや必ず天神地祇の之に附随して其道を護り其業を助くるものあり乃ち釈迦牟尼仏の出世し給ふや梵天帝釈四大天王等の衛護をごそかなりしは更にも言はす我国に在りても山王権現伝教大師に於ける稲荷明神の弘法大師に於ける白山権現の承陽大師に於ける等皆然らさるは無し茲に円福山妙厳寺に鎮座し給ふ吒枳尼真天の来由を原ぬるに人皇十四代順徳天皇の皇子出家したまひて承陽大師の正脈を嗣かせ給へる寒岩義尹禅師は寛元年間支那国に渡航し玉ひ彼地天童山に登て如浄禅師に謁し要脈を伝へられて已に帰朝の船に乗らせ給ひしに忽ち霊神あり白狐に跨りて声朗らかに唵尸羅婆陀尼黎吽婆婆訶と唱へ且つ謂て曰く吾は是れ吒枳尼天なり今より将に師の法を護するに此神呪を以てし又師の教化に服する者を守りて安穏快楽ならしめん必ず疑ふこと勿れと言ひ畢りて見へす乃ち禅師帰朝の後手つから其感見する所の形像を刻みて以て護法の善神となし常に其徒に教へて彼の神呪を唱念せしめられたり其後禅師の法子法孫たる鉄山東州梅巖華蔵の四師嫡々相承して妙厳開山東海義易和尚に至る和尚嘉吉元年を以て豊川に寺を開創するに当り別に祠壇を寺中に築きて彼の禅師手刻の吒枳尼尊像を安置し以て有縁の道俗をして随意に礼拝祈願することを得せしむ是に於て四方篤信の貴賎男女競ひ来りて霊験を蒙る者益々多し就中織田信長豊臣秀吉徳川家康諸公の如き今川義元九鬼嘉隆山本晴幸本多忠勝大岡忠相諸氏の如き皆共霊威を馮みて祈誓する所あり殊に文禄年間豊太閤の朝鮮を伐つに当り水軍の驍将九鬼大隅守をして多く軍艦を造らしむるや嘉隆一夕霊夢を感し妙厳寺九世の祖天室伊堯和尚を請して教化を受けたるを以て其軍艦中の尤も壮宏たる者を名けて伊堯丸と曰ひ艦中に吒枳尼尊像を拝請し大般若経六百巻を奉戴し般若理趣法を行ひ怨敵退散降伏一切大魔最勝成就の祈祷を修して吒枳尼尊天の宝符を製し之を征韓各軍隊軍属に頒布し各自の鎧中に納めしめしに戦陣中その霊験の赫々たること実に枚挙に遑あらさりしと役終りて其艦を嘉隆に賜はり明治の初年に至るまで之を志摩の鳥羽港に保存せられたり又慶長五年東照公の関ヶ原陣に趣くや伊堯禅師をして其戦勝を真天に祈らしめ後に寺禄四十石を寄附して之に報賽せられたり又大岡越前守忠相か幕府の奉行として能く屡々疑獄明断して良臣の名誉ある常に萬牛和尚に請て真天の冥助を祈りて遂に尊像を邸内に安置して敬信怠らさりしと斯の如き信仰の篤きにや徳川八代将軍吉宗公享保年間に彼の天一坊の疑獄在て名奉行の越前守に其裁判に苦しし既に割腹と迄覚悟せしか日々怠らず水垢離を取て吒枳尼天を祈念せられしに霊験立處に顕れ其加被力によりて天一坊主従の輩悉く罪に服し処断せらる後其功を以て三河西大平に於て一万石を賜はりて諸侯の列に加へられたり是偏に豊川真天の冥護とて永井郁次郎を代参せしめたりと云ふ現今東京赤坂表町に奉祀せしは即ち大岡が邸内に拝請せし真天なり(略)」

 

「義易」という僧侶については、

 

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東海義易(とうかい ぎえき)とは - コトバンク

 

コトバンクより、

 

「東海義易 とうかい-ぎえき
?-1497 室町時代の僧。
遠江(とおとうみ)(静岡県)の曹洞宗(そうとうしゅう)普済寺の華蔵義曇(けぞう-ぎどん)に師事し,その法をつぐ。嘉吉(かきつ)元年三河(愛知県)豊川に妙厳寺(豊川稲荷)をひらいた。明応6年3月29日死去。三河出身。」

 

とのことです。

嘉吉元年というのは1441年のようですので、そこまで古くはないですね(いや、十分古いんですが)。

大陸から帰ってくるときに、何らかの守護神が船の上に現れる、というのは、一種お約束でもありますが……これでくっついてきたのが「吒枳尼天」だとすると、一瞬思い出すのはあれですよね……ええ、「九尾の狐」です。

まあ、関係ないと思いますが……。

尾張三英傑、「今川義元」に加え、「九鬼嘉隆」なんかが出てくるところが渋くていいですね。

大岡忠相」の話については、

 

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天一坊(てんいちぼう)とは - コトバンク

 

コトバンクの「天一坊」の項目から、

 

「てんいちぼう【天一坊】

《大岡政談》に載る天一坊事件の主人公。事件は,紀州生れの宝沢が徳川天一坊と名のり,赤川大膳,常楽院天忠,山内伊賀亮らとともに8代将軍徳川吉宗の御落胤を詐称したが,大岡越前守忠相の活躍であばかれ処罰されたというもの。この話自体は,大岡の名奉行ぶりをたたえるための後世の作りごとだが,そのもとになる事件は実際にあった。1718年(享保3)の中川正軒事件,29年の源氏坊改行事件などがそれである。【斎藤 洋一】」

 

↑という具合です。

講談ではありますが、その元となる事件はあり、ただしそれを「大岡忠相」が裁いたかどうかは不明。

暴れん坊将軍』でも出てきたような気がしますが……あれ『大岡越前』のほうだったかな……。

ともかく、「大岡忠相」が赤坂に「豊川稲荷」を勧請した、という伝説(?)は残っている、と……面白いですね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

↑『尾三郷土史料叢書』の第4編『参河国名所図絵』も見ておきましょうか。

 

「円福山妙厳寺
(略)
鎮守稲荷社
本堂西南の隅に在当寺の鎮守たり世諺弁略に云三州豊川村平八狐云々又野翁物語に云平八いなりとて近来時行の神あり云々見へ又刪補松に云当寺境内に平八と名くる狐あり近年祠を建て稲荷大明神と崇むと見へ又渡辺政香の云宝暦の頃吉田領西島村より豊川村妙厳寺境内平八狐の婿になりたりとて婿入の夜は西島より豊川までの野道松明を数百燈したる如く燦然たりしと謳歌し夫より参詣たへず尤霊験新たなりと見ゆ(略)
当社感応の著しきこと響の物に応する如く形の影に随ふに似たり此をもて遠郷より参詣の人々日に増月を超て群集し往来連綿として常に絶間あらされば門前瓦を並べて酒飯を◼︎く境内葭簾に囲ひて左右茶店を列ぬ其繁昌なること都会の人も肝をつぶす殊に紛失の祈願出奔せし人の足止等にいたりては身の毛弥立ばかりの霊験挙て計ふへからす(略)」

 

どうも、「平八狐」というのがいたらしく、

 

 

愛知妖怪事典

愛知妖怪事典

 

 

↑『愛知妖怪辞典』にも、

 

「平七狐
豊川の稲荷は、元々は平七狐稲荷と称えられた。昔、平七という一人の棒手振(振売)がいた。ある時、豊川の渡に差し掛かると、数多の狐が集まって一つの土塀を越えようと競っていた。平七はこれを見てその群に入り、真先に塀を乗り越えた。すると、相貌立ちどころに狐と変じ、その狐群の棟梁となり、ついには稲荷として祀られるようになったと言う。」(p253)

 

という項目があります。

「平七」と「平八」の違いはあるものの、一連の狐伝説ではないか、と思われます。

どうも、西島から狐が婿入りしたらしいので、「平八狐」は雌だったようですが……これは、名前を継いでいった結果なのでしょうか。

それにしても、狐が人間に化けるならともかく、狐になってしまう、という話は、結構興味深いのではないでしょうか。

そうですね、妄想すると……「平八」か「平七」か、そういった恐れられていた盗賊か何かがいてですね、あるとき人々が集団で退治したんですけれど、恨みを恐れて「あいつは狐だった」ということにしてしまって、祀り上げた……なんてストーリーはいかがでしょう。

うーん、でも盗賊だったらぼっこぼこにしたって祟られることはなさそうだな……何かの間違いで善男を殺しちゃった、というほうがまだありそうかな……。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 迷信の話

 

↑『迷信の話』という本から。

豊川稲荷」の前の記事は、稲荷についてかなり長めに書かれていますので、興味のある方は。

 

「十二 豊川稲荷
同じ稲荷でも、吒枳尼天の豊川稲荷は、正一位の肩書がない。そのかはり、狐は大つぴらに祭られる。何となれば、吒枳尼天は狐に乗つてゐる。その狐は玉をくはへてゐる。ことに吒枳尼天の一名を白晨狐王菩薩ともいふからである。
豊川とは三河の豊川で、今の愛知県宝飯郡豊川町である。此の稲荷の起源は、伏見稲荷よりも五六百年後である。
後醍醐天皇の皇子と称せらるる無文禅師が、三河の国に巡錫せられて、宇賀の魂を祭られた伝説がある。その後曹洞宗派の妙厳寺に吒枳尼天を祭つた。いつの間にか、此の宇賀の魂と、吒枳尼天とが一つになつて、吒枳尼天の本地垂跡したのが宇賀の魂であるといふやうになつたらしい。丁度、田沼意次が稲荷信仰を始めた頃、豊川稲荷と其の隣の西島稲荷が並んで隆盛を極めてゐたのであるが、西島稲荷の雄狐が、豊川稲荷の雌狐の所へ聟入をしたといふので、西島稲荷がぱつたり参詣者が無くなつたといふ話がある。此の伝説だけでも、当時の一般民衆が、稲荷即狐であると信じてゐた証拠とするに足りるものがある。東京赤坂の豊川稲荷は、此の三河豊川稲荷分祀である。だから、稲荷と狐とを一つにして、それに対つて幸運を求め出したのは、三百年以前からの事と推定することが出来る。」

 

こちらでは、

 

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無文元選(むもん げんせん)とは - コトバンク

 

「無文元選」という僧侶が登場、コトバンクを参考にしますと、

 

「無文元選 むもん-げんせん
1323-1390 南北朝時代の僧。
元亨(げんこう)3年2月15日生まれ。臨済(りんざい)宗。父は後醍醐(ごだいご)天皇という。可翁宗然,雪村友梅にまなび,元(げん)(中国)にわたって古梅正友の法をつぐ。帰国後は各地に庵をむすび,遠江(とおとうみ)(静岡県)の奥山朝藤(是栄居士)にまねかれて方広寺をひらいた。康応2=元中7年閏(うるう)3月22日死去。68歳。諡号(しごう)は聖鑑国師,円明大師。」

 

だそうです。
伝説では、「宇賀の魂」、多分「倉稲魂神」かなと思うのですが、ひょっとして「宇賀神」かもしれません、を祀った、それが「吒枳尼天」と習合していった、とのこと。

狐の婿入りの伝説も書かれていますね、往時は有名だった話のようです。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 神仏力くらべ

 

↑『神仏力くらべ』という面白げな本があったのでご紹介。

 

「(四)豊川稲荷
愛知県の豊川町にある。稲荷さんと云ふても、伏見の稲荷さんとは全然異つて、ここには赤鳥居があると云ふ訳ではなし、狐の穴があるわけでもない。妙厳寺といふ禅院境内の一角に勧請して天部吒枳尼真天が本尊で、禅院本堂よりも参詣者は遥かに多く、今裏山に素晴らしい大きな本殿を建築中で、境内には改築寄付金の立札には七万円とか、一万円と云ふ随分思ひ切つたのも立ててある。
投機的現証利益があると見へて、参詣者は商人や花柳界の人達が多く、東京だけにでも六十餘の講があり、一講千人からの団体も少くないといふ。東京のある株屋は毎日曜缺かさず参詣してゐるといふ。
其の境外にコマ犬代りの狐があるがこれが盗難にあつた場合、早速参詣して、その足を縛るとやがて泥棒が捕はるとの伝説からこれを俗に足止稲荷と云つて参詣者又多い。」

 

↑うーん……1926年刊行の本ですので、もう「豊川稲荷」は有名だったはずで……当時は「霊狐塚」はなかったのかな……。

「足止稲荷」の伝説は、↑↑『参河国名所図絵』にもありましたね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 三州豊川稲荷略誌 : 附・豊川七不思議

 

さすが大人気といいましょうか、『三州豊川稲荷略誌』という本も見つけました。

 

「抑々豊川稲荷は往古神部に属し正一位豊川稲荷大明神と號し我国に於て稲荷の陰神と言伝へり日本の稲荷として京都伏見の稲荷を陽神(男神)とし豊川稲荷を陰神(女神)とし二柱を以て真の稲荷といふ也故に豊川稲荷の御真像は女神の御影が白狐に跨り玉ふ御姿なり茲に三州宝飯郡豊川町曹洞宗円福山妙厳寺に鎮り玉ふ縁故は其昔 後鳥羽天皇の皇子出家ましまし曹洞宗承陽大師の正脈を嗣かせられたる寒巖義尹禅師より妙厳寺山東海義易和尚に伝り当山に鎮守せられたる事にして昔し之の稲荷大明神を世俗に平八稲荷と称し霊験顕著御利益の甚大なるは衆庶の能く知る処なり然るに明治維新の際時の大政官より神仏混合して奉斎するを許さずと云ふ御布達なりしも豊川稲荷は元是神社なるも奉斎は妙厳寺にて行ふ事なれば日常祈祷奠供とも総て宗教に依り奉献し来りしを今更神社とするときは曹洞宗妙厳寺と離れざるべからざる場合に立至り爰に至りて正一位豊川稲荷大明神を豊川吒枳尼真天と改め従前の通り妙厳寺に於て奉斎する次第となれり故に現今の称は豊川吒枳尼真天なるも其実豊川稲荷大明神なり然り而して稲荷の御神咒なる「オンシラハツタニリウンソワカ」と言へるは其人の願望は如何なる事にても信者の尊信唱念に依り願望成就すると云ふ事は信徒の能く知る処にして今更喋々を要せず然るに 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 今川義元 九鬼嘉隆 山本晴幸 本多忠勝 大岡越前守等皆其霊威を祈誓す殊に豊太閤朝鮮征伐及東照公関ヶ原陣に戦勝を祈りて霊験著しく故に寺禄四十五石を寄付報賽せられたり其後徳川公の天下と倶に豊川稲荷は益々繁昌と成れり又大岡越前守は幕府の名奉行として知られ疑獄を明断す就中彼の難中の難たりし徳川天一坊事件を能く裁断して誤らざりしは全く豊川稲荷大明神の冥助なりとし遂に稲荷の御分霊を江戸赤坂一ツ木の大岡邸内に安置し敬信厚かりし今の東京赤坂豊川稲荷は之れなり又維新後明治に至りて貴顕の信仰厚く故有栖川宮熾仁親王殿下の御祈願厚くして豊川閣と称号を附し額面を寄付せられ今現に稲荷の拝殿に掲けあり又日清日露の役に於ける出征軍人諸氏にして豊川吒枳尼真天の御守護札を携帯せし諸氏が不思議の霊顕を蒙りし事実は実に枚挙に遑あらず殊に豊川吒枳尼真天を唱念するに『勝』の祈誓を以てするときは成就疑ひなき事衆庶の能く知る所なれば日々の参拝者は何れの社会階級を不問万を以て数ふるに至れり。」

 

おっと、こちらでは「伏見稲荷」を「男神」、「豊川稲荷」を「女神」としていますね。

「平八稲荷」という呼称もあったようで……設定にゆらぎがありすぎて……。

神仏分離令の頃のことが書かれていて、それが正しいのかどうかわかりませんが、「正一位豊川稲荷大明神」ではなく「豊川吒枳尼真天」だと言い張って、神仏分離を逃れた、というのはなかなか生々しい話のように思えます。

面白いのは、「豊川七不思議」という付録記事のほうかもしれません。

 

「豊川七不思議
第一 平八稲荷を俗称するは開山義易大和尚当寺開創の時一老翁来り自ら名を平八郎と称し大和尚に随従して庫裡の炊事等克く労働す然るに平八郎何れよりか一つの釜を持参して飯を炊き湯を沸し茶を煎ずるに供し食時縦ひ何百人の多きたるも悉く此の釜一ツにて満足して不足する事なし実に神通妙用なる人力の及ぶ所にあらず如此小釜を以て能く多衆に供するを得るやと問ひたるに平八郎答へて曰く、吾れに三百一の眷属あり何事にても弁事せざる事なりと其後義易大和尚遷化と同時に其釜を遺し何何ともなく平八郎は立去れり其釜今に至も宝物として保存あり」

 

あら、出ました「平八稲荷」。

しかも「平八郎」っていうおじいさんだし……設定のゆらぎが……。

四国の「八百八狸」を率いた(んでしたっけ?)「隠神刑部」にはかなわないまでも、こちらの「平八狐」も眷属三百一、かなりの勢力です。

うーん、地元の人は、この辺りをもっと推していけばいいのになぁ……と思いましたが、初詣客の数といい、宣伝はもう必要ないかもですね。

ちなみに、残りの六不思議は、

 

「第二 宝物の中の純白の毛玉
第三 大祭典の夜になくなる三百一膳のお供え
第四 地上三尺を飛走せる白狐
第五 宝物の中の増殖する仏舎利
第六 宝物の中の瑠璃の玉
第七 吒枳尼天本殿北側の福寿石」

 

だそうです(そんなに古くないのもあります)。

ふう……いや、いろいろ伝わっていて面白かったです。

誰かがきっと、これをまとめてくださっていることでしょう(伝説とか伝聞とか怪しげなお話とか混じっていますが、それでこそ「稲荷」みたいなところがあります)。

さて、もうちょっと三河をうろうろしてみようっと。