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「菟足神社」の参拝に向かう途中で、大きな赤い鳥居を見かけたような気がしたので向かってみました。
「五社稲荷社」、というそうです。
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これは、その大きな鳥居ではなく、駐車場のところにある鳥居です。
こっちが大鳥居。
国道151線に面しています。
石鳥居。
地元の参拝者のみなさんが多く、あれだけ大きな鳥居が作られているのですから、しっかり根付いているのだろうなと思います。
「五社稲荷古墳
現在、五社稲荷社の本殿が建っている山が本古墳である。昭和五十六年にこの本殿を建設する時に発掘調査が行われた。その結果、直径約三十二・五メートル、高さ約四・七五メートルの円墳で、埋葬施設は木棺直葬と考えられる。墳丘内には多量の弥生土器が含まれていたことから、周囲の土を盛り上げて造られたことがわかった。埴輪や葺石、周溝などは確認されていない。築造年代は本古墳に直接伴う遺物が出土していないためはっきりしないが、古墳時代中期と思われる。
本古墳は直径三十メートルと大型であることに加えて、段丘の縁端部に立地し、豊川右岸に広がる広大な生産基盤である沖積平野を一望にできる。また、後の東海道と伊那街道が交わるという交通の要所に存在することなどから、被葬者は豊川右岸下流域一帯を掌握していた首長であっただろう。
本古墳の北東(奥の院の裏側には直径十七・五メートルほどの円墳である糟塚古墳がある。また、この付近は弥生時代中期から後期の大集落跡、欠山遺跡が広がっている。」
なるほど、古墳の上に建てられていますか。
水辺(川岸)、古墳の上、という立地が、古くからの何かしらの聖地だったことを思わせます。
鳥居とおキツネ様。
カゴはなんだろう……油揚げをお供えするのかな。
階段を上がって、の鳥居。
本殿をちらりと。
本殿右手から奥の院へ。
やや降っています。
到着。
宝珠。
本殿を後方から。
本殿後方をぐるりと巡って戻ってきます。
えっと……大黒様、だったかな。
鳥居の奥に見えるのが大黒様、ちょっと登ってきています。
拝殿。
墳丘の頂上に建てられている、というのが実感できました。
境内周囲をごそごそしていて見つけた小祠。
幟を外から。
「鶏を捨てないでください」……え、捨てる人が?
神社だからいいだろ、ってことなのかな……「伊勢神宮」には放し飼いの鶏がいますが(神使)、お稲荷さんだからなぁ……。
大鳥居を神社方面から。
御朱印。
さて、とりあえず神社でいただいた略記を見てみます。
「三河国 白狐ヶ丘」、なのだそうです。
「伏見稲荷神社」の五柱とは少々違っていますね。
「宇迦之御魂神」「宇迦之売神」「稚産霊神」の三柱はいずれも穀物の神様です。
「宇迦之売神」は、「外宮」の御祭神「豊受大神」と同一視されることもあります。
さて、「屋船神」というのは……屋敷神ということなのか、総じて建築関係の守護神なのか……あまり聞いたことがないですので、昔は違った名前だったのかも。
「ここ白狐ヶ丘は弥生中後期の住居遺跡で欠山式土器の発掘地として知られており五社稲荷社は明暦年間(一六五六年頃)にこの遺跡の中央前方部大古墳上にこの古墳の尊厳を守り五穀豊穣を祈るため「保食神」を斎祀したのが始まりと伝えられております。百年ほど後の延享四年(一七四七年)御本殿の造替の棟札には「稲荷五社大明神」とあり、その以前より五柱の神々を斎祀したものと推測されますが、古文書から見ますと伏見稲荷大社から文政十三年二月(一八三〇年)正式勧請し五社稲荷社と称され今日に至っております。当時の神社の様子は「参河国名所図絵」に画かれており境内は今の様子とほぼ同じことがうかがえます。
又ここの古墳は前方後円墳と云われております。周辺部が損壊されているので確認は困難ですが東三河地方第一の規模を持つもので造成期は五世紀末から六世紀初めと伝えられ古墳の西方二〇〇米に鎮座する白鳳十五年(六八六年)創建の古社菟足神社の御祭神である大和葛城の豪族葛城襲津彦命の裔、菟上足尼命の墳墓と推定されています。この命、第二十一代雄略天皇の朝「穂の国」の国造として当地に派遣されその治績高く治民の功大なるものがありました。」
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「菟足神社」(豊川市)〜高速初詣三河編〜 - べにーのGinger Booker Club
「菟足神社」(補) - べにーのGinger Booker Club
前回の記事で紹介した「菟足神社」の関係がこっそり。
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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編
↑『参河国名所図絵』をちらっと見てみます。
87コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「稲荷社
同村の中菟足社の北に在近頃村中の人に付て社壇を造立せんことを望む故に社祠を立て是を祭る。稲荷塚
小坂井と篠束の地境に大塚二つ有小坂井の方を稲荷塚と云篠束の方を糟塚と云と二葉松に見ゆ」
まあ、これだけなのですが……90コマの図絵を見ていただくと、小高い丘の上の社殿が描かれているのは、神社の略記にもある通りです。
いずれにしろ、戦国末期〜江戸初期にかけていろいろ整ったようですので、うーん、「豊川稲荷」の影響なんかもあるんでしょうか。
ちなみに、大鳥居は平成十七年の建立だそうです。