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神社仏閣ラブ(弛め)

「菟足神社」(補)

さて。

 

 

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

新訂 東海道名所図会〈中〉尾張・三河・遠江・駿河編 (新訂 日本名所図会集)

 

 

まずは、『東海道名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、

 

「菟足神社

駅路小坂井村にあり。延喜式内。里俗菟足八幡宮と称す。例祭四月十一日。放花炮(はなび)を多く揚ぐる。

祭神兎上王(うさきかみのきみ)『古事記』にいわく、開化天皇記紀伝承上の天皇]の条下、「大股王の子、[中略]兎上王は、比売陀君の祖なり。」社説にいわく、「祭神兎上の王なり。白鳳年中[六七三〜六八五]神告に依りて、八幡宮を併せ祀る。祭式に雀十二を射取り、祭牲をなす。」『三代実録』にいわく、「貞観六年[八六四]二月、参河国正六位上菟足の神に従五位下を授く。」

鐘銘にいわく、

参河国宝飯郡渡津郷の兎足大明神、洪鐘。右の志為ること、天長地久。仰ぎ願わくは円満、国土安穏、諸人快楽、鋳奉る所なり。

大工 藤原助久

勧進聖 見阿弥陀仏

檀那 朝阿弥陀仏

応安三年庚戌[一三七〇]十一月

ここの村老いわく、この鐘、社頭の東方土中より掘り出だす。その遺跡、方五間ばかりの地、今にあり。不浄を祓い、注連引わたす。」(p120)

 

 

うむ、表記として「菟足」だったり「兎足」だったりしているわけですね。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

『神社覈録』を見てみましょう。

 

「兎足神社
兎足は宇多利と訓べし ◯祭神菟上王、(社伝)◯度津庄小坂井村に在す。今菟足八幡宮と称す。 (二葉松、私考略、) ◯古事記、 (開化段) 日子坐王娶山代之荏名津比賣、生子大股王、(中略) 故兄大股王之子、曙立王、次菟上王、 (二柱) 云々、
(連胤)按るに、爰に菟上王を祭り、碧海郡に肥長比賣(日長神社也)を祭る事、垂仁段の故事は、国を隔つといへども由縁ある事なるべし、
(略)」

 

 

古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 


古事記開化天皇の段を見てみますと、

 

「故、兄大俣王の子、曙立王。次に菟上王。(二柱)この曙立王は、(伊勢の品遅部君、伊勢の佐那造の祖。)菟上王は、(比賣陀の祖。)」

 

とあり、この「菟上王」が「菟足神社」の御祭神としたいようです。

この方がどんな活躍をされたかというと、『古事記垂仁天皇の段を見てみますと、

 

「故、その御子を率て遊びし状は、尾張の相津にある二俣榲を二俣小舟に作りて、持ち上り来て、倭の市師池、軽池に浮かべて、その御子を率て遊びき。然るにこの御子、八拳鬚心の前に至るまで真事とはず。故、今高往く鵠の音を聞きて、始めてあぎとひしたまひき。ここに山辺の大鶙を遣はして、その鳥を取らしめたまひき。故、この人その鵠を追ひ尋ねて、木国より針間国に到り、また追ひて稲羽国に越え、すなはち旦波国、多遅麻国に到り、東の方に追ひ廻りて、近つ淡海国に到り、すなはち三野国に越え、尾張国より伝ひて科野国に追ひ、遂に高志国に追ひ到りて、和那美の水門に網を張りて、その鳥を取りて持ち上りて献りき。故、その水門を号けて和那美の水門と謂ふなり。またその鳥を見たたまはば、物言はむと思ほせしに、思ほすが如くに言ひたまふ事なかりき。

ここに天皇患ひたまひて、御寝しませる時、御夢に覚して曰りたまひけらく、「我が宮を天皇の御舎の如修理りたまはば、御子必ず真事とはむ。」とのりたまひき。かく覚したまふ時、太占に占相ひて、何れの神の心ぞと求めしに、その祟りは出雲の大神の御心なりき。故、その御子をしてその大神の宮を拝ましめに遣はさむとせし時、誰人を副へしめば吉けむとうらないひき。ここに曙立王卜に食ひき。故、曙立王に科せて、誓ひ白さしめつらく、「この大神を拝むによりて、誠に験あらば、この鷺巣池の樹に住む鷺や、誓ひ落ちよ。」とまをさしめき。かく詔りたまひし時、誓ひしその鷺、地に堕ちて死にき。また「誓ひ活きよ。」と語りたまへば、更に活きぬ。また甜白檮の前にある葉広熊白檮を、誓ひ枯らし、また誓ひ生かしき。ここに名を曙立王に賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王と謂ひき。すなはち曙立王、菟上(うなかみの)王の二王をその御子に副へて遣はしし時、那良戸よりは跛盲遇はむ。大坂戸よりもまた跛盲遇はむ。ただ木戸ぞこれ掖月の吉き戸と卜ひて出で行かしし時、到ります地毎に品遅部を定めたまひき。
故、出雲に到りて、大神を拝み訖へて還り上ります時に、肥河の中に黒き巣橋を作り、假宮を仕へ奉りて坐さしめき。ここに出雲国造の祖、名は岐比佐都美、青葉の山を餝りて、その河下に立てて、大御食献らむとする時に、その御子詔りたまひしく、「この河下に、青葉の山の如きは、山と見えて山に非ず。もし出雲の石◼︎の曾宮に坐す葦原色許男大神をもち拝く祝の大廷か。」と問ひたまひき。ここに御伴に遣はさえし王等、聞き歓び見喜びて、御子をば檳榔の長穂宮に坐せて、駅使を貢上りき。ここにその御子、一宿肥長比賣と婚ひしましき。故、その美人を竊伺たまへば、蛇なりき。すなはち見畏みて逃げたまひき。ここにその肥長比賣患ひて、海原を光して船より追ひ来たりき。故、益見畏みて、山のたわより御船を引き越して逃げ上り行でましき。ここに覆奏言ししく、「大神を拝みたまひしによりて、大御子物詔りたまひき。故、参上り来つ。」とまをしき。故、天皇歓喜ばして、すなはち菟上王を返して、神の宮を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子によりて、鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定めたまひき。」

 

とあります。

簡単に書くと、「垂仁天皇」の御子に「本牟智和気(ほむちわけ)王」という人がいて、この人は「沙本毘賣」との間の子なのですが、兄の「沙本毘古王」が叛逆を企て、「沙本毘売」は兄についてしまった、と。

このとき身ごもっていた「沙本毘売」ですが、劣勢になり城(稲城)に火を放たれてしまいます。

「沙本毘売」は「御子を天皇の子だと信じるなら、どうか連れていってくれ」と城の外に出し、兄と共に焼け死にます。

この辺りは、「木花佐久夜毘売命」の神話と通じるものがあり、一種の神判、火から逃れる、ということで証明される何かがあったのでしょう。

で、「本牟智和気王」は、ヒゲが胸元に垂れ下がっても物を言わなかったのに、ある鳥(鵠(くぐい))の声を聞くと口を動かした、と。

そこでこの鳥をある人に追わせて捕まえてきたのですが、残念ながらしゃべれるようにはならなかったのです。

垂仁天皇」に夢のお告げがあり、どうやら「出雲の大神」の祟り(「うちの宮を、天皇の住居のように修理してくれたら、御子は喋れるようになるんじゃないのかなぁ、多分」)のようなので、御子に「曙立王」「菟上王」をつけて、出雲へと旅立たせました。

出雲に到着し、出雲国造の祖先が宴会をもよおすと、突然喋り出した「本牟智和気王」、こりゃびっくりと天皇に報告しに行きました。

その間に、御子は「肥長比賣」と結婚したのですが、この方実は蛇の化身でした……とこれはあれですね、「海幸山幸」、「豊玉毘賣」の神話と似ています。

報告を受けた天皇は喜んで、「菟上王」を出雲へ戻して、「神の宮」を造営させた、と。

この部分だけでいろいろ妄想できるのですが……(例えば、この部分が、それ以前の「海幸山幸」「木花佐久夜毘売」の伝承の繰り返しのように見えるのはなぜか、とか、大人になっても話せなかった御子というのは「大和の言葉がわからなかった」のではないか、とか、「沙本毘古王」の反乱からして出雲の陰謀じゃないかとか、名前の類似から「ホムチワケ」、「誉田別」、「ホムタワケ」つまり「応神天皇」のことじゃないのか、とか)……『古事記』の中で結構な誌面を割いているにも関わらず、「本牟智和気王」は天皇の後継者にもならないし、この後さっぱり出てこない……「重要人物と思わせて実はそうではない」なんてしょうもない叙述トリックを『古事記』の時代にやったとは思えないので、何かしら「出雲」に配慮して持ち込まれた部分なのかもしれません。

それにしては、「菟上王」と「肥長毘賣」のつながりが薄いですけれども……。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾三郷土史料叢書. 第4編

 

尾三郷土史料叢書』の第4編、『参河国名所図絵』を見てみます。
コマ数ではなくページ数で164からです。

 

「菟足神社
同村に在社領九十五石祭神(社説に云兎上王)又八幡宮を合せ祭る例祭四月十一日(略)
当社は延喜式に載る所の宮社也今菟足八幡宮と云社説に云祭神(開化天皇の皇孫大股王の第二子)兎上王 天武天皇白鳳年中神告によりて八幡宮を合せ祀る(草鹿砥宣隆此社に詣て神主川出氏に祭神を聞に往古は品多別命を祭りしに白鳳年中神託により平井村より兎上足尼を迎へ奉りて相殿に祭りてより兎足八幡宮と云といへり) (略) 今按るに古事記伝(廿三ノ六十八丁)此王を祭れりと云ふこと心得ぬことなりと謂はれたり社説は古事記の菟上王と国造本紀の菟上足尼とを混へて伝へたる歟考ふへし又神名式に伊勢国朝倉郡に菟上の神社あり又古事記(中ノ廿四丁)に云(日子坐王御子丹波比古多々須美知能宇斯王子)朝廷(みかど)別王者(三川之穂別之祖) 旧事紀(五ノ廿二丁)三川穂国造美巳止(みこと)直とありミコトミカド能く似たれば若くは同人には非る歟と古事記伝(廿二ノ七十二丁)に云はれたり(略)」

 

休憩。

古事記伝』は本居宣長による『古事記』注釈本だと思っていただければいいのですが、古事記の菟上王と国造本紀の菟上足尼とを混へて伝へたる歟考ふへし」ってところを読んで、「ああ、菟足ってひょっとしたら「菟上足尼(うなかみのすくね)」の略なのか……ってそれ明らかに漢字を当てたあとの話だよね……」と了解したのか、疑問が増えたのか……。

 

「天野信景の塩尻に云三河国宝飯郡兎足神社は国造本紀に兎上足尼云々兎足とは文字を略きて書然ればウソコと称ふへきを今はウタリの神社と呼伝る諸神祠の号其称号と正し其元を知るへき也ウカミのカとタと横音通し又ミトリと通へり谷をタリと訓に似たり然れはウタリはウカミの音便歟三代実録(八ノ廿二丁)に云清和天皇貞観六年二月十九日丙子授三河国正六位上菟足神従五位下和漢三才図会(六十九十丁)四月十一日祭礼其上旬射取雀十二羽爲祭牲」

 

尾張の博覧狂記・天野信景翁の『塩尻』からの引用として、何らかの音便変化があったか、とあります。

「ウカミ」から「ウタリ」は遠い気がしますよね……もともと「ウタリ」だったんじゃないかな……と思いたいところですが、証左は無し。

 

「谷川氏の和訓栞(三ノ六丁)生贄の条に三州小坂井村の兎足神社の祭にも雀十二羽を献すとあり又吉田綜銘に云祭礼四月十一日なり風の祭と号す雀拾二羽を射取て贄をなす往古は小田の橋にて旅人の児女を待受て人身御供と為せしと云中比は猪鹿を献りしとも云い又人を生ながら捕て生贄と為せし事今昔物語(巻十五)宇治拾遺物語(巻十)なとに見ゆ宇治拾遺のは人の生贄を留めて後猪鹿を生贄になせしとあれば似たることなり又続紀(廿五ノ廿六丁)淡路廃帝天平宝字八年の条に云又諸国進御贄雑完魚等類悉停云々宇治拾遺(四ノ十二丁)云三河入道いまた俗にてありける折もとの妻をば去りつつ若きかたちよき女に思ひつきてそれを妻にて三河へゐてくたりけるほどに(中略)三河国に風祭と云ことをしけるにいけにへと云ふことに猪をいけながらおろしけるを見てこの国のきなんと思ふ心付てけり云々又三河雀に云四月十一日毎年風祭あり卯月上旬より十日限に雀十二羽を射取雀矢に中りて血流れぬれば氏子に災難ありと云へりなと敬雄の官社考に云へり」

 

なかなか生々しいお祭りだったようで……この辺り、「諏訪大社」の「御頭祭」を思い起こさせますね……となると、ここでもひょっとして古代ユダヤ氏族が登場するのでしょうか(トンデモギリギリ)。

 

 

先代旧事本紀 現代語訳

先代旧事本紀 現代語訳

 

 

先代旧事本紀』の「国造本紀」には、

 

「穂の国造
泊瀬朝倉朝(第二十一代雄略天皇)の御代に、生江臣(武内宿禰の後裔)の先祖、葛城襲津彦命(娘の磐之媛の命は第十六代仁徳天皇の皇后で、履中・反正・允恭の母)の四世の孫、菟上足尼(うなかみのすくね)を国造に定められた(穂国は三河国宝飯郡、愛知県豊川市付近)。」

 

とあります。
↑↑の方にもありましたが、

 

古事記(中ノ廿四丁)に云(日子坐王御子丹波比古多々須美知能宇斯王子)朝廷(みかど)別王者(三川之穂別之祖) 旧事紀(五ノ廿二丁)三川穂国造美巳止(みこと)直とありミコトミカド能く似たれば若くは同人には非る歟と古事記伝(廿二ノ七十二丁)に云はれたり」

 

というわけで、国造が誰だったか、その祖が誰だったか、『古事記』や『先代旧事本紀』が書かれた頃でさえいろいろな説があるものなので、何とも決めがたい……。

「菟上足尼」が、この辺りの実力者で、名前の近い「菟上王」と同一視され、神格化されたのかなぁ……くらいなのかもしれませんが、出雲の大神(「大己貴命」か「素盞嗚尊」かはさておき)の宮を盛大に修理したにしてはやっぱりそのあと記紀神話での影が薄いし、どうにもマイナー感がいなめません……むしろ、そのマイナーなところが狙い目だったとすれば、穂の国としては箔をつけることはできた、んでしょうか……うーん……。

『参河名所図絵』には、図絵も掲載されているのですが、神社の位置は今と同じようにちょっと小高い丘の上で、川沿いで、一の鳥居の位置も同じ、ということは江戸末期ですでに参道は直角に曲がっているのですよね……社殿の真正面に橋がかかっていないのが、地理的要因によるものなのか、怨霊封じなのか……様子としては、伊勢の「内宮」「外宮」の配置とも似ています……ということは、昔は川に船をつけて、そこから入ったのかな……。

いろいろ妄想が浮かんできますが、あとは郷土史家のみなさんにお任せするとして、次に行ってみましょう〜。