べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「素盞男神社」(中村区)

11/26。

よんどころないこともない事情で「豊国神社」に行きまして、

 

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近況(紅葉) - べにーのGinger Booker Club

 

それから、気になっていた神社ということで、「素盞男神社」へ。

 

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名古屋市:素盞男神社(中村区)

 

↑中村区の史跡散策路のページです。

場所としては、「中村日赤」でお馴染みの病院のごく近くです。

昔、中村区に住んでいた人間としては、こんなところにこんな神社が……という感じです(何しろ、「豊国神社」で催される「太閤祭」というのが、また結構な規模のお祭りで、他の神社にはあまり目も向きませんでした……)。

 

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正面鳥居。

「酉の市」で有名、らしいです。

 

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「わくぐり」や「赤丸」の神事もあるようで。
「素盞男」という表記がちょっと珍しいですね。
「素盞嗚尊」か「須佐之男命」か、大抵どちらかなんですが。

 

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鳥居から境内を覗いてみます。
陽が若く、影が濃いですね。

 

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「素盞男神
素盞男尊を祭神として安永三年(一七七四年)に創建され、昭和八年当地に遷座された。
商売繁昌、家内安全を祈願する十一月の祭事(酉の市、おとりさま)は、開運の熊手、福招きの箕(み)、宝船などを求める参拝客で深夜から賑わう。また、七月二十・二十一日の例祭では、茅の輪(輪くぐり)が行われる。」

 

ふむ、比較的新しい創建でしたか。

 

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拝殿正面。

 

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拝殿左斜め前。

 

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狛犬さん。

 

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たら狛犬さん。

 

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拝殿向かって左手の摂社
秋葉社」「天神社」「稲荷社」が合殿になっています。

 

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牛さん。

 

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拝殿を横から。

 

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本殿屋根。

 

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拝殿向かって左手の「大鳥神社」。

 

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拝殿左手から参道を。
鳥居のところで折れ曲がっています。

 

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社務所か参集殿か……かなり賑わう神社のようです(社殿に比べても大きいので)。

 

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拝殿前の鈴と、蟇股の木瓜紋
元々は「牛頭天王」だったのか。

 

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神楽殿。

 

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木瓜紋と巴紋。

 

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再び、正面から拝殿。

 

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もっと拝殿。

わりと狭隘な境内ながら、なんとはなしに人を惹きつける魅力のある神社です。
ワンダーランド……というにはワンダーが足りませんでしたけれど、コンパクトさが街に愛される、ということもあるのかもしれません(奥の参集殿か、神職さんのお住まいでしょうか、そのあたりも含めれば、決して狭くない敷地です)。

 

さて、基本的な文献をざっくりと漁ってみたのですが、どうも歴史に直結するものが見つからず。
おそらく『中村区史』的なものを見ないといけないのでしょうけれども、国会図書館デジタルコレクションでは追跡できず……。

 

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大門の歴史と共に在る 素盞男神社。~OMON Fes 2015 スサノオ神社例大祭~|愛知県名古屋市の着物屋 きもの美濃幸 3代目若だんなの徒然日記

 

↑のブログに興味深い記述を見つけましたので、興味のあるかたは。
『中村区史』か……図書館で文献漁りますかな……。

 

 

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「素盞男神社」のほど近くに、趣のある建物を発見。
今は介護保険デイサービスのようなのですが、かつては料亭、さらに前には遊郭だった、らしいです。
むむむ、そうか名古屋の遊郭の歴史も調べてみたいところです。

 


宿題ばっかり……。

 

 

御朱印はいただけるのですが、この日は神職さんが不在だったか何かでいただけず。

そんな日もあるさ……。

「荒子観音」(再)(中川区)

11/23。

「名古屋成田山萬福院」の参拝を終え、まだ時間がありましたので、そうだ「尾張四観音」再訪中だった、と思い出し、荒子観音」へ。

 

○こちら===>>>

「荒子観音」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑前回参拝時の記事です。

 

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仁王門。
雄壮です。

 

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ばっちり「尾張四観音」。

 

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境内全景。

 

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お隣の「神明社」の狛犬さん。

 

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たら狛犬さん。

 

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神明社」本殿……というか覆屋かな。

 

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本堂。

 

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多宝塔。

 

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多宝塔別角度。

 

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境内裏手の紅葉。

 

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御朱印は判子です。

 

さて。

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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
272コマです。

 

「浄海山観音寺円龍院
荒子村にあり。天台宗、野田村密蔵院末。天平元年越の大徳泰澄和尚の開基、同十三年開山、僧自性建立、永禄八年法印全運の中興にして、尾張四観音の一寺なり。元禄年中僧円空当寺に来寓せし時、数千の仏像を彫刻せり。抑円空師は仏像十二万体を刻まんとの誓願ありし由。故に其作仏今も大小千餘体ありて、壇上はもとより、小仏に至りては俵に入れ、客殿の棟梁に懸けおけるもあり。有信の人此仏像を乞ひ求めて、崇敬やや懈る時は、かへつて現罰を蒙りしとて、多くは又当寺に返し納めしとぞ。脇壇に護法神あり、亦同作にして、其背中に一首の和歌を自筆にて『いくたびも絶えてもたつる三會寺五十六億末の世までも 円空■』又同壇に千面仏の箱あり、師の直封にして敢て開くものなし。箱の裏に又一首をとどむ。『これや此くされる浮木とりあげて子守の神と我なしにけり』さて此円空師の伝は、[近世畸人伝]に詳なれば爰に略す。
本尊 聖観音。泰澄和尚の作。今の堂は、前田又左衛門利家天正四年に再建のよし、[尾陽雑記]に見えたり。
多宝塔 多宝・愛染・釈迦の三尊を安置す。中尊愛染明王は即円空の作なり。貞享年中に僧円盛修造せり。寛政年中に僧全覚再重修を加ふ。
二王門 円空作の両金剛の像を安置す。此像もと知多郡木山の観音にありしを、故ありてここにうつせしとぞ。
霊宝 阿弥陀仏 聖徳太子の御作  聖観音 弘法大師の作  十六羅漢 李龍眠の筆  前田家具足 一領  同位牌 臺に永禄八年乙未十二月八日願主正清とあり。  福島正則書翰、その外数多あり。
紫藤一架 境内にあり。一根繁茂し、池辺を巡る事数十間、春夏の際遊人の来賞甚多し。」

 

尾張名所図会』は江戸時代後期の成立ですが、その時代にはすでに「尾張四観音」の信仰があったのでした。

円空」作の仏像も有名だったようですが、今回もスルー。

開山は「泰澄」和尚、ということで、

 

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kotobank.jp

 

↑「コトバンク」中の『日本人名大辞典プラス』によれば、

 

「682-767 奈良時代の修験者。
天武天皇11年6月11日生まれ。加賀(石川県)白山の開創者とされる。養老元年弟子の浄定(きよさだ)らと白山にのぼり,妙理大菩薩(だいぼさつ)を感得したという。6年元正天皇の病を祈祷でなおし,天平(てんぴょう)9年疱瘡(ほうそう)流行をしずめた。天平神護3年3月18日死去。86歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。俗姓は三神。通称は越(こし)の大徳。号は神融禅師。」

 

白山信仰の創始者ですね。

荒子観音」が本当に「泰澄」和尚の開山かどうかは確かめようがありませんが、その伝説を差し引いてもけっこうな古刹であったと思われます。

図会にはきちんと「神明社」も描かれておりますので、ご覧ください。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡

 

↑『尾張志』の「愛知郡」も見ておきましょう。
24コマです。

 

「観音寺
荒子村にありて静海山といふ 本寺上におなし 天平元年自性上人の開基にて上古は七堂伽藍塔頭十二坊の堂宇並びたち郡中無双の霊場なりしかとも衰廃せしと永禄の頃智音院法師全運是を再営中興すといへり 寺領も三十余町ありしが天正年中検地のとき悉没収せられたりとそ されとも尾張四観音と呼ならへる其一道場にて参詣の人他寺に異り本堂泰澄和尚作の観音を安置す 多宝塔護摩堂又二王門あり 是は僧円空が作なりといふ 当寺の往古のありかは高畑村の北の方八田村より一町はかり南の方にあり 其處に字を本堂といふ 荒子観音の本堂の址なりと高畑村々民いへり  又此本堂といふ處より半町余はかりも隔て大門といふ字あり 是もかの大門なりしよし伝へいへり さて寺に白木の古位牌一基ありて表に数人の法名を書り 其臺坐の裏書に、過去帳修補造之永禄八年乙丑 十二月八日観音寺願主正清法印全運智音院引■■書之とあり」

 

こちらでは、開山が「泰澄」和尚とまでは書かれていません。
一方で、かつての大寺院っぷりが説明されていますね。

 

さてさて、「円空」和尚です。

その仏像の様子はよく知っているのですが、どんなかたなのかは今ひとつ知らず。

『近世畸人伝』なんて本があるのか〜と思って検索して見たら、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 近世畸人伝

 

↑発見。
49コマから「円空」師の記事があります。
ちょこっと引用を。

 

「僧円空 附俊乗
円空は、美濃国竹が鼻といふ所の人なり。稚きより出家し、某の寺にありしが、廿三にて遁れ出で、富士山に籠り、又加賀白山に籠る。ある夜、白山権現の示現ありて、美濃の国池尻弥勒寺再建の事を仰せ給ふよりにて至りしが、いくほどなく成就しければそこにも止まらず、飛騨の袈裟山千光寺といへるに遊ぶ。其の袈裟にありける僧俊乗と云へるは、世に無我の人にて交はり善ければなり。円空持てる物は、鉈一丁のみ。常にこれをもて仏像を刻むを所作とす。袈裟山にも立ちながらの枯木をもて作れる二王あり。今是れを見るに仏作のごとしとかや。又豫め人の来るを知る。又人を見、家を見ては、或ひは久しくたもつべし。或ひはいくほどなく衰ふべしと云へるに、一つも違うことなし。或時此の国高山の府、金森侯の居城をさして、此所に城気なしと云へるに、一両年の間に、侯出羽へ国替へありて、城は外郭ばかりとなりぬ。また大丹生といへる池は池の主、人をとるとて常に人一人は行はず、二人行けば故なしといへり。さるに或時円空見て、「此の水この比にあせて、あやしき事あり。国中大いに災に罹るべし」と云ひしかば、もとよりその不思議を知る故に、人々驚きいかにもして此の難を救ひ給はれと願ひしがば、やがて彼の鉈にて、千体の仏像を不日に作りて池に沈む。其の後何の故もなく、はた是よりは一人行く人もとらるる事止みけりとなん、此の国より東に遊び蝦夷の地に渡り、仏の道知らぬ所にて、法を説きて化度せられければ、その地の人は今に至りて、「今釈迦」と名づけて餘光をたふとむと聞ゆ。後美濃の池尻に帰りて終りをとれり。美濃、飛騨の間にては、窟上人と云ひならへるは、窟に住める故かも。(以下略)」

 

円空」師についての概略は、

 

○こちら===>>>

www.kankou-gifu.jp

 

↑こういったサイトで確認していただくとして、江戸時代の人ながら、すっかり伝説に尾ひれがついています。

加賀白山に籠もった、ということらしいですし、「円空」作と考えられる仏像が東海地方に(愛知県、岐阜県に特に)多いことから、「円空」師の移動になぞらえて、「泰澄」和尚を開山ということにしたのかもしれませんね。

 

「又豫め人の来るを知る。又人を見、家を見ては、或ひは久しくたもつべし。或ひはいくほどなく衰ふべしと云へるに、一つも違うことなし。」

 

この辺りの話、白山で尊崇を受けていたとしたら、地元の人々の中でもいわゆる「被差別民」の信頼を得て、その情報網の一端に触れていたのではないか、あるいは白山なので修験者のネットワークに加わっていたか……といった怪しげな「高田崇史」式発想が浮かんでしまうのが何とも業が深いといいますか……妄想妄想。
そろそろ「円空」仏を拝見に行きましょうか……名古屋にいるのに、見ない手もないですからね。

 

※毎月第二土曜日しか拝観できないそうなので、ご注意を〜。

「名古屋成田山萬福院」(中区)

11/23。

「桜天神社」の参拝を終え、ふとそういえばと思いつき、全然見向きもしなかった(失礼な)「名古屋成田山萬福院」へ。

 

○こちら===>>>

www.manpukuin.or.jp

 

栄、といいますか、矢場町上前津の中間の広い道路を東の方に向かったところにあります。
平成14年に現在地に移転されたそうですので、本堂含め新しいのです。

 

○こちら===>>>

「犬山成田山」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「犬山成田山」と同様に、千葉の「成田山新勝寺」から御本尊を勧請して分院となった、とのこと(真言宗智山派)。
それまでは、「潮音山」と号していたそうです(公式HPより)。

 

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ぴかぴか。

 

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境内には、弘法堂や水掛不動尊などが。

 

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狛犬さん。

 

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むっきむきです。

 

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遠景。
今ひとつ全景が把握できませんね……結構広いんですよ。

 

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御朱印。
「東海三十六不動明王霊場」の札所になっています。
……そろそろ始めるか、霊場巡り……。
こちらで発売されているご朱印帳には、ちりめんで飾られた色鮮やかなものもありますが、私は普通に火焔柄のものを購入。
袋がついてきました。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑いつもなら『尾張名所図会』からの引用なのですが、探しかたが悪いのか見つからなかったので、『尾張志』の「名古屋」編から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
27コマです。

 

「萬福院
鍛冶屋町通り広小路より南東側に在て潮音山と号し長久寺の末寺也 もと清須に在しを慶長年中住僧重秀今の所にうつせり
本堂 本尊十一面観音の像は弘法大師の作といひ伝ふ」

 

……あら、以上ですか。
もともと清須にあったものが、いわゆる「清須越」で名古屋にやってきた、という他の多くの寺社と同じ歴史を辿っているようです。

続いて、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史』も見ておきましょう。
245コマです。

 

「萬福院
萬福院は潮音山と號す、中区南鍛冶屋町一丁目の東側に在り、(略)末寺格 徳川時代には出世法印地 十九等にして、東区長久寺の末寺なり、重秀 寛永三年八月二十七日寂す 初め清須に創建し、慶長年中今の地に移す、 尾張名陽図会には、「或記に按ずるに慶長遷府以前より此所に有しと見えたり」とあり、今当寺の縁起にも此説を取れり  其後院宇廃頽せしが、延宝四年、八世中興政学 寛永七年二月十七日寂 の住するに及びて、新たに丈室、厨庫、門廡を建て、元禄四年、護摩堂を建て、十一面観世音菩薩木像 空海の作と伝ふ、三世日盛(元禄十二年五月二十四日寂)修補を加へ、日盛の甚目寺東林坊に転住するに及び、其像を同坊に安せしを、政学の時、再び当院に遷せりものなりといふ  二挟侍不動明王木像 覚鑁の作といふ 多聞天王木像 政学の新に設くる所と  を安置し、又太神宮、天満宮辯才天を勧請して、院の鎮守となす。二十四世實然 明治二十九年五月十八日寂  本堂、庫裏を再建す、今の堂宇是なり、本尊は木像正観世音菩薩立像 作者詳ならず、本尊を尾張名陽図会及び尾張志には、十一面観音となし、金鱗九十九之塵には薬師如来となす なり、境内にはもと天神社、辯才天社、歓喜天堂ありしが、今廃す、現今の堂宇には、本堂、庫裡、三尺坊堂 もと秋葉堂といふ、寛永元年小笠原某、遠江の秋葉三尺坊の分身を勧請して、堂宇を建立せしものといふ、今不動明王を合祀す、徳川時代には、正五九月の十七日神楽、十八日護摩の執行ありき 、門等あり、(略)」

 

こちらの方が詳しいですね。
成田山」の分院となったのは、大正年間ということですので(公式HP)、『名古屋市史』が書かれた頃(大正4〜5年)にはまだ「潮音山」だったようです。
御本尊はもともと「十一面観音」だったようですが、それにも諸説あり。
そうか、『尾張名陽図会』を見ればいいのか。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張名陽図会. 巻之6

 

42コマです。

 

 

 


……うん、図絵を見てもよくわかりません(そりゃそうだ、移転してるし)。
とりあえず、秋葉堂が結構目立っていたみたいです。

ちなみに、「なごや七福神霊場」のうち、「福禄寿」の札所になっています。
来年は、「七福神」巡りにチャレンジしてみようかな……。

 

 

超簡単ですが、これにて。

「桜天神社」(再)(中区)

11/23。
せっかく「袋町ご聖天」まで来たので、足を伸ばして「桜天神社」へ。


○こちら===>>>

「桜天神社」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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……あれ、写真が一枚しかない……。

 

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御朱印。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』を見てみましょうか……といっても、神社の前の案内板を見れば事足りるかもしれませぬ(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
54コマです。

 

「櫻天満宮
小櫻町本町西へ入南側にあり。織田備後守信秀つねに天満宮を信仰し、或時京都北野へ参詣ありけるが、一夜の夢に、菅神枕上に立ち給ひ、我此梅松院にある事年久し。今汝が住国へむかへよ、諸民の安全を守らんと告げ給ひしかば、いそぎ梅松院に至り、其旨を語りしに、梅松院も前夜に見し夢の霊告に符合せしかば、彼院の霊宝なる御自作の神像を信秀に附與しけるを、天文九年ここにうつし、社を創建して安置し、萬松寺の鎮守とせしが、慶長御遷府の時、萬松寺を今の所へうつされしかども、御鬮の神慮にまかせ、此社は残りてここにいませり。 入道前菅大納言のかかれし縁起あり。この文と大同小異なり。 神木に櫻の大樹ありし故、櫻天満宮と称す。別当櫻花山霊岳院は曹洞宗にて、則萬松寺の末刹、開山は清庵宗仙首座なり。 彼櫻樹は、万治三年の大火に焼失して、今は其名のみ残れり。
本社 菅神御自作の神像。
薬師堂 本尊智証大師の作。
末社 数祠あり。
拝殿
絵馬堂 本社の南にあり。二月例祭のとき、府下の寺子やより奉納せし数多の絵馬を此堂内にかかぐ。又天保七年に至りて、諸国凶作打ちつづき、米価高直にして、飢渇に及べるものすくなからず。其頃府下の志ある町人、此所に施行堂といへる扁額をかかげて、日々若干の金銭米穀或は衣類等まで、思ひ思ひに貧賎を恵みしも、国君の御仁政より憤発せるならんか。同九年の春迄に施行の惣計、凡二万両餘に及べりとぞ。かかる連年の凶作に、かく御仁恵の下ざまに及べること、いともかしこくかたじけなくぞ覚ゆる。
鐘楼 万治四年三月より、官命を奉じて、昼夜十二時に此鐘をつきて町中に告げ知らしむ。故に時の鐘と称す。古鐘の銘は小出永菴の作なしりが、宝暦十三年に焼失し、今の鐘の銘は須賀安貞の作なり。
(略)
神宝 方丈仏間に安置せし十一面観音は、唐佛の銅像なり。又菅公十一歳の御時かき給へる[梵網経]・南化和尚自画讃の渡唐天神の像・康安元年に書きし[天神縁起]一巻、その外古書画・古仏像等多し。
例祭 二月二十五日神前に大般若を転読し、絵馬堂に神輿をかざる。此日府下の寺子供等、我おとらじと大文字をかきて、境内に張る事すき間なく、中にも甚だしきに至りては、さしもに高き鐘楼より地に及ぶほど紙をつぎて、或は三字或は五字などかきて、諸人の目を驚かしむ。又祭日前後三日の間、府内及び遠近の村々より出でて、本町通数町の内両側に植木を商ふ賑合、盆鉢に植ゑたる造り木・接木は更なり。大樹喬木をも厭はず、車にて曳来り、立並べたる有様、さながら山林に入るが如し。(略)」

 

神社に関する記述より、例祭の記述のほうが面白いですね。

 

「二月二十五日神前に大般若を転読し、絵馬堂に神輿をかざる。此日府下の寺子供等、我おとらじと大文字をかきて、境内に張る事すき間なく、中にも甚だしきに至りては、さしもに高き鐘楼より地に及ぶほど紙をつぎて、或は三字或は五字などかきて、諸人の目を驚かしむ。」

 

↑こういうことをするガキンチョというのは、いつの時代でもいたようで……さらっと、神前で「大般若経」を転読、と書いてあるのが神仏習合時代ですね。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』も見ておきましょう。
18コマです。

 

「天満天神社
さくら町にあり 菅贈太政大臣束帯像を安置す 此地はもと亀岳山万松寺の舊址なり 当社はそのかみ此寺鎮守のやしろにして織田備後守平信秀の尊崇信仰乃霊社なりとそ いにしへ社辺にさくらの大樹ありし故櫻天神といひ在地を小櫻町といふ 万治三年正月の火災こうむりて此さくら焼失したりといへり 又萬松寺ここにありしときの四至は東は今の本町より西の方伏見町に至り 南は袋町より北の方片端に至れりとそ 慶長御遷府の時今の地にうつされたり (以下略)」

 

うむ、あまり変わらない。


○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑ま、決まりみたいなものなので、『名古屋市史 社寺編』もごらんください。
154コマです。
前半は、上の二つの文献とほぼ同じですので、途中から。

 

「(略)寛政十二年三月十八日、拝殿を再建す、明治五年村社に列す、祭神は菅公にして、束帯の木像を安んず、神殿、拝殿、門、社務所あり、境内神社は大国主神事代主神両社合殿(大国主命事代主命)、少彦名神社少彦名命)、秋葉神社(軻具土命)、猿田彦神火雷神両社合殿(猿田彦命火雷神)、金刀比羅神社(大物主命)、白太夫神社(度会春彦翁)の六所あり、(略) 明治以前は霊岳院社僧として奉仕し、明治五年頃、霊岳院を廃し、社僧復飾して木村直麿と称して、祠掌を拝命(略)」

 

戦前の境内社の様子がわかります(今と変わりませんが)。

「白太夫神社」はやはり、「菅原道真」公を見とった「渡会春彦」信仰のもののようです。

「霊岳院」は廃止されましたが、そこの僧侶が神職に復帰したようですね。


今回も、時期が時期なので、受験生を連れた親御さんがいらっしゃいました。
梅の頃に受験をして桜の頃に結果を知る「桜天神」はぴったりかもしれないですね、なんてうまいこと言ってみました(うまくない)。

 

「袋町お聖天」(再)(中区)

11/23。
何が呼んだわけでもないのですが、

 

○こちら===>>>

「神明社(赤塚神明社)」(名古屋市東区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑「赤塚神明社」で、とある記述を発見してしまいましたので、「袋町お聖天」へ再訪。

 

○こちら===>>>

「袋町お聖天」 - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前の記事です。

 

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門。
わりと早い時間だったのか……ビルの、というか店舗に囲まれた中にあるので、門は暗いです。

 

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門の二階の蟇股の彫刻は、孔雀かな。

 

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不動堂。

 

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六角宝塔。

 

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七福神

 

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お地蔵様の向こうは、「青面金剛」「ぼけ封じ観音」「愛染明王」「辨才天」、と諸仏勢ぞろいな感じ。
さすが真言宗(?)。

 

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毘沙門天」だけは、独立した祠に。

 

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秋葉大権現」と「出世天神」。

 

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本堂。

 

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……「おびんずるさま」かな……。

 

さて。
再訪したのは「赤塚神明社」に、「福生院」から遷された「出世天神」がある、との案内を読んだからでした。


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国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』からいつもの通り行ってみましょう(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
62コマです。

 

「如意山福生
袋町通本町西へ入北側にあり。真言宗、海東郡蜂須賀村蓮華寺末。至徳年中、蓮華寺の住僧順譽建立して愛知郡中村にありしを、元和三年ここにうつす。
本尊 薬師如来大聖歓喜天の木像を相殿に安置す。霊験ありて、常に参詣の人多し。
天満宮祠 元和三年中村よりここに遷座す。秀吉公の守護神なりと言伝ふ。」

 

↑「出世天神」という言葉は出てきませんね。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』も見てみましょう。

26コマです。

 

福生
袋町本町より西北側にありて如意山と号し海東郡蜂須賀村蓮華寺の末寺なり至徳年中僧順譽 蜂須賀村蓮華寺の住僧也 建立して愛智郡中村にありしを元和三年今の處に遷せり
本堂 本尊は薬師仏歓喜天の木像を相殿に安置す 天満天神社 世俗出世天神と称す此寺はもと中村にありしとき此天満宮別当にてありしよしいひ伝へたり

 

↑お、ありました「出世天神」。
江戸時代に書かれた書物ですので、当然まだ「福生院」にある、と。

 

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国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史 社寺編』も見ておきましょうか。
245コマです。

 

福生
福生院は一に福性院に作り、如意山と號す、俗に御聖天様といふ、西区袋町六丁目の北側に在り、(略)常法談林 もとは平僧地 一等にして、京都智積院の末寺 もと海東郡蜂須賀村(今海東郡美和村大字蜂須賀)蓮華寺の末「なり、明治四十四年三月直末となれり)なり、もと愛知郡中村に在り、至徳中、蓮華寺第五世順譽の建立なり、元和中、宥伝(寛永五年七月二十七日寂す、当院の中興也 の時、今の地に移る、万治三年正月の火災に罹りて、本尊の脇士二天の像、及び大釜一口を遺して、宝物、古記録等悉く焼失す、以来再興して御目見地となれり、本尊は木像薬師如来坐像(作者詳ならず)なり、堂宇は本堂、 一に聖天堂ともいふ、歓喜天の木像を安す 、稲荷堂、秋葉堂、不動堂、摩利支天堂、弘法堂、庫裏、門、井戸屋形等ありし、もと鎮守天満宮 元和中、当寺と共に此地に遷座す、祭神菅公の画像(繩敷坐像) は出世天神と称し、豊臣秀吉の崇敬に係るといひ、同社は頗る大社にして、当院は嘗て同社の別当なりきといふ ありしが、明治初年、東区山口町神明社の境内神社として、本社の東側に遷座す(以下略)」

 

↑「赤塚神明社」での解説とほぼ同じですね。
やはり、神仏分離で何か被害を被る前に、お遷しした、と考えるのが常道でしょうか。
で、時が流れて、「赤塚神明社」にも「福生院」にも、「出世天神」がお祀りされることとなりました。
うーん……「赤塚神明社」からお戻しする、ということにならなかったのは何故なのか。
菅原道真」公の画像は、果たしてどちらにあるのか。
元祖と本家をめぐって、ここにバトルが……始まりませんけども。
謎は解けませんでしたが、どちらでもお祀りされている、という状態がよろしいのではないか、と思います。
あまり争ってもしかたありませんです。

 

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御朱印。

 

 

 

 

 

以下、ふと怒りを思い出したので。


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対馬の寺から盗まれた仏像 韓国の寺に引き渡し命じる判決 | NHKニュース

 

そういえば、対馬から盗まれて半島に持ち出された仏像を、日本に戻さず韓国の寺に渡す、とかいう判決が出たそうです。
↑のNHKの記事から引用。

 

「5年前に長崎県対馬市の寺から盗まれその後、韓国で見つかった仏像をめぐって、韓国の寺が「日本の倭寇に略奪されたものだ」と主張して仏像を保管する韓国政府に対し引き渡すよう求めていた裁判で、韓国の地方裁判所は26日、「仏像は過去、正常ではない形で対馬に渡ったと見られる」などとして、韓国の寺への引き渡しを命じる判決を言い渡しました。一方、韓国政府は判決を不服として控訴しました。
この裁判は5年前、長崎県対馬市の観音寺から韓国人の窃盗グループによって盗まれ、その後、韓国で見つかった仏像について、韓国中部のソサン(瑞山)にあるプソク(浮石)寺が「仏像は中世の高麗時代に自分たちの寺でつくられ、日本の倭寇に略奪されたものだ」と主張し、仏像を保管している韓国政府に対して、日本側に返還せずプソク寺に引き渡すよう求めていたものです。

これについてテジョン(大田)地方裁判所は26日、「仏像がつくられたあと、プソク寺がある地域に倭寇が5回侵入したという記録が残っている」と指摘したうえで、「仏像は過去、略奪や盗難など正常ではない形で対馬に渡ったと見られる」として、韓国政府に対し、仏像をプソク寺に引き渡すよう命じる判決を言い渡しました。」

 

 

「「仏像がつくられたあと、プソク寺がある地域に倭寇が5回侵入したという記録が残っている」と指摘したうえで、「仏像は過去、略奪や盗難など正常ではない形で対馬に渡ったと見られる」」

 

↑ああ、倭寇ね……何言ってんだろうね、この……どうにも罵倒する言葉しか浮かんできません。
儒教のために廃物に勤しんでいた国で、そのほにゃらら寺はずっと残っていたわけですか?
倭寇が日本人だとしても(後期は大陸や半島の人が多かった、という話もあります)、廃仏をしたのは李朝の人間だぞ?
それに、

 

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仏恥斬 - べにーのDoc Hack

 

↑でも書きましたが、だったら「ユネスコ関係条約」なんか批准せず、能書き垂れ流していればよろしかろうに。
真剣な話、日本中の神社仏閣史跡は、至急文化財を隔離するほうがいいと思います。
重要文化財、だけではないですよ。
街角の小さなお稲荷さんだって、その町には大切な文化財です(ああそういえば、どこかの半島の人が、日本国内のお地蔵様だとかお稲荷さんだとか、壊して回っていましたね……李朝に戻って廃仏ですか、お似合いな感じですが、国内でやっとけ)。
裁判所がお墨付きを与えたんですよ、「法を破ってでも、文化財を取り戻すことが正義」だと。
そうしたいなら、まず条約破棄してから来いよ。
その場合でも、やることは同じですけどね。
盗まれる前にしまい込むべきです。
それから、そんな国の人を近づけないように。
いや、本当に、真剣に。
日本だってろくでもない部分はありますが、法治を無視した判決がこう簡単に出されるような国とどうおつきあいしろというのか。

 

……ふう……ネガティブな感情は、将来にわたって保存されやすいので、できれば勘弁してもらいたいですが、もう覚えちゃったからね……消えないよ、当分。

 

「尾陽神社」(再)(昭和区)

11/19。
天気が悪かったです。
なので、出かけようかどうしようか、考えてみたのですが、いきつけの喫茶店に行くついでにご参拝を。
「尾陽神社」です。

 

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「尾陽神社」(昭和区) - べにーのGinger Booker Club

 

↑以前も出かけていたのですが、御朱印をいただき忘れたもので。

 

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という前に、神社近くのコンビニ近くに、祠を発見。
何をお祀りしているのかはさっぱりわかりません。

 

 

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三基並んでいるようで……この木のがご神木だったのでしょうか。

 

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手前には「役行者」像が。
手前の感じから、「前鬼」「後鬼」もかつてはいたのではないか、と思わせます。

 

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ちょっと見上げてみました。

 

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さて、「尾陽神社」です。

 

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詳しい記事は以前のものを御参照いただいて。

 

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曇り空と紅葉の中の神社の様子を。

 

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ご覧ください。

 

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拝殿近くから門の方を。

 

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授与所から境内を。

 

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狛犬さん。

 

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たら狛犬さん。

 

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西側の鳥居。

 

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西側の社標。

 

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というわけで、御朱印をいただいただけ、となりました。

ときにはこんな日も。

「八角堂(久住山法蔵寺)」(中村区)

11/5。
「白龍神社」を堪能したあと、たまたま第一土曜日だったので、久住山法蔵寺」というお寺へ。

 

○こちら===>>>

法蔵寺 (名古屋市中村区) - Wikipedia

 

ウィキペディアさんです。
2004年に、八角堂」が再々建されてからは、第一土曜日のみ拝観できる、とのことでしたので。

 

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お寺の前の掲示板。
マスク姿の怪しい人影が写っていますが、通報しないでくださいね。

 

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いきなりですが、「八角堂」。
お寺でいただける案内によると、現在は阿弥陀如来を安置しているようです。

 

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八角

 

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こちらは、その奥の稲荷堂。
ご本尊は「豊秋稲荷大明神」で、「伏見・豊川の両稲荷大明神を勧進・合祀」したとのことです(お寺の案内より)。
扁額にはおそらく「吒枳尼真天」と書かれていると思われます。

 

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稲荷堂の前の地蔵堂。

 

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そこから奥に進むと、「不動明王」と「二大童子」がいらっしゃいます。

 

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で、さらに奥に行きますと「黒龍社」。

 

不動明王の持物、知恵の大剣と絹策が倶利伽羅の利剣を意味し、火焔は煩悩を焼き尽くす。不動明王に祈願すれば、知恵の利剣をもって心の悩みを断ち切り幸福になれるといわれる。
黒龍社の御神体は倶利伽羅龍王豊春大社と倶利伽羅龍王豊秋大社で、不動明王の化身といわれる。」

 

とお寺でいただける案内には書かれています。
先ほどの「白龍神社」からは、徒歩で10分ほどの距離にある「法蔵寺」。
あちらが「白」で、こちらは「黒」、ということに何か意味があるのでしょうか。
むむむ。

 

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……自分で撮影しておいて、正体がわかりませんが……石庭的な者と思えばよろしいのでしょうか。
瓦が埋まっていますね……こういった様式を表す言葉を、申し訳有りません、私は存じ上げないもので。

 

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虫塚。
これは、いわゆる害虫駆除の供養なのか、鈴虫なんかの観賞用の虫の供養なのか、どちらなのでしょう。
仏教的には、害虫の供養、ととらえるほうがしっくりきます。

 

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石庭。

 

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手水舎など。
門はこの右手、「八角堂」は左手、です。

 

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宝塔。
三鈷杵、独鈷杵、転法輪、と『孔雀王』大好きな人にはたまらないレリーフ

 

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「華堂先生之碑」。
どなたなのかわかりませんが……碑文を読むに、画家だったようです。
詳しいかたにお任せします……。

 

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これは多分、「放生池」の碑でしょうか(いえ、わかりません)。

 

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「廣井天王みたらし」の碑。
「広井天王」は、前回もご紹介した、

 

○こちら===>>>

「洲崎神社」(名古屋市中区) - べにーのGinger Booker Club

「洲崎神社」(補) - べにーのGinger Booker Club

 

↑現在の「洲崎神社」のことです。
数百メートルは離れていると思いますので、往時の「洲崎神社」の境内の広さが偲ばれます。
お寺でいただける案内には、「この周囲はむかし入江の岬で、天王崎と呼ばれていたと伝えられる。この地に古くから清水井があり、堀川対岸の洲崎天王社のお手洗いであったことが記された石碑。裏面の文字から、享保九年頃建てられたとされる。」と書かれています。

 

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横からですが、「藩学聖堂」と彫られています。
こちらを向いているほうには、「源敬公創建 舊在城郭内穪先聖殿」とあります。
お寺でいただける案内には、尾張徳川藩初代藩主、徳川義直儒学を厚く奨励し名古屋城二之丸庭園に孔子霊廟の先駆けとなる、聖堂(学問堂)を建立、「先聖殿」と名付けた。堂内には五聖七十二賢人の像がまつられ、義尚は儒学の教えをもとに藩政の理想を追求したと伝えられる。七代藩主徳川宗春の頃、城下の法蔵寺へ移築、阿弥陀如来を本尊として安置。」とあります。
なるほど、元々は孔子廟的なものだったのを、宗春ぼっちゃんがとっぱらっちゃった、という伝説が残っているわけですね。

 

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門から中を。
季節や時刻、向かいの建物などの関係で、ちょっといい写真になっちゃいました。

 

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寺院によく見られるやつ。
「酒飲んで門をくぐるなよ」、という意味だと思います。

 

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八角堂」、と。

 

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遠景がとれないかな……と思ったんですが、なかなか無茶な話でした。

 

さて、今回は御朱印もありませんので、引用をいってみましょうか。。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

尾張名所図会』から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
123コマです。

 

久住山法蔵寺八角堂 長圓寺の北にあり。天台宗、江戸東叡山の末寺なり。
本尊 薬師如来伝教大師の作。
清水 門前にあり。ふるくしてたぐひなき名泉なり。」

 

↑あら、あっさりな……。
122コマの図絵もご参照ください(現「洲崎神社」と八角堂の位置関係がわかるかと)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 2 名古屋

 

↑『尾張志』も確認。
21コマです。

 

「法蔵寺 府志に法の字を寶に作る今町方府志徇行記及寺記によれり
廣井村のうち堀川の西水主町にありて久住山と號し江戸東叡山寛永寺の末寺なり 享保元年尊壽院の住僧智鋒か本願にて新尾頭町なる扣屋敷うちに一寺を建立し 法蔵寺といふ号は舊く巾下にありし廃寺の号也徇行記には替地出来町にありしよしに記したれと貞享名古屋絵図の替地出来町の所に寺院の跡ありしとも見えす且張州志畧に名古屋村六区町にありしよしに見え寺傳にも法蔵寺といふ廃寺の巾下に在し其号を移ししよしにいひ傳へたれはしはらくそれらの説にしたかいぬ 密蔵院の末寺となりしを同九年今の處にうつし比叡山安楽院の末寺となり僧玄門を開山とし天台律院とす 其後寛延四年今のことく江戸東叡山の末寺となれり
本堂 享保九年七月建立して八角堂と呼り本尊は阿弥陀の木造持国天毘沙門天なり 放生臺 山王社」

↑……うーん、思っていたより全然少ないな。
「先聖殿」に関しては、

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 1 名古屋

 

同じく『尾張志』にさらっとありました(「明倫堂」の記事中/15コマ)。

 

「(略)其後今の学館の東長者町の方に聖堂を御創建ありて源敬公御真蹟の先聖殿の扁額を掲げさせ玉へり また源敬公より御伝来の聖像二軀 銅木 御側にありしを文政六年八月堂中へ遷し給ひ同七年二月聖堂の側東北の方に祠を造りて木造はかりを安置し銅像は御文庫に収め置玉へり 聖堂御造作半途にして天明六年二月十三日まず假釋菜を行ひ玉ひ(略)」

 

ということなんですが……そのあとにどこかへ移したようなことは書いていませんでした。
うーん……。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 名古屋市史. 社寺編

 

↑『名古屋市史 社寺編』ではどうなっているでしょう。
233コマです。

 

「法蔵寺
法蔵寺(略)は久住山と號し、俗に八角堂と称す、中区水主町一丁目 もと廣井村と称す の西側に在り、境内は九百二坪五合八勺 徳川時代には三千二百八十三坪七勺あり、内百五坪清水井竝水汲道は除地にして、餘は年貢地なり、年貢地の内五百八十五坪程は智鋒の隠居地にして、尊壽院の後住へ譲れるものなり あり、一等寺にして、比叡山安楽院の末寺なり、 初め野田密厳院の末寺なりしが、享保九年安楽院末となり、寛延四年、東叡山寛永寺末となり、後復今の末寺に改む 、もと清須に在り、開基詳ならず、慶長遷府の際、住僧豪三、名古屋に移し、愛知郡名古屋村六区 今西区六句町 に在りしが、其後頽破に及びしを、貞享二年、今の桶屋町福泉寺の支配となし、新田出来町 徇行記に替地出来町となし、張州志略には廣井村信行院(今高田本坊)西となし、海邦名勝志には廣井町西となす、今の西区替地町なり、年貢地也 に移し、享保元年、神宮寺六世智鋒 維摩院又は界如院と號し、寛道と名く、密厳院三十六世なり、元文元年十二月八日寂す 、熱田新尾頭町 神宮寺扣地なり、海邦名勝志に熱田一の鳥居の北とせり に移し、 維摩院より法蔵寺へ引渡の記録には、巾下より此地に寺号を引移すとせり、蓋し替地町をも巾下となししものならん 、享保九年、今の地に替地を請ひて移転す、同年七月藩祖義直 敬公 より御吹井丸に在し六角堂を賜はり、九月天台律院として、安楽律院末となし、寺務は神宮寺の取扱となす、十年三月、本堂の移建落し、四月安楽院第三世玄門を請じて、律規を定めしむ、由りて玄門を中興開祖となし、智鋒を中興開基となす、(略)本尊は木造阿弥陀如来坐像 傳曰恵心僧都作、尾張名所図会には本尊薬師如来伝教大師の作とあり 、夾侍は同持国天毘沙門天の立像 作者不詳 なり、現今の堂宇には、本堂 八角堂 、庫裏、座敷、鎮守日吉山王権現堂 享保十年建立 、孥吉尼天堂、門等あり(以下略)」

 

↑うん……よくわかりませんが、「法蔵寺」には「法蔵寺」の歴史が、「八角堂」には「八角堂」の歴史があって、享保の頃に「八角堂」を「法蔵寺」に移したので、そこから「法蔵寺八角堂」になった、という理解にしておきましょう。
どうして移ったのかがよくわかりませんけれども。
何かそこに秘密があるのか、ないのか。
むーん……そんなに昔のことでもないのに、もやもやしますね。

 

 

密教辞典

密教辞典

 

 

↑最後に、『密教辞典』から。

 

倶利伽羅龍王[梵:Kulika(略)訳:黒龍・尊勅(略)]不動明王を念じる功力によって、この龍を駆使し、または保護を受ける信仰から出発して、不動明王の化身とし三昧耶形とする龍。(以下略)」

 

深くはわかりませんが、そもそも梵語のの「Kulika」を訳すと「黒龍」になるので、「黒龍社」と呼ばれているようです。
「豊春大社」「豊秋大社」については、よくわかりません。

 

 

モヤモヤのまま終了〜。