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べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「尾陽神社」(昭和区)

3/26。

よく晴れた日でしたが、あまり遠出はせずに。

ということで、「尾陽神社」に。

 

www.biyoujinja.com

 

ナビにしたがって車を走らせ、コインパーキングに入れてみたはいいものの、案外遠かったという。

 

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これは、北側に立っていました。

正面参道へ回ります。

 

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こんな感じで、住宅街に紛れ込んでいます。

 

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正面。

 

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「尾陽(びよう)神社

 

御祭神 天照大御神 徳川義直命(初代尾張藩主) 徳川慶勝命(十四代、十七代藩主)

 

尾陽神社は尾張徳川家を祀る神社として徳川義直公、慶勝公を御祭神に明治四十三年、名古屋開府三百年を記念して懸社として創建され、大正十三年に此の御器所の地に御遷座された。

義直公は徳川家康公の第九子で、慶長十二年(一六〇七年)に初代尾張藩主に封ぜられ、極めて善政を施され、清洲越しをはじめ名古屋発展の基礎を築かれた。

慶勝公は幕末の混乱期に朝廷側に付かれ、明治維新の元勲として大功あり、明治新政府誕生に多大なる寄与をされた。

また昭和二十四年には主祭神として、最高の神である天照大御神伊勢の神宮よりお迎えした。

御器所台地の頂に位置する此の地は、一四四一年に佐久間美作守が築城したといわれる御器所西城の跡地である。

(佐久間美作守盛政は熱田神宮の境内にある佐久間灯籠の奉納者としても知られる)

 

摂末社

正一位栄世稲荷大明神(家康公より徳川家に伝えられるお稲荷様)

・久延彦神社(古事記に見られる学問、入試、知恵の神様)

・龍神神社(水の神様)

秋葉神社(防火の神様)」

 

というわけで、非常に新しい神社でした。

「尾陽公」といえば、初代「徳川義直」公を指す言葉で、神社名もここからとられているようです。

尾張藩といったら、なんといっても「徳川宗春」公なんですが……評判はまちまちですからね(そんなこといったら、「徳川慶勝」公だってそうですが)。

 

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御器所西城址

戦国時代にうといもので、「佐久間盛政」公のことはさっぱり存じ上げません(面目ない)。

 

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「尾陽神社と御器所西城跡

(略)

この地は、御器所西城跡で、築城年など不明な点も多いが、十五世紀中頃にこの地を支配していた佐久間氏(一説には佐久間美作守)によって築かれたといわれている。

佐久間氏の中には、信長の父・信秀の代から織田家に仕えていた者もいた。」

 

「佐久間盛政」公が御器所西城を築いた、というのは「一説」のようです。

 

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蕃塀ではなく門ですね。

尾張地方ではなかなか珍しいのかもしれないですが、徳川御三家の藩祖と名君を祀るのですから、東照宮系っぽい作りをしていいるのでしょうか。

 

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葵の御紋。

 

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近代的な神社建築です。

 

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拝殿からみて向かって右手にあります、神楽殿……かな。

 

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その奥には摂社末社が控えているようです。

 

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葵の御紋……なんだろう、天水桶かな。

 

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「久延彦神社

御祭神 久延彦命

久延彦命は大国主命の知恵袋として知られる、古事記にも登場される物知りの神様です。

古来より知恵、学問、頭の神様として信仰され、近年は多くの受験生が入学試験の合格を祈願されています。

此の地には昭和五十一年八月に、奈良県桜井市大神神社摂社・久延彦神社御本社より御分霊を頂きお祀りしました。

また此の御社殿は二百年以上前に奈良・春日大社の社殿として創られた貴重なものです。」

 

○こちら===>>>

「大神神社」(続々々)〜久延彦神社・大直禰子神社〜奈良・京都めぐり〜 - べにーのGinger Booker Club

 

↑「大神神社」の摂社「久延彦神社」に行ったときの記事です。

学問の神様といえば、「菅原道真」公がいらっしゃるわけですが、あえて「久延彦神社」から御分霊にきていただいたのは何か戦略(?)があったのでしょうか。

 

○こちら===>>>

「春日大社」(2)〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club

 

↑「春日大社」の社殿、というのは御本殿のことでしょうか。

春日大社」では写真撮影できませんでしたが。

案内板の左手奥に、こっそりと入っていくと。

 

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ばばーん。

おっと、確かに春日造っぽいです。

 

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「樹齢七百年のつくばね樫」の根元。

きちんとお祀りされています。

 

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……なんだったかな、こちらは……。

 

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神馬さんにも葵の御紋。

 

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こちら、門を入って左手の末社

たぶん、「龍神神社」と「秋葉神社」でしょう。

 

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こちらがその隣、「栄世稲荷大明神」。

 

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裏に、「昭和四十八年十月二十八日 東京徳川義親公邸より遷座」と書かれています。

 

○こちら===>>>

kotobank.jp

 

最後の尾張藩主「徳川義親」公の邸宅からきていただいたようです。

この方も面白そうな方ですが、いかんせん不勉強で……地元の歴史は勉強しないとね。

 

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門は、裏側から撮影しても葵の御紋あり。

 

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門を出て、左手の空間には、「オガタマノキ」が植わっていました。

あいにくと木にも疎いもので……(疎いものばかり)。

設計士をしている家族などは、建築に用いる木であれば見たら大体わかるようですが、そういった特殊能力は私にはないもので。

倭姫命(やまとひめのみこと)様が伊勢の地に初めて天照大御神様をお迎えされた時にも、心御柱(しんのみはしら)の上にオガタマノキを神籬として立てられた」といわれているそうです。

 

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ややパノラマで、「オガタマノキ」付近から撮影。

 

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正面から遠景。

いい天気でした。

 

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鳥居の裏には、「舊藩士有志」の文字が。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第8編尾張名所図会

 

↑『尾張名所図会』より引用してみます(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

302コマです。

 

御器所村 府下東南の近邑なり。[東鑑]の文治六年四月十九日造大神宮役夫工米地頭未済事とある條に、『尾張國松枝保御器所長包庄』と見え、建久三年十二月十四日一條、前黄門書状参着以亡室遺跡二十箇所譲捕男女子息』とある数箇所のうちに、『尾張國高畠庄器所松枝領』としるして御文字を脱せり。」

 

とりあえず、「御器所」という地名の初出っぽいものが。

文治年間というと、1185〜1189年のようですので、その頃にはすでに「御器所」という難読地名ができあがっていたようです。

昔は名前の通りに「器を作る所」だったんでしょうか。

 

続いて304コマ。

 

「佐久間玄蕃允盛政宅址 同村にあり。先祖三浦義明の一族にて安房國佐久間の庄を領し、代々鎌倉殿に仕へしが、中世本国を去り、爰に移住し、久右衛門尉盛次に至りて織田家に仕へ、柴田勝家の妹を妻とし、あまたの男子をうめり。盛政は其の嫡男なりしが、勝家滅亡の時、六條河原にて誅戮せらる。其辞世の歌

 

世の中をめぐりはてぬる小車はおもひの家を出づるなりけり」

 

城址とは書いていませんが、少なくとも邸宅はあったようです(「佐久間盛政」公のものかはよくわかりませんけれど、そう伝わっているものが)。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 尾張志. 5 愛知郡

 

↑の76コマに、「御器所西城」のことが書かれています。

 

「同所西ノ城

同むら北市場といふ地にあり四面堀かまへにて土居あり城址の廻り二百四十間あり城主は佐久間美作守家勝同民部亟助安等子孫歴代なり家勝は嘉吉元年同村八幡社を収蔵し助安は文安三年八月民部亟になれり」

 

佐久間一族の城(というか邸宅)である、という認識は確かにあったようですね。

 

ところで、尾張といえば「徳川宗春」公だといいましたが、人気があるのかないのかよくわかりませんが、どうせなら一緒に顕彰されればよかったのにと思います。

 

 

江戸三〇〇藩 物語藩史 東海篇 (歴史新書)

江戸三〇〇藩 物語藩史 東海篇 (歴史新書)

 

 

↑こちらで簡単に触れることのできる尾張藩について、ちょっとだけ。

 

徳川家康は特に晩年の子をかわいがったが、九男の義直は駿府静岡市葵区)の家康のもとで大事に育てられ、老父から直接帝王学をたたき込まれた秘蔵っ子であった。

やがて義直は、父の死後の元和二年(一六一六)に名古屋城名古屋市)に入るが、このとき父から譲り受けた三千冊の書籍、通称「駿河御譲本」を名古屋城に持ち込んでいる。義直はこれを元に「御文庫」と呼ばれる図書館を場内二ノ丸に創設し、広く藩士に公開した。学問好きの義直の面目躍如たる一面であろう。

立藩当初こそ家老任せだった藩政も、長じると自ら親政を行い、検地や灌漑や新田開発などを通して農政の確立に尽力した。名古屋の城下町も義直によって基礎が固められたといってよい。御三家筆頭の並ならぬ矜持を胸に、尾張名古屋の発展に寄与した義直は、尾張藩最高の名君と呼んでもよいだろう。」(p88)

 

 

「慶勝は勤王の意志を明確にし、尊王攘夷を唱えた。これが原因で安政の大獄に巻き込まれ、隠居を余儀なくされる。後継は実弟の茂徳に決まった。やがて井伊直弼桜田門外に斃れると再び情勢は激変。茂徳は文久三年(一八六三)、慶勝の三男の義宜に家督を譲り、隠居する。慶勝は義宜の後見人として藩政に復帰した。

元治元年(一八六四)、禁門の変で朝敵となった長州藩の征討が決定し、慶勝は征伐軍総督に就任する。その後も情勢はめまぐるしく展開し、ついに慶応三年(一八六七)、十五代将軍慶喜は大政を奉還した。徳川将軍家の存続のため、朝廷と幕府の仲介役を担ってきた慶勝だが、戊辰戦争の勃発によりそれも水泡と帰した。

留守中の藩内では、勤王派の金鉄党と佐幕派の鞴党が激しく対立しており、紆余曲折を経て鞴党が優勢であった。慶勝は慶応四年、鞴党の頭目格である家老の渡辺在綱など佐幕派諸士をことごとく処罰し、新政府への恭順を示した。斬首された者は在綱など十四名、蟄居などの処分を受けた者三十名にのぼった。一連の事件は、渡辺家が青松葉と通称されていたことから「青松葉事件」として知られている。御三家筆頭の尾張藩が恭順したことで、以後は東海諸藩もこれに続き、結果的に名古屋を含む東海道の諸都市が戦火を免れたことはその後の日本にとっても非常に大きかった。」(p87)

 

維新後、尾張藩は新政権で存在感をまったくといっていいほど見せることができませんでしたが、「徳川慶勝」公の英断(なのか暴挙なのか)によって、日本の大動脈を成す東海道戊辰戦争に引き込まれなかったことは随一の功績といっていいかもしれません。

ちなみに、「徳川慶勝」公の弟は、会津藩の「松平容保」公と桑名藩の「松平定敬」公で、特に会津に入った「松平容保」公は、こちらはこちらで藩祖「保科正之」公の遺訓通りに幕府を支えるため、戊辰戦争を戦われました(「松平定敬」公の桑名藩は、新政府に恭順したのですが、公本人は北へ向かって、新政府軍と戦ったそうです)。

支藩高須藩岐阜県海津市)から、それぞれ別の藩に養子として入った彼らを「高須四兄弟」と呼んだそうですが、方向性は別にして、いずれ劣らぬ檄の人だったようです。

 

 

御朱印はいただけるようなんですが、どこでいただけるのかよくわからず。

あとで調べたら、神社の裏手にある社務所(というか、結婚式城の事務所的なところ)でいただけたようです。

下調べ……。