10/24。
「千葉神社」の参拝を終えて、ガタンゴトンで向かった先は「検見川神社」。
◯こちら===>>>
検見川駅から、線路沿いに少し歩いて……いや思ったより歩いたな……。
駐車場を通り過ぎて、参道入り口……も、どうやら裏側みたいです。
ここを奥までいって、左手に折れると社殿があります。
こちらは境内社だったと思います。
拝殿。
うん、立派だ……「神祇三社」と言われているということで、ご祭神は「宇迦之御魂神」(東神殿)、「素盞嗚尊」(中神殿)、「伊弉冉尊」(西神殿)。
ということで、お賽銭箱にも神紋三種。
狛犬さん。
お賽銭箱を近くで。
狛犬さん。
で、先ほど入ってきた入り口に向かって戻りますと、正面に先ほどの階段があり、その奥に境内社が。
明和元年の石灯籠……下は。
「古峰神社」。
「江戸湾金比羅宮」「難波塞神社」「天地神集神社」「嵯峨大地主神社」「下総天満宮」。
「三峯神社」。
石祠とか、おキツネ様とか、瓦とか。
本殿を後方から。
木鼻が立派。
本殿を前方から。
木鼻も虹梁もよい感じ。
拝殿正面にある階段を降りてきました。
「市神之社」。
「御由緒
検見川神社周辺には「大賀蓮」で有名な検見川泥炭遺跡があり、三隻の丸太船が出土し、縄文時代すでに人々が住んていた事がわかります。古くから住んでいた人々は、自然の中に神々と共に生活していました。
検見川の地で祭祀が始まったのはいつ頃か定かではありませんが、人々が定住し始めた縄文時代には土俗的な祭祀が営まれていたと思われます。
当社の北隣の地は古くから「嵯峨」と称していて、嵯峨天皇ゆかりの地と伝えられ、朝廷との関係を物語っています。
検見川神社の御創祀は、平安時代清和天皇の御宇貞観十一年(八六九)全国に流行した疫病を鎮めるため、朝廷では京都の神泉苑に矛六十六本(全国の国の数)を建て、御霊会(今日の祇園祭)を斎行しました。此の時祇園社(現在の八坂神社)の御祭神素盞嗚尊の御分霊を矛に鎮めて国々に頒ち、疫病消除を祈りました。その時下総国で祀られた所が嵯峨の地でした。
その後、兵部少輔平春績が葛飾原に土着の際付近の開墾を始めたところ、災害が重なり疫病が流行しました。その時嵯峨の地から素盞嗚尊の御鏡が出土し、検見川大明神に無断で土地を犯したことから起きた災いであることを知り、朱雀天皇の御宇承平四年(九三四)に嵯峨の地の社殿を建立して祭祀を営み謝罪したところ、無事開墾することができたと伝えられています。現在の花輪台の地に社殿が遷されたのは後陽成天皇の御宇文禄年間(一五九二〜一五九六)のことです。
稲荷神社は、近衛天皇の御宇久寿二年(一一五五)勅命により下野国奈須野ヶ原の妖狐(九尾の狐)を退治した金田小太頼次の子孫金田周防守正明が、検見川の地を領した後水尾天皇の御宇元和二年(一六一六)検見川大明神の神域に祀られました。
熊野神社は、後小松天皇の御宇応永十六年(一四〇九)以来嵯峨の地に祀られていました。日頃崇敬していた正明は、寛永年間(一六二四〜一六四四)に現在地に遷し、祭祀を営みました。
以後「神祇三社」と称され、今日に至っています。(略)」
社標と鳥居。
この右手のカーブした道を登っていくと、最初の入り口に行き着きます。
御朱印。
さて。
◯こちら===>>>
総水房山 : 房総名勝誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション
↑この辺りに「八坂神社」として記事があります。
おおよそ、神社の案内板に書かれていたことと同じ内容です。
で、案内板によれば、どうやら祇園系の「素盞嗚尊」信仰があったようです。
関東で「素盞嗚尊」といったら「氷川神社」系をすぐに思い浮かべます。
同じ関東とはいえ、千葉には独自の信仰体系が根付いていた、のでしょうか(「妙見菩薩」とか、独特ですね)。
伝承として、勝手に開墾したら祟りがあって、「素盞嗚尊」の御鏡が出土した、というんですから、そのときすでに祇園系の信仰は廃れていた(祀られていたら出土はしないでしょう)、つまり御霊会のために御分霊に遷っていただいたのに、そのあと荒廃しちゃったから祟った、ということなんでしょうか。
ん〜……何か隠れている感じはしますね……もともと「嵯峨」という地名も、「嵯峨天皇」に結び付けられていますが、実際には「スガ」で、「素盞嗚尊」系の信仰があったのかもしれませんし。
……妄想、あんまり浮かびません……。