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神社仏閣ラブ(弛め)

「吉田神社」(愛知県豊橋市)〜豊橋ちょっとぶらり旅〜

2/24。
続きまして、本命というか本番というか、の吉田神社です。

 

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toyohashi-yoshida.com

 

吉田神道あっちの「吉田神社ではありません。

 

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鳥居と社標。

 

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扁額(青銅)。

 

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豊川を望む感じですね。

 

吉田神社に残る記録「吉田神社略記」に「花火ノ創祀ハ吉田綜録ニ、1558
年<永禄元年>今川義元公吉田城城代大原肥前守知尚公花火ヲ始ムトアリ、云々」・・・・とあります。」

 

そうか、火祭り、というか花火が有名でしたね。

 

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参道。

 

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「影降石(天降石)
社史に「延宝元年(一六七三)六月九日吉田城主小笠原長矩鳥居を建つ寛永十七年(一六四〇)水野忠清が建つる所のもの 風災に罹りたるを以てなり 今回従前の木造を改めて石造とし其位置を南方六間に移す」とあります。その際、木鳥居附近の地中深く埋まる巨石が発見されました。御䦰による神託を受け、巨石はそのまま、石鳥居は位置を移して建立されました。石廻りには竹柵を設け注連をおろし、以後影向石として大切にしたと伝わります(影向とは神仏が一時応現するとの意です)。

延宝七年(一六七九)六月八日城主小笠原長祐は影向石の竹柵を修め、又貞享四年(一六八七)六月六日には影向石の竹柵を回収して石垣を造ると伝わります。また天降石との呼び名もあったようです。

それより百五十年以上を経て、豊橋上伝馬の金物商夏目可敬が編著した三河国名所図絵には「鳥居より本社の方十歩許にあり実に奇石にして諸人愛弄すへき面影あり いつの頃にや空かき曇りて霹靂雨雹と共に天より降りしかば影降石と号す」と記されています。」

 

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参道続き。

 

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「手筒花火発祥之地」でございます。

 

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う〜ん、字が小さい……祇園祭、天王祭、にて手筒花火が奉納されるようです……テレビでは何度も見たことがあります。

 

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参道続き続き。

 

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吉田神社 
御祭神 素盞嗚尊
双剣については諸説あるが旧社家の文書には天治元年(一一二四)当地で疫病が流行した際牛頭天王を勧請し疫病退散を祈願したのに始まるとある。源頼朝の崇敬殊の外篤かったとされ治承二年頼朝雲谷普門寺に在宿の折 御祈願の為名代鈴木新十郎元利をして参拝せしめ 後 文治二年石田次郎為久また代参とあり 其の時二日市に天王社(後に御輿休天王社 今の新本町素盞嗚神社)を建立したとある
牧野古白の今橋城(吉田城)築城後は 御城内天王社 吉田天王社と称し 今川義元 酒井忠次 池田輝政 又徳川幕府成立後も歴代の吉田城主により社殿の造営や修補がなされ 鳥居や手水盤等の寄付にかかるものも多く残る 室町時代には田畠十貫文を領し今川義元は六貫百文の畠を加増 徳川家康は改めて三十石を寄進し明治に至るまで之を領有した
天保六年十月正一位の神階を賜り 明治二年三月吉田神社と改称 明治四年七月郷社 大正十一年十月には縣社に昇格せられた(略)」

 

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狛犬さん。

 

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垂木の連続体。

 

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「金柑丸稲荷社 御祭神 宇迦之魂命
永正二年(一五〇五)牧野古白が今橋城を築いた当時の本丸であったとされ 後の吉田城本丸の東側の細長い地形を金柑丸という 社伝には「金柑丸稲荷社は古白今橋城を築くの日勧請する所にして云々」とあり 正徳四年(一七一四)吉田城主松平信高(信祝)は社殿を再興 此時正一位の神階を賜るとある 以後社殿の修補は城主によって四度なされ明治を迎える 明治十一年には大河内信古が城内五ヶ所の稲荷社を金柑丸に合祀し吉田神社境内に移した 明治三十九年日露戦役記念として新しく社殿が建立され明治四十二年には城守護稲荷社が合祀された 城守護稲荷社は正徳三年信高が城内三之丸に勧請したとされ 明治以後は旧藩士によって維持されるが それも信徒の減少により困難となったことから末社として移転をしたいとの願いを受けて合祀されたものである 歴代の吉田城主は名君として知られる松平信明をはじめ幕府の要職を務めた事から 出世開運の稲荷神として広く信仰される」

 

まさかの地名……一之丸、二之丸、金柑丸ってことか……よくわかりません。

 

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古地図。
豊川に背を向けた形ですね……金柑丸の場所もわかります。
金柑が植わっていたんでしょうか。

 

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こちら「伊雑社」。

 

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こちらが「金柑丸稲荷社」です。

 

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神輿庫かな。
これらは、拝殿向かって左手奥にありました。

 

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松。

 

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拝殿。
向拝っぽいところだけ銅板葺なのは、明治以後かな……江戸期は全部瓦屋根だったのではないかと思います。

 

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飛び狛。

 

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木鼻。
よい造形。

 

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御朱印

 

さて。

 

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大日本名所図会. 第1輯 第7編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑『東海道名所図会』より……そうだ、本で持ってるんだったっけ……。
231コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

牛頭天王
神明八幡宮共に御城内にあり。天王祭、例年六月十五日。
放花炮 六月十四日夜、吉田本町上伝馬町の両町にて揚ぐる。高さ十三間、幅三間、これを立物といふ。これ過ぎて大花炮あり。火の移らぬやうに大釜を覆にす。これに火をうつす時は、屋上に群る見物の人々、濡筵を被く事多し。其外町々の花炮数百ありて、群衆夥し。
翌十五日祭式 吉田五箇の寺院より飾山を出す。至て鄙びて古雅なる行粧なり。十四五歳の童、頼朝の出立とて、金の立烏帽子・直衣・太刀を佩いで、馬上なり。頼朝の乳母てふ者あり。綿帽子を被り、緋のかいどり、馬上。又十六人の殿原とて、十六人柿の素袍にかけ烏帽子を冠り、城内にて走馬あり。中に畠山重忠と名乗るものあり。騎射笠に錦の陣羽織を着て、背に幣を挿す。同じく馬上なり。此左右に編笠・湯衣を着し、笹に饅頭を数百入れし袋を結び付くる。かの重忠てふもの、領主の棧鋪の前に至り、馬上より礼をなし、袋の饅頭を多く投ぐる。これに当るを吉事とす。又笹踊、大太鼓一人、小太鼓二人、同衣裳に塗笠被り、覆面し、錦の陣羽織・小手・脚当など着し、至て古雅の体相なり。囃子方は編笠・湯衣を着し、笹に提燈をゆひ付けて、数十人同音に謳ふ、其唱歌にいはく、

天王といふ人は何仏にてまします、日本一の荒神
あらゐ・橋本・鹽見坂、名所名所の花を見さいな。

これをくりかへしくりかへし謳ふなり。都て夏の末の月に、素盞嗚尊を祭る事は、京師祇園会に據りて、委しくは[公事根源]に見えたり。[神代巻]に、諸の神達罪を素尊に帰せて、千座の置戸をもつて促懲り。髪を抜き爪を抜き給うて、はらへの具とし給ふゆゑ、身をそそぐといふ心にてみそぎといひ、御祓川ともいふ。又除とは、伊弉諾尊檍が原にて修し給ふを、祓の始と申すなり。人の形を作りて興ずるは、形代撫物より出でたり。此事は[源氏]東屋の巻にも見ゆるなり。」

 

……ちっとも、「吉田神社」のことはわかりませんね……。
祭りのことは、少し見えたような気がします。
神仏習合で、「牛頭天王」と「素盞嗚尊」が同一視される思想がいつからなのか、はいろいろな本で解説されています。
牛頭天王」というのは、ざっくり言うと。
蘇民将来伝説」というものがありまして。
外来神と思われる「武塔神」に、宿を貸さなかった「巨旦将来」の家系はその後疫病で滅亡、一方宿を貸した「蘇民将来」の一族は、目印をかかげることで疫病から逃れることができるようになりました。
武塔神」が疫病神そのものだったのか、という疑問はあるにしろ、外来神〜放浪する神ではありました。
これと、記紀神話の「素盞嗚尊」の神逐いのイメージが重なったわけです。
で、本来「武塔神」とは別だったはずの「牛頭天王」、こちらも元々疫病神ではないのですが(というか、元々どこの神なのかもわからず……祇園精舎の守護神らしいですが……)、非常に強力な疫病神と考えられるようになりました。
ここに加えて「摩多羅神」という天台宗における「後戸の神」が絡んできて、もはや何のことかはよくわからなくなります。
禊ぎ(川で体を清める)のイメージと、天罪国罪を背負ってボロボロの姿で放逐された「素盞嗚尊」のイメージから、おそらく「人形」を川に流す、という祭が生まれたものと思われます(そんな単純でもないですが)。
「人形」「撫物」というのは、「触る」呪術の代表で、人形等を自分の体の悪いところに触れさせて(体の同じ部分という場合もあり)、「肩代わり」させて川に流す、というやつです。
神様代表でそれをやらされたのが「素盞嗚尊」なので、疫病払いにぴったり、と思われたのでしょう。
湿気が増し、虫が大量に湧き、疫病の流行やすい季節(夏の終わり)に行なう祇園祭の元々の意味合いは疫病払いだとされています。
同じ「牛頭天王」系で、今の「八坂神社」と並ぶのが、「津島神社」で、その祭にも似たようなところがあるのですが、いつの頃からか、花火が疫病退散に効くと思われるようになったのか……隅田の大花火は、疫病払いとか死者を慰撫するためとか、いろいろな理由がある……とされているようです(実際にはそうではない、というのが定説のようで)。
吉田神社」の花火はどう考えても街中で行われており、濡れ筵を被ったりいろいろ対策はしていたようですが、江戸時代によくもまあこんな祭りが許されたものだ、と個人的には思います(火薬は使いやすかっただろうけれども……三州は松平・徳川発祥の地ですから)。

 

◯こちら===>>>

東参河資料叢書. 第1編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

↑26コマです。

 

「天王社 城内 神主 石田式部 祢宜 鈴木日向
相殿八王子或八将軍。
牛頭天王或祭持統天皇。社頭及破損則自城主造営之。上伝馬町為氏子。
伝曰、右大将頼朝卿之時、石田次郎為久来于当国、使鎌倉相馬天王於三州渥美郡二日市之北古江岸入道淵西方勧請之。其時御正体奉上小浜村云々。然無可援据之旧記。暫随伝聞連記之。
此社者為吉田城鎮守。故代々城主尊信異他之。当社頭者松平伊豆守信祝君営造之。石華表松平豊後守資則君被建焉。祭礼之日代々城主躬出而拝礼焉。其式嚴重也。」

 

牛頭天王」はともかく「持統天皇」はどこから出てきたのか……。
豊橋美術博物館では、『吉田天王社と神主石田家』という、同名展覧会の図録が購入できますので、もっと知りたい方は、まずこちらを手に入れられるとよいかと思います。
花火の作り方が、びっちり解説されていて、これはこれで面白いです。

 

昔から、神社の建てられる場所にはある程度の法則がありまして(多分)、いろいろある中に、「川の近く」があります。
外来神も疫病も、境界の外からやってくるものなので、川(境界)の近くに疫病封じの「天王社」があるのは、偶然ではないと思われます(建立年代にもよりますけれども)。
最前線にあってこその神社、というものもあったのです。

 

まとまりのない記事(いつも)ですが、このあたりで〜。
まだ豊橋が続きます。