2020年元日、あけましておめでとうございます。
平常運転……というか、今年はもう少し記事を書きます……一昨年のが終わらない……。
10/24。
「登渡神社」の参拝を終えて、今回の目的地でもある「千葉神社」へ。
◯こちら===>>>
ええと、東側を歩いていたんだっけ……やけに敷地が広いなぁと正面に回ってみて、改めてその大きさに驚いた次第。
こちらもがっつり「妙見菩薩」信仰、というか本宮みたいなものですか……。
鳥居くぐって、しばらく進んで、の入り口。
獅子山。
立派。
写真の半分は獅子山だったかもです。
社殿が新しいのは別にいいのですが、謎の八角形……あ、これ社殿じゃなくて、門でした。
お賽銭箱。
日月か……「妙見」信仰なら、七曜紋なのかと思っていましたが。
拝殿の扁額。
なんと、拝殿の二階に登れます……すごいな……正面が、先ほどの門的な建物。
あ、こっちは……あれ、九曜紋か……違う、十曜?(※同じです)
で、こちらは境内社の「千葉天神」さんなんですが、日月と、星……じゃないわ、天神様だから梅だ。
「千葉天神」、拝殿。
公式HPによれば、旧「千葉神社」社殿のようです(詳しくは公式HPを)。
本殿をちらり。
ん〜……もとはお地蔵さんか、道祖神か……。
墓石のようですね。
拝殿、別角度から。
小さい狛犬さん。
こういう、八卦を表した八角の……香炉かな、の上に乗っかっておられました。
これは南側。
いや、日本的ですね、神社に「妙見菩薩」という仏教の神がいて、その上から五行ですから。
こちら東側。
北側。
西側。
おっと、こちらに「千葉天神」の案内が。
「寿永元年(一一八二)九月二十五日、この千葉神社の前身、北斗山金剛授寺の境内に勧請された」そうです。
そのほかの境内社、ということで「姥神」様。
その狛犬さん。
「星神」様。
「石神」様。
「稲荷」様。
「金比羅」様。
石祠。
「古峯神社」と「稲荷大明神」。
その前にある、「御嶽」様。
関東にあっても、御嶽信仰……何かあるのか、何もないのか。
……あ、ええと、「千葉天神」は、「千葉神社」向かって右手の方にありまして、境内社はその手前、で石の鳥居をくぐると「千葉神社」拝殿に戻る、という感じです。
広いです。
「御嶽」様の向かって右側にある境内社。
「八幡」「天神」「日枝」「三峯」「神明」となっています。
廃仏毀釈で集められちゃった感じでしょうか。
「恵比須」様もありました。
芭蕉の句碑。
これは、どこにあった狛犬さんだったか……先ほどの石の鳥居のところかな。
で、このキャラクターめいた狛犬さん、まぁ大きいです。
最初に見た、大きな門のところに立っていらっしゃいました。
で、実は門ではなくて、また八卦を表したものが……「尊星殿」という建物なのです。
こちらが、「千葉神社」の拝殿。
二階建てです。
獅子山、再び。
こちら、妙見池にかかる橋と、その手前の鳥居。
この奥に、境内社があります。
「尊星殿」の全景。
遠景。
お隣の公園。
「千葉常胤」さんも近くにいらっしゃった、「出世弁天」。
公園の脇にありました。
御朱印。
さて。
◯こちら===>>>
日本伝説叢書. 下総の巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
↑本当は史料価値の高い文献を選ぶべきなのでしょうが、とりあえずさっくり、ということで、『日本伝説叢書』の「下総の巻」から(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
53コマです。
「千葉神社【妙見社】(千葉郡千葉町)
妙見社千葉神社は、妙見尊を祀つてゐる。千葉に、妙見尊を勧請した由来は「千葉集」そのほかの古記録の伝ふる所に依ると、承平天慶の昔、平将門が、乱を為した時、常陸の大掾国香は、之を討とうとして敗刄に帰し、尋で平良文出でて飽まで之を誅討せんとしたが、是又大敗に帰し、良文は、上野次郎忠頼、権中将三浦忠光、上野介良経、村岡平太夫忠常、粟飯原文次郎常時等主従と共に、積雲深い上州の山中に遁れ、そして、良文は、もはや武運つきたるものと覚悟して、そこにて死を決したが、従者の進言を容れて、再び旗を染谷川に◼︎し、陣を布くと、味方のものどもは、四方より参集して、漸く百騎ばかりとなつたが、将門の軍は多勢にて、衆寡敵せず、此處でも亦、良文将に危からんとした。時に、俄然迅雷天地を振動し、乾坤為に晦冥、恰も数万の伏兵一時に起て良文の軍を味方するものあるかの如く見えたので、味方は大いに勢を得た。これに反して、敵は頓に気を喪ひ、将門は、危機一髪の境に陥つた。斯て霎時にして天晴れんとするとき、金色の垂直に白妙の袴を着した童子が、雲間に現はれ、瞬時にして影は消え失せたので、良文始め味方の士卒等は、均しくその不思議の出来事に驚嘆して居た。此時、敵兵の死するもの三百五十余騎、良文は遂に大捷を得た。すると、良文がその夜の夢に、一人の童子忽然と現はれ、『爾が母、我を信じて爾を設く、懐胎三歳月の時、胎中の一子願くは男子たらしめよ。而して男子たらば、天下無双の名将たらしめ給へ 然らば子孫永々氏神として崇敬し奉べしと祈る。故にわれ爾を助けたり。』と宣ふた。是に於て翌日之を附近の農夫に就て質すと、上野国群馬郡花園村七星山息災寺は、聖武天皇の勅願所であつて、行基菩薩の開基に成り、中尊は北辰妙見尊であると聴き、良文主従は直ちに息災寺に詣で、粟飯原常時を三年間此處に留めて守護せしめ、自らは武州藤田に帰り、軍に臨むに際しては、常に即催寺の方に向つて祈願を為て居たが、未だ嘗て戦利を得ないことはなかつたと言ふことである。そして、その後、良文は、居城の地に尊体を迂さんとして、常時をして宣旨を請はしめると、堂の扉は自然に開いたので、常時は畏み畏み、自ら尊体を背負い、息災寺を出でて、昼夜兼行して武州蓑の崎に着いた、良文は此處に之を奉迎して、共に藤田に帰り、次で秩父の大宮及び相州鎌倉等に移つたが、随所に必ず妙見尊を奉じたとのことである。さうして、千葉に初めて之を勧請したのは、良文の孫忠常の代であると伝へられて居る。一説に大治元年六月に、常重が大椎郷から、千葉に勧請したと云ふのは、再度の勧請で、是より先、既に千葉に在つたのであるといふ。尤も、大椎要害の城下には、今尚ほ妙見の古堂一宇がある。別当は北斗山金剛授寺で、後世人は之を妙見寺と云つて居る。これ、実に千葉の妙見尊王の由来の大要であるといふのである。その後一条天皇は、勅して之を勅願所ち定めさせられ、千葉家廿余世の間、その氏神として尊崇し奉り、徳川家康又深く当寺を崇敬し、永代二百石を賜はり。明治戊辰の歳王政復古となつて、神仏混淆の制を改めらるるに当って、寺院にては祭典を行ふ事が出来ないので、妙見寺の寺号を改めて妙見社とし、天御中主命を祭り、相殿には富津主命及び日本武尊を祭り、更に又、千葉神社と改めて、明治七年一月十九日を以て、社格を県社に列せられた。社殿は、古壮麗を極めたが、明治七年祝融の災に罹つて、堂塔悉く烏有に帰し、再建の後、又、明治三十七年一月廿日再び祝融の災に遭ひ、今は仮殿を存するのである。(略)」
「平将門」からみであることはわかりましたが、「平良文」のことがさっぱり……。
というわけで、コトバンクから、
◯こちら===>>>
「平良文
生年:生没年不詳
平安中期の東国の武将。父は賜姓平氏一世の高望。村岡五郎と称す。京で衛門府の官人として仕官したらしいが、活躍の舞台は本拠地の下総国(千葉県,茨城県)であった。ここで上総国(千葉県)の良兼、常陸国(茨城県)の国香、下総国の将門ら兄や甥たちと対立した。平将門の乱(935~40)での動静は明らかでないが、『源平闘諍録』には,良文が将門の養子であったとするなど、将門と親しい関係にあったらしい。また『今昔物語集』は、武蔵国足立郡箕田郷の源宛 と仲違いしたことから合戦となり、両軍が見守るなか一騎打ちをして引き分け、その後は心を通わせたという話を載せる。土肥、三浦などの坂東八平氏はすべて良文の後裔を称している。」
……「平良文」が「平将門」と仲が良かったのか、争ったのか、今ひとつわかりませんが……「妙見菩薩」の出てくる伝説を考えると、あんまり仲は良さそうではない感じですね。
そして、「平良文」は、千葉氏の祖、ということになっているそうです。
◯こちら===>>>
房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第3巻 史傳其一 - 国立国会図書館デジタルコレクション
↑『房総叢書』の中に、『千葉実録』といった文献がありまして、その中に千葉氏各代の記事がありますので、ご参考に(ちらっと見ましたが、面白そうです……ちょいちょい「妙見菩薩」も出てきます)。
ようやく、千葉(というか、関東というか)で妙見信仰が広がっている理由がわかりました(千葉氏と、あとは「日蓮」上人と)。
が、詳しく掘れず……妄想もあまり……ただ、軍神武神の類でなく、「妙見菩薩」というところが面白いですね……背後に何があるのか……天台宗系の勢力かな……。