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さて、正月松の内、尾張の神社をいろいろ回りましょうといいながら名古屋に近いところしか回っておりませんが、「内々神社」へ久々に。
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「内々神社」+「妙見寺」 - べにーのGinger Booker Club
↑以前の記事です(「宮簀媛による日本武尊殺人事件」「建稲種命謀殺事件」は妄想です)。
正面鳥居。
……「北辰尊星王」かな……。
……読めない(なぜ写真に撮ったのか……)。
虹梁。
よいですね。
狛犬さん。
悶えているわけではないです。
拝殿向かって左手の、廻縁の……何て言うんでしたっけ、本で読んだのに用語が出てこないな……。
「獅子が我が子を千尋の谷にほにゃらら」的シーン。
本殿。
拝殿向かって右手の、です。
こっちの主題はわかりませんです……。
狛犬さん。
泥パックをしているわけではないです。
灯篭。
お隣、「内津妙見」の天狗面。
あやし。
参道入口。
御朱印。
左下には「内津妙見」の参拝記念の印。
伝奇好きにとっては、北斗七星といったら「七星剣」でしょうか。
さて。
↑↑前回の記事で引用した以外の、『尾張志』、『神社覈録』や『特選神名牒』あたりは、だいたい同じような内容でした。
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↑というわけで、『東春日井郡誌』さんには頭が上がりません、363コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
「内津神社
(略)
祭神 建稲種命(略)
天香語山命
例祭日 四月十五日
由緒 人皇十二代景行天皇四十年皇子日本武尊東夷御征伐をなし給ひ、年を超へて御凱旋の途次、信濃、美濃等の国々を過ぎ、尾張の地に入り給ひ篠城の地にて、建稲種命の■従久米八腹より、命の駿河の海に薨去せしを聞召て、尊乃ち哀悼ましまし現哉現哉と宣ひて、此地に命の霊を祀り、神籬祭を挙げさせ給ひ、後自ら神璽を作り改めて祠を建てさせ給へり、かくて景行天皇五十五年命が従軍の戦功により社殿御改造のことあり、時に神門其の他の御建築ありたりしが、後世天正年間、妻木の城主伝入、兼山の城主森右近と兵火を交へしとき、遂に其の兵燹にかかりて社殿等炎焼せり、爾来仮殿を建てて祀りけるが、慶長二年豊臣秀吉朝鮮出師のとき、此社に戦捷を祈願し、社頭の大杉七本を伐採して以て帆柱となしたり、凱旋の後、戦捷御礼の爲とて社殿を造営したりき、又慶長十八年妻木城主源雅楽助先の兵火を謝し、鐘楼を建立したりと云ふ。
かくして享和三年に至り、更に氏子崇敬者等金を集め、時の名工立川和四郎、内匠頭富棟をして社殿を改築せり、今の建造物は即ち是なり、而して、明治十年三月十四日県社に列せり、古は大祭を八月十五日と定め、神輿渡御並に大尻山兒子の舞、踊り等ありて、寺社奉行、郡奉行等列したりきと云ふ、左に古書、古記録を引用し参考に資す
(略)
内々神社本記に曰く、(略)元稲種命社当国有四所、第一内津社、第二尾張戸社(当国山)第三熱田第五相殿、第四波豆社(知多郡師崎)此外所々祭之、宜哉此命当国氏神之本居之霊、而日本武尊嚮導武勇神也。
(略)
尾張志に曰く、建稲種命駿河の海にてミサゴ鳥を捕らむとて、あやまりて海に入らせ賜ひしを、ここにて聞賜ひし、故、此の命の祠を建たりしが、妙見寺の僧徒が祭詞を掌りしより、混一して稲種命の社とは称せず、専ら妙見の社とのみ人をもへり、その妙見菩薩は、大富村にありしを、ここにうつせる也ともいひ伝へて、大富村に本妙見という地ありとぞ、いつの頃の事にか定かならず、夫妙見菩薩の事は、七佛所説神呪経に、もと北辰の名なるよし見へたるを、むかし諸国に勅して祭らしめたまひき、摂津国能勢郡、伊勢国山田郡の妙見の類、今猶多くこの地にも祭りたりしを、仏徒本地垂迹といふ事をたててより、妙見菩薩を建稲種命の本地といひならはししなり、天正三年の焼失に社記等うせて伝説定かならず、社の上なる山に奥院と称するありて、府志に、当社開闢之地而有岩窟、其深二間許、其内有小祠、此亦稲種命也、又岩上有岩窟、深八九尺許、常湧出清泉、凡当社神饌、大概以此水調之、称御■水、と見へたり、一ノ鳥居は社頭より十町ばかり南の方、西尾村の地界にありしが、慶長年中焼失して今はなし、或は日本武尊の現哉とのたまひし地は、ここにあらず、隣村西尾の戌亥の方の山に古跡ありて、今山王権現を祀り、古妙見と称すといふ、
(略)
境内神社 津島社 祭神 素盞雄尊
事代主社 祭神 事代主命
大國社 祭神 大国主命
三峯社 祭神 日本武尊
双殿社 祭神 迦具土之神 菅原道真 天照大御神 市寸岐島命 大山祇命 伊邪那岐命」
結局孫引きで『尾張志』も引用してしまいました……。
本当は奥宮まで行くといいんでしょうけれども、冬の最中にはちょっと……つるってなると……。
それでは名古屋に戻りましょうかね〜。