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所用を済ませて、
◯こちら===>>>
↑「湊川神社」へ。
いえ、神社の比較的近くで用件がありましたもので。
時間的に、参拝時間終了が迫っていたので、取り急ぎ参拝。
狛犬さんたら、
拝殿、
狛犬さん。
ブロンズでしょうか、それっぽい石でしょうか、立派な体躯と勇ましさ。
拝殿遠景。
もうすぐ陽が暮れますね……。
狛犬さんたら、
狛犬さん。
こちらは焼き物でしょうか、それっぽくしてあるのでしょうか。
表情のおかしみ。
さらに遠景。
いつでも暮れてやる、という空です。
狛犬さんたら、
狛犬さん。
社紋が珍しいですね。
参道。
神門向かって右手には、「楠木正成」公の墓所があります……が、今回は時間が足りないため、泣く泣くスルー。
神門。
質実剛健。
「湊川神社
所在地(略)
御祭神 (主神)楠木正成公(大楠公)
(配祀)楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族十六柱並びに菊池武吉卿
摂社 甘南備神社(御祭神、大楠公夫人)
境内神社 楠木稲荷神社(御祭神、倉稲魂命、猿田彦命、大宮女命)
菊水天満神社(御祭神 菅原道真公)由緒
大楠公は、元弘元年(一三三一年)九月に後醍醐天皇の命に従い挙兵、やがて鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績をあげられた。しかし、謀反により一時九州へ敗走した足利高氏の大軍を、大楠公は、ここ湊川で迎撃、激戦の末、延元元年(一三三六年)五月二十五日、弟正季卿と「七生報国」を誓って刺交し、殉節を遂げられた。
その後御墓所は、豊臣秀吉検地の際、免租地とされ、江戸時代初期には摂津尼崎藩主・青山幸利公によって松と梅が植えられ、五輪の供養塔も建てられた。更に元禄五年(一六九二年)、水戸光圀公(義公)によって墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立、大楠公の御盛徳が天下に顕彰された。
これにより、大楠公景仰が愈々高まり、やがて維新回天への力強い精神的指導力となった。
そうした幕末から維新にかけて、尊崇して已まない大楠公、その御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(一八六八年)四月、明治天皇は、神社創祀の御沙汰書を下された。
よって明治五年(一八七二年)五月二十四日、社名を「湊川神社」とし、初めての別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭、翌二十五日楠公祭が斎行されて、ここに湊川神社が創建された。御盛徳
大楠公は、智・仁・勇の三徳を備える非常な人格者で、聖人とも仰がれた武将であった。
大楠公の忠誠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫に至るまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はない、と言われるほど、その後の国民に大きな感化を与えたのであった。
(以下略)」
……鎌倉以後、戦国以前、屈指の人気を誇る武士といったら「楠木正成」公でしょうか。
「新田義貞」もそうなのかもしれないですが、つきまとう悲劇性が一層後世に色濃く伝えられるのでしょうね……。
まあ、私はよく知らないんですけれども……日本史、細かいところまで覚えていられないですから……。
御朱印。
四つ、いただけます。
「神戸七福神」の「毘沙門天」なんですね……「毘沙門天」ったら「上杉謙信」のイメージしかありませんでしたが……何かあるのかな……。