べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「湊川神社」(補)

さて。

 

◯こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第6編摂津名所図会

 

↑『摂津名所図会』より(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

323ページです。


「楠正成墓 湊川二町計北、坂本村田圃の中にあり。初めは一堆の冢のみにして、冢上に松・梅の二木の印あり。元禄四年水戸黄門光圀卿、石碑を建てさせ給ふ。従士佐々木助三郎奉行す。村老云ふ、此時不意に多くの武士来たりて碑をここに運送し、一夜の中に建てられけるとなり。領主荘官などもしらずして、何事にやと不審しけるなり。漸蹤にて此事しれけるとかや。黄門卿の深き思慮ありける事にやと、其頃評しけるとなり。碑石の外に、瓦葺方三間の雨露覆あり。其頃の領主青山播磨候の造立なり。又街道の傍に標石あり。楠公墓と鐫す。
楠公石碑之図
碑石竪三尺九寸、横一尺六寸、厚一尺、青石也。中壇竪二尺五寸、横五尺、下壇竪五尺、横一丈。共白石也。亀趺前向。
碑面嗚呼忠臣楠子之墓(略)水戸黄門光圀卿親筆八分字也。
碑陰明遺臣朱舜水撰碑文。
塔中石棺圓鏡一面蔵。文曰、
楠正成霊、
源光圀造立。
碑文に曰く、
忠孝著于天下。日月麗乎天。天地無日月。則晦蒙否塞。人心廃忠孝。則乱賊相尋乾坤反覆。余聞楠公諱正成者。忠勇節烈。国士無双。蒐其行事。不可概見。大抵公之用兵。審強弱之勢於幾先。決成敗之機於呼吸。知人善任。體士推誠。是以謀無不中。而戦無不克。誓心天地。金石不渝。不爲利回。不爲害状。故能興復王室。還於舊都。諺曰、前門拒狼後門進虎。廟謨不戕。元兇接踵。構殺国儲。傾移鍾◼︎。功垂成而震主。策雖善而弗庸。自古未有元帥妬前。庸臣専断。而大将能立功於外者。率之以身。許国之死靡侘。観其臨終訓子。従要就義。託孤寄命。言不及私。自非精忠貫日。能如是整而暇乎。父子兄弟世篤忠貞。節孝萃於一門。盛矣哉。至今王公大人。以及里巷之士。交口而誦説之不衰。其必有大過人者。惜哉載筆者。無所考信。不能発揚其盛美大徳耳。
右故河摂泉三州守贈正三位近衛中将楠公賛。明之徴士舜水朱之瑜字魯嶼之所撰。勒代碑文以垂不朽。(略)」

 

出ましたね、「徳川光圀」と「佐々木助三郎」。

「安積格之進」(表記は諸説あり)とともに、『水戸黄門』の登場人物は実在していたのでした。

……まあ、常識ですが……というか、今やドラマ『水戸黄門』を知らない人も多いでしょうからな……ああ東野英治郎(なぜ初代)……。

朱舜水」という人は、

 

◯こちら===>>>

kotobank.jp

 

コトバンクの「デジタル版日本人名大辞典+Plus」によれば、

 

朱舜水 しゅ-しゅんすい

1600-1682 明(みん)(中国)の儒者
万暦28年10月12日生まれ。明の再興運動に失敗し,万治(まんじ)2年(1659)長崎に亡命。筑後(ちくご)(福岡県)柳河(やながわ)藩の儒者安東省庵(せいあん)のもとに身をよせる。のち水戸藩徳川光圀(みつくに)にまねかれ,水戸学に影響をあたえた。門下に安積澹泊(あさか-たんぱく),木下順庵ら。天和(てんな)2年4月17日死去。83歳。浙江(せっこう)省出身。名は之瑜(しゆ)。字(あざな)は魯璵(ろよ)。」

 

↑ということです。

日本では、教養という部分で儒学が重んじられた時代が長く、大陸や半島からやってくる儒学者は尊重されることが多かった、と聞きます(よく知らない)。

ただ、実際のところ日本は、「菅原道真」の時代に大陸とは決別していますし、半島に関してはそれよりもっと前にお断りしています。

それにしては、日本が大陸や半島を尊重していたのではないか、と思われがちですが、外来のものをありがたがったり、取り込んだりする、ということに昔から寛容だっただけだと思います。

来訪者は「マレビト」としてありがたがりました(ありがくない場合は、殺したりしますけど)。

新奇なものを生み出す、ということがあまり得意でないのかもしれないですが、その代わり、いろいろなことを自家薬籠中の物としてしまうことには秀でていると思います(結果、ガラパゴス化するのは昔からあんまり変わっていないのですよね……で、そのガラパゴスっぷりが日本的な部分でもあるので、恐れる必要はないと思うのです)。

歴史の三分の一くらいが異民族支配だった大陸とか(そもそも異民族ってなんだろう、ってことではありますが……中華思想的な書き方から逃れられないのは、大陸の影響が強い証拠ですね)、地政学的にも大陸の属国でなければならなかった半島とは、あり様が異なります(当然)。

それぞれが、それぞれの方法で生き残りをかけていた、というだけの話です。

 

墓の図絵も掲載されていますが、結構なポツーン感……明治に入って神社を、と言い出したのはさもありなん、でしょうか。

以下は続きですが、『太平記』からの引用なので、孫引きになってしまいます。

 

「[太平記]に曰く、
楠判官正成舎弟帯刀正季(略)に向つて申しけるは、敵前後を遮つて、御方は陣を隔てたり。今は遁れぬ處と覚ゆるぞ。いざや先前なる敵を一散し追捲つて、後口なる敵に戦はんと申しければ、正季可然覚候と同じで、七百餘騎を前後に立てて大勢の中へ懸け入りける。左馬頭直義の兵共、菊水の旗を見て、よき敵なりと思ひければ、取り籠めて是を討たんとしけれども、正成正季東より西へ破つて通り、北より南へ追ひ靡け、よき敵と見るwば馳せ雙べて、組んで落ちては首を取り、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打ちて懸けちらす。正成と正季と七度合うて七度分る。其心偏に左馬頭に近附き、組んで討たんと思ふにあり。遂に左馬頭の五十萬騎、楠が七百餘騎に懸け靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引き返しける。直義朝臣の乗られたりける馬、矢尻を蹄に踏み立て、右の足を引きける間、楠が勢に追ひ攻められて、已に討たれ給ひぬと見えける處に、薬師寺十郎次郎只一騎、蓮池の堤にて返し合うて、馬より飛んで下り、二尺五寸の小長刀の石づきを取延いて懸る。敵の馬の平頸、胸がひの引廻、切つては刎倒々々、七八騎が程切つて落しける。其閑に直義は馬を乗替へて、遥々落延び給ひけり。左馬頭楠に追ひ立てられて引き退くを、将軍尊氏見給うて、悪手を入れ替へて直義討すなと下知せられければ、吉良・石堂・高・上杉の人々、六千餘騎にて湊川の東へ懸け出て、跡を切らんとぞ取り巻きける。正成正季又取つて返して此勢にかかり、懸けては打違へて殺し、駆け入つては組んで落ち、三時が間に十六度迄闘ひけるに、其勢次第次第に滅びて、後は纔に七十三騎にぞ成りにける。此勢にても打破ぶつて落ちば落つべかりけるを、楠京を出でしより、世中の事今は是迄と思ふ所存有りければ、一足も引かず戦うて、機已に疲れければ湊河の北に当つて、在家の一村有りける中へ走り入つて、腹を切らん爲に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負うたりける。此外七十二人の者共も、皆五箇所三箇所の疵を被らぬ者は無かりけり。楠が一族十三人、手の者六十餘人、六間の客殿に二行に雙び居て、念仏十返計同音に唱へて、一度に腹をぞ切つたりける。中略。抑元弘より已来、忝くも此君に憑まれ奉つて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然れ共此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨てて敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮に遇ひ、智なき者は時の変を弁せずして、道に違ふ事のみありしに、智仁勇の三徳を兼ねて、死を善道に守るは、古より今に至るまで、正成ほどの者は未無かりつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失うて、逆臣横に威を振ふべき其前表のしるしなれ云々。
(以下略)」

 

湊川の戦い、の場面ですね。

左馬頭は、「足利直義」で、「足利尊氏」の弟のようです。

楠木正成」「楠木正季」の兄弟との対比、が描かれていると考えた方がいいのか……別に「足利直義」が愚将というわけでもないと思いますが。

うーん、『太平記』も読んでみないといかんですかね……。

さて、「楠木正成」といえば、

 

軍神の血脈 楠木正成秘伝 (講談社文庫)

軍神の血脈 楠木正成秘伝 (講談社文庫)

 

 

高田崇史先生の『軍神の血脈」という本で仕入れた知識しか私にはないのですが。

文庫版の帯には、

 

南朝に殉じ、命を落とした勇将・楠木正成

太平洋戦争末期、彼はその生き様から軍神として崇められた。

しかし、その最期は、今も深い謎に包まれているーー。

一つ。軍事の天才と謳われた楠木正成が、なぜ、最後の”湊川の戦い”では、明らかに稚拙で直情的な戦法を執ったのか?

二つ。正成の首を取った大森彦七は、どうして正成に執拗に祟られたのか?

三つ。それらの話が記載されている『太平記』は、一体何のために書かれたのか?」

 

とあります。

なるほどそうなのか……と、久々に本を引っ張り出してきて思い出しました、そういえばそういう話だったな、と。

興味のある方は読んでいただけるとよろしいかと。

個人的には、古代への興味が強いもので……でも、やっぱり中世も勉強しないとね、とは思い始めています(遅い)。

さて、「徳川光圀」は水戸藩の人間なわけですが、水戸学(後期)といえば尊皇思想に結びついたものとして知られています。

徳川光圀」が「楠木正成」を持ち上げた理由、というのはその赤心故、と考えられています。

儒学朱子学)傾倒の水戸学にとっては、非常にわかりやすく仁義忠孝を体現した人物が「楠木正成」だった、のかもしれません。

その系譜から、後期水戸学→尊王攘夷明治維新とつながる中で、「後醍醐天皇」に忠義を尽くした「楠木正成」はやっぱり持ち上げられる、と。

となると、「楠木正成」の業績が多くとられている『太平記』もまた、その方向性で書かれていたのではないか。

実際はどうだったのかわかりませんが、武家政権が続いても天皇が廃されなかったのは、地下水脈のように「尊皇」を保ってきた勢力、あるいは利用してきた勢力がいたからこそ。

今の日本の姿というのが、かなり古くから作られてきていたのではないか。

そんなことを思いながら、ああ井沢元彦さんの『逆説の日本史』くらいちゃんと読んでおこうかな……と思った次第です。

兵庫県の神社、もうちょっと回りたかったな……車で行かないとなかなか回りづらいのですが、さすがに車だと遠いもので……。

 

あ、そういえば「楠木正成」の幼名は「多聞丸」でしたね(「毘沙門天」つながり……信貴山も関係しているんでしたっけ)。

 

それにしても、『摂津名所図会』で、「七生報国」の場面が省略されているのに、何かしらの意図を感じるのは私だけでしょうか……いえ、<名所図会>シリーズって、時代背景もあってか、国学、尊皇っぽい印象なんですよね……『東海道名所図会』は、なぜか「草薙御剣」から記事が始まるんです……。

 

 

 

※東京の神社で起こった痛ましい事件について、何と申し上げればいいのかわかりませんが……怨霊にはふさわしくない、ととっさに思いました。もちろん深い事情はわかりませんが、怨霊は、周囲にそう認識されなければならないのです。でなければ、祟り続けられませんし、祀られることもない。あれはただの殺人事件、としか思われない……。しかし、宗教も信仰も、現実とは切り離せないものなのだ、ということを思い知らされます……。※