べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「羊神社」(名古屋市北区)

1/12。

2015年の初詣は、干支のこともありますので、こちらに決めておりました。

「羊神社」です。

 

○こちら===>>>

羊神社アクセスマップ - 羊神社1 - 羊神社アクセスマップ

 

12年に一度、注目される神社。

名古屋在住者ですから、このくらいの特権(?)は享受しないと。

松もとれたものの、休日でしたので、ぼちぼちの混雑だろう……と思って、行ってみました。

 

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……全然混んでます。

すごいなぁ……12年分のお賽銭が集まるのでしょうか(不謹慎)。

 

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まず参拝をすませよう、と列に並んでおります。

 

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手水鉢の流し口がぶた……じゃな羊でした。

すいません逆光で。

 

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蕃塀。

 

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羊さんです。

 

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本殿をちらり。

神明造に、何かくっついています。

 

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本殿向かって左手の摂社

「稲荷社」「水神社」「山神社」「御嶽社」「津島社」「秋葉社」「白山社」。

 

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正面ではなく、東側に抜ける道。

 

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再び、本殿ちらりと。

 

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掲揚ポールの基部。

支那事変紀念」。

 

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拝殿。

 

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「羊神社」の碑。

立て札には、

 

「「延喜式神名帳」に山田郡羊神社、「本国帳」に従三位羊天神とあるのがこの神社で、祭神天照大神、火迦具土命の二柱を祀る。棟札に慶長十八年(1613)癸丑八月五日とある。またこの付近の町名、辻町の語源は「ひつじ」が転じたものといわれる。」

 

とあります。

そう、「延喜式」の「式内社」に比定されており(論社はないのでほぼ確定)、1000年以上の歴史があることになります。

 

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もうちょっと詳しい案内板が。

 

「(略)

一、由緒

創立年代は不詳なれど、平安時代第六十代醍醐天皇の御代(西暦901〜930年)にまとめられた延喜式神名帳に、尾張の国山田郡羊神社と記され、本国帳に従三位羊天神と有る古社である。神社に保存されている棟札によれば、本殿は慶長十八年(1613)に再建されたとある。その後天保九年(1838)尾張第十一代藩主徳川斉温公の時代に改築され今日に至っている。

鎮座地「つじ町」は「ひつじ」から「ひ」をとって名付けたといわれる。

 

里の名を辻という御社の

羊の名にし負へるとぞ聞く

 

昔から氏子区域には極めて火災が少なく「火災除」の神として崇敬者も多い。

一、社名の由来

群馬県多野郡吉井町にある「多胡碑」(日本三古碑の一つ)に刻されている多胡郡の領主 羊太夫が奈良の都へ上るときに立ち寄ったゆかりの屋敷がこの地(現辻町)にあり、人々が平和に暮らせるように「人心を安らかに」という願いをこめて、羊太夫が祀ったといわれ、誰言うとなく「羊神社」と呼び称えるようになったと伝えられている。

尾張誌に「今、村の名を辻といえるのは羊の省かりたるやとそ」尾張国地名考に「往昔火辻村といひしを後世火の字を忌て単に辻村と書くといふ」と記されている。(以下略)」

 

「羊太夫」という人は、Wikipediaに項目がありました。

 

○こちら===>>>

多胡羊太夫 - Wikipedia

 

とりあえず今は、リンクを貼るにとどめます。

 

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境内自体は狭隘な神社ですが、帰り際でもこの行列。

名前のインパクトはすごいですね。

来年からの11年が心配です……。

 

さて。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯第10編尾張名所図会

 

↑から引用します(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

93コマ。

 

「羊神社
辻村にありて、今神明社と称す。[延喜神名式]に山田郡羊神社、[本国帳]に従三位羊天神とある官社なり。今村の名を辻といへるは、羊の省かりたるなりとぞ。」

 

……うーん。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 神社覈録. 上編

 

↑を見てみましょう。

402コマです。

 

「羊神社
(略)和名鈔、 毛群部 羊、 仮字上の如し○祭神詳ならず○田中庄辻村に在す、今明神と称す、 集説、府誌、
集説云、按、舊事紀曰、火之産霊賀突知、云々、比都自者蓋火雷命歟、或曰、伊勢国多気郡火地神社同神歟、と信がたし(略)」

 

むーん……。

 

尾張神名帳集説乃訂考 (1978年)

尾張神名帳集説乃訂考 (1978年)

 

 

↑を改題して発売されている『尾張国神社考』(発行所・ブックショップ「マイタウン」)によれば、

 

従三位羊ノ神社天神 [新考]安食荘瀬古村天神の社是なるべし。社司森氏

[正生考]瀬所(セコ)と辻村とは矢田川を一條隔たれと、もとは一圓の地脈なり。延喜式に羊字を下したるは誤なるべし[出口延経案]いせ国多気郡火地(はつち)神社に等しき歟[府志に][里老曰]辻村は舊は日辻と呼しに、折々火炎(ほやけ)ありて後、火の語を忌て辻村と更むといふ[正生考]瀬古村に高見の名残あるを思えば火辻の由なるべし。日置、火辻は同語なるべし。」

 

と書かれています。

尾張神名帳集説乃訂考』自体は、尾張藩の誇る博覧強記・天野信景(あまのさだかげ)の記した『本国神名帳集説』の訂正加筆です。

先人たちの考察をまとめてみますと、

 

(1)羊太夫の立ち寄り伝説

(2)火辻(日辻)という地名が先行していたという説

 

があるようです。

「火辻(日辻)」という言葉が、何を指しているのかが今ひとつわかりませんね。

「火が集まる」ということなんでしょうか……どんな地名なんですか、と。

「火」に関係していた建物でも集まっていたのでしょうか。

危険なものを一箇所に集めるのは、いざというときに周囲に災いの及ぶのを防ぐため、と考えられなくはないですが、うーん……。

「日が集まる」の方がまだわかるような気がします(いや、よくわかりませんけれど)。

「羊太夫」が通りかかったくらいですから、昔から重要な「辻」だった、と考えるくらいにしておいたほうがいい気がします。

ところでこの場所、古代はどうかわかりませんが、現代では矢田川と庄内川の合流地点の近くになります。

ひょっとすると、氾濫したりしなかったんですかね……でも、だったら水の神をお祀りしてしかるべきだと思うのですが(あ、末社に「水神社」がありましたか)。

うーん……。

 

 

さて、こんな文章を発見しました。

 

○こちら===>>>

羊に纏わる歴史について

 

↑我が国の羊に関する歴史が簡潔にまとめられていますので、少し引用してみようかと。

 

「なぜ?日本に羊が畜産動物として広く定着振興しなかったのでしょうか
まず、考えられることは在来の羊が存在しなかったことがあげられます。牛や馬は古く縄文、弥生の時代に大陸から朝鮮半島、あるいは琉球列島を通じて渡来し、交雑を重ね見島牛、南部牛、野間馬、木曽馬など在来の品種を作り出しています。
しかしながら羊については大陸から同じようなルートをたどって渡来したと考えられるのですが、日本在来種として存在しないのです。歴史的には推古天皇の7年(599年)に百済の国から貢物として駱駝、騾馬各1頭、羊2頭、白雉1羽が献じられ、また、嵯峨天皇の弘仁11年(820年)に新羅の国から貢物として黒羊2頭、白羊4頭、山羊1頭、鵞鳥2羽が献じられたとあり、醍醐天皇の延喜3年(903年)にも唐人が羊、鵞鳥を献ずとあって、その後、何度か輸入の記録が残っています。
その頃、羊を羊毛として利用するにしても、当時の衣服は木綿、麻、絹、芭蕉布などでけものの糸を紡ぐという発想がなかったのかもしれません。また、食肉として利用するにしても仏教による殺生戒や肉食禁忌の教えがあり、受け入れられなかったことが予想されます。
安土桃山、江戸の時代に移って中国、朝鮮、南蛮との貿易で毛織物が一部の特権階級に(例えば、武将の陣羽織や絨毯、ハレの衣装として)輸入されていました。しかし、中には自分たちで羊を飼い、毛織物を生産しようとするものも現れます。文化2年(1805年)に長崎奉行の成瀬因幡守が数頭の羊を輸入し中国人の牧夫とともに肥前国浦上村に飼育を開始しますが、失敗します。しばらくして幕府も江戸小石川薬草園に数10頭の羊を輸入して飼育を開始し、良好な飼育管理によって300頭にまで増える好成績をおさめ、刈り取った羊毛で羅紗を織り将軍に納めたとあります。しかし、その後、文化7年の江戸の大火などもあって衰退消滅します。(略)
羊が畜産業として定着振興しなかった原因を推論してみると、日本は国土が狭く、羊の放牧地が十分に得られないこと(牛のように舎飼いが出来ず、羊の舎飼いでは羊毛が汚損して品質の悪いものしか生産できない)、日本の気候風土が羊の飼育に適さなかったこと(高温多湿である)、食肉としても牛と違って臭気がきつく、肉の旨味、芳香が格段に劣り需要が低いことなどと、これらの失敗の繰り返しが日本では羊の畜産業は成り立たないと喧伝されたことなどが考えられます。(以下略) 」

 

「日本は国土が狭く、羊の放牧地が十分に得られないこと(牛のように舎飼いが出来ず、羊の舎飼いでは羊毛が汚損して品質の悪いものしか生産できない)、日本の気候風土が羊の飼育に適さなかったこと(高温多湿である)、食肉としても牛と違って臭気がきつく、肉の旨味、芳香が格段に劣り需要が低いこと」……日本に定着しなかった理由、というのがわかりやすいですね。

どうして日本に「羊」はいないのに、1000年以上前から「羊神社」なんてものがあったのか、不思議でした(西洋は、特に中世から羊毛の毛織物産業が一大ブームになりまして、フランドル地方とかね、ただ職人としての地位は低かったので、勃興した毛織物職人達と旧来のギルド(ツンフト)勢力との血で血を洗う抗争が……一部では起こったりしました)。

逆説的ですが、「珍しいから残った」、という考え方があってもいいのではないかと思います。

「羊太夫」の存在はともかく、「羊」っぽい何かが伝わったり残ったりしたのではないでしょうか。

「聖」は「日知り」だと言われています。

ある時期まで、「火」は「ほ」、「日」は「ひ」と読んでいました(いつから混交するようになったのかは、言語学者さんにお願いしたいと思います)。

「火」は「ほ」、「穂」とも通じます。

これは、形象として捉えたときに似ているからだと思います。

「炎」は「火(穂)の尾」のように見え、「焔」は「火(穂)が群れている」様子です。

「尻尾」は「しりのお」ですが、これは「しりのほ」でもあるのでしょう。

つまり、昔から呼ばれていたとしたら、「火辻」は「ほつじ」や「ほのつじ」でないといけないと思うのです。

ですから、この説は比較的新しく出来上がったものではないか、と考えられます(といっても、上代から奈良平安くらいの時代のことかもしれませんが)。

やはり、「羊神社」と「辻町」の起源説は、後世のこじつけではないでしょうか。

 

 

ちなみに、五行思想によれば、獣としての「羊」は「火行」ですが、十二支の「未」としては「土行」です。

「土剋水」。

水害に対して「土気」の「未」を祀る、というのは故なきことではない……かもしれません。

 

 

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御朱印は書置きのものでしたが、未年にいただいた、というのはなかなかレアではないかと。

 

 

さて、2015年はペースを落としての参拝となっております。

更新ペースもぐっと落ちますが、ご容赦ください。

それでは〜。