12/31。
年末のよんどころない事情で上京しました。
大変結構な催し物でした。
その帰り際、早めにホテルを出まして、一箇所でもお参りを……というわけで行ってまいりました「白山神社」。
○こちら===>>>
十年以上前に巣鴨に住んでいたのですが、その頃はまだ神社仏閣にそれほどの興味がなかったので、一度もお参りにきたことはありませんでした。
住宅街を抜けていくと鳥居が。
大晦日、大祓と初詣の準備で忙しい神社にお参りするのは気が引けます。
去年の年末も、「平将門公ゆかりの神社めぐり」をしていましたが、やはり同じように思ったものです。
ときどきしか上京しませんので、大目に見ていただきたい。
こちらは、駅から近い方の参道で、南側の参道は、
こんな感じになっております。
水道橋から白山通りを北上して巣鴨へ至る道をご存知の方は、けっこうな勾配であることを思い出していただけるかと。
拝殿を正面から。
狛犬さん。
「御神徳
一、御祭神 菊理姫様(結びの神)、
伊弉諾命、伊弉冉命(修理固成の神)に依り、縁結び・商談成立(サラリーマン諸氏の信仰を多く集めております)
商売繁盛・受験・家内安全
その他広義に亘る仲介が成されます。
一、航海安全をお守り下さる為、近年は海外旅行者に人気があり、無事帰国の際必ずお礼参拝においでになります。
一、霊峰白山に起源する「水の神」「農耕の神」でもあり、火防の神としてお守り下さいます。
一、御本宮(加賀一の宮)の修験者の一人が荒業に耐え成し遂げたと伝えられるむし歯(特に痛みを鎮める)に関するもの
昭和初期迄お守りに房楊枝を添えたものが参拝者に配られていました。」
全国「白山神社」の総本宮は加賀一の宮である「白山比咩神社」です。
御祭神の「菊理姫様(結びの神)」の名は、「くくる(括る)」の意味を持つと考えられるので、「結びの神」として伝えられています。
北陸、行こう行こうとは思うんですが、なかなか……。
先ほどの階段を上がってくると、左手には倉庫が。
神輿庫かな。
「八幡神社由緒(略)
当社は人皇七十代後冷泉帝永承六年(1051)四月奥州安部の一統王威を掠む、是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守源頼義御嫡男八幡太郎義家両大将軍は官軍を率て発向したもう、当所は其の時の奥州街道なり。然るに敵将此の辺に兵を伏駒を込数千の薪を集め焼亡さんと計るとき、両大将当社前の桜木に御旗を立て石清水八幡宮を奉勧請御祈誓ありて後、一戦に敵を討捕し討伐後ここに感謝の意をもって八幡神社を創建せらる。白山神社の境内の地主神に在りて御神徳顕著にして、崇敬者多し。昭和五十年老朽化せし社殿改修し同年十二月十日遷座祭施行す(なお白山神社氏子中の協賛による)
御神木 旗桜
この桜木は旗桜と言い、八幡太郎義家御旗を立給いて祈願せられた時の桜木にて、(古木は社務所に)若木を育てたものであり花の真に旗の形なる花弁ある名花なり。」
こちらがその「旗桜」ですが、大晦日ですから……。
あ、何か変だと思ったら、肝心の「白山神社」の由緒が撮影していない……しょうがないので、↑↑の文京区のHPより引用しますと、
創開は古く、天暦年間(947~957)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられる。
後に元和年間(1615~1624)に2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移ったが、その後五代将軍職につく前の館林候綱吉の屋敷の造営のため、明暦元年(1655)現在地に再度移った。
この縁で綱吉と生母桂昌院の厚い帰依を受けた。
↑ということですので、この場所に「白山神社」はなかったんですね。
もともとは、「八幡神社」だったと。
境内社にしては由来がしっかりしているので、おかしいなと思ったんです。
その隣の……多分七所神社とかそんな感じのところだと思います……。
案内はなかったと思うのですが……撮り忘れが多いな……。
こちらにも倉庫が。
その他境内には、
「松尾神社」があります。
「関東松尾神社由緒
当社は関東松尾神社と称し、江戸時代白山神社の境内地に京都嵐山松尾大社の御分霊を奉勧請す。昭和二十八年六月酒類関係業者により、老朽化せし御社を改修し盛大に遷座祭を施行す。
本社なる松尾大社は大宝元年京都嵐山北松尾山に鎮座せられ、京都の大社にて旧制官幣大社である。この神酒造の神として世に著れ、酒蔵札にも
「奉祭祀 秦氏神 松尾大明神 常盤堅盤夜乃守利日乃護利幸賜」
とあり、酒造家の尊信が頗る厚く、現に遠近より酒造・酒販業者の賽する者甚だ多い。
この勧請社たる当社も酒類関係業の尊崇厚く、毎年新嘗月なる十一月に吉日を選んで大祭が厳修せられている。」
昔の江戸は片田舎、というより辺境の地でしたが、いろいろな時代にいろいろな神様が勧請されて、案外古い神社もあります(が、後世に社伝に箔をつけるために、起源を古くしている可能性はあります)。
「松尾大社」も、いずれ行こうと思いながら、なかなか行けません。
京都は北陸よりは近いんですけどね……あの街、混んでいて動きづらいんですよね。
本殿を後ろから見ることもできます(公園になっていた……と思います)。
この柱は明治のものです。
孫文先生が座ったという石、だそうです。
宮崎滔天(こちら>>>宮崎滔天 - Wikipedia)と一緒に座ったそうです(碑文が細かくてさすがに読めません)。
最初に入ってきた鳥居の横に、お稲荷さんがありました。
……ん?
あら美人さん。
「同行」とありますが、お遍路さんじゃなさそうですし、これは富士講か御岳講かな……。
さて。
久々に『江戸名所図会』からの引用を(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3
17コマより。
「白山神社
同所指谷町にあり。小石川の鎮守にして、神主中井氏奉祀す。祭神加州石川郡に在す白山比咩神社に同じ。伊弉冉尊、菊理姫、泉道守者等三座なり。 一宮紀曰く、下社は伊弉冉尊、上社は菊理媛、號白山権現云々。 相伝ふ、当社は元和三年の勧請なりといへり。当社舊へ白山御殿の地にありて、氷川明神女體宮と共に竝びてありしかども、彼地に御殿営作せられし頃、今の地へ遷座なし奉るとなり。 神社略記に云ふ、此神いにしへ白山御殿の地に鎮座ありて、其原始尤も久し、神木に船繋松(フナツナギマツ)とて無比の大樹ありしと云々、氷川神社は今御薬園の西にあり、其の條下に詳なり。女體宮も今伝通院の内にある所の辨才天是也。 祭礼は九月二十一日なり。釣樟の歯木と、紙にて製する所の弓箭を以て、此地の土産とせり。」
『江戸名所図会』の書かれた頃には、すでに現在地にありました。
それにしても、記事の1/3は加賀一の宮の話とは。
「元和三年」というと1618年ですか、勧請されたとありますが、文京区のHPではもっと古くからあるように書かれています。
徳川秀忠の時代に、「白山御殿」の地にあって……「白山御殿」ってなんですかね。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所記 : 全七巻
↑の80コマにも記事があります。
「四 白山町 白山権現
白山権現は、加賀の国の霊神なり、そのかみ越の大徳泰澄はじめて白山にのぼりて、天女に逢賜ふ、かの天女かたりてのたまはく、われはこれ天神の第七代いざなぎの尊なり、いまは妙理大ぼさつと名づく、本朝男女の根元の神也とて、たちまちに十一面観音のかたちを現じて、頓ておすがたをかくし賜ふ、又ひとつの峰にして神に逢賜ふ、手には金の矢をもち、肩には白銀の弓を横たへたり、名づけて小白山大行事といふとて、聖観音のかたちを現してやがておすがたをかくし賜ふ、次に又一人のおきなに逢賜ふ、我はこれ大己貴の尊と名づく、西方浄土のあるじ也とて御すがたをかくし賜ふ、これによつて白山権現をあがめ給ふ、佐羅の早松は本地不動明王なり、金劔はまたこれ倶利伽羅不動の変作なり、又白山権現は神代のいにしへは、菊理姫の尊と申侍べりきとなり、いまこの地にくわんじやうせし事は、元和元年の事也、もとのやしろの地には、名水の瀧あり、日外のころにや、有典厩公かの寺を替て、御下屋敷とせられしに、瀧水をつき山の前におとさしめらるるに、更に一滴の水もおつる事なくたへはてたり、人みないはく、権現の威に依て瀧は落たりしを、権現すみ給はぬゆへに瀧の水絶たりといふ、いとおろかなる事也、しからば今の社地に瀧あるべし、今の地に瀧のなきはいかなる故ぞや、をよそ水脈の地の中に通ずる事、時にしたがひて替る事、古来世の常にあり、さのみにあやしむるにたらず。
なにことのおはしますらんしら山の、しらぬなからも神ぞたふとし」
……ええと、こちらもまた「白山権現」の話が半分近くで、「白山神社」のことはあまり書いていません(まあ、観光案内みたいなものですから、そんなに執拗に書かれていても困るでしょうが)。
とにかく、元和元年にこの場所に勧請された、元の場所には名瀧があった、と。
うーむ……もう少し検索してみたら、
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 史料通信叢誌. 第6編
↑こんなのが見つかりました。
「○白山御殿跡 御薬園 施薬所 小石川志料松崎善右衛門純庸著
純庸案今の御薬園地古しへ舘林殿御下屋舗にて則白山御殿也舘林此御殿地を賜りし年歴慥なることは未だ所見なけれど……(略)……承応元年壬辰八月十八日高七十四石壹斗五升四合貳勺徳松様へ渡る寛文二年壬寅八月十八日高三拾四石八合六夕舘林様へ同九年己酉八月廿六日高四石七斗九升八合三勺舘林様へ同十年高十五石壹斗三升壹合九勺小石川御殿御用に上と録せり館林殿御幼名徳松君慶安四年四月三日御賄料美濃近江信濃駿河甲斐上野の内十五萬石を賜はる承応二年八月十二日御元服従三位右近衛権中将兼右馬頭に叙し綱吉公と称し奉れりされは彼旧記承応元年徳松様へ賜ふと載たるは此地を始て賜はりし年月なるへし承応二年はや御任官ありしを彼記御幼名をのせたるは元年始て賜ひし正敷證ともなすべきや四方の広狭も今よりたしかには言へからされと追々上り地となりし右高をもて考れは五丁六反四畝廿二歩許の地とはなれり御殿御引払となりしは正徳三年也此あたりの地図及考証となるへきことを採て左にのせたり
江戸名勝志小石川御門より廿町亥子の方水道橋より十八町亥の方極楽水より二丁子丑の方也
改撰江戸志白山御殿跡は館林殿の御下屋舗と云初は白山社氷川社女体社凡て三社此地に建り玉露叢云慶長廿年加賀白山大権現を武州え勧請す名水の瀧ありしか此處館林宰相綱吉卿の拝領ありて彼瀧を庭前築山の泉水へ落し入んとありしか俄に水涸て一滴も出す哉に神妙といひつへし此事江戸名所記にも載せす其社は小石川に移す今の白山なりと云案に綱吉公ハ慶安四年四月上州館林の城を賜ひ承応二年十月三位の宰相に叙せられるよりて思ふに此處を下屋敷に給ひしハ慶安承応の頃なるへし延宝の江戸絵図にハ此處館林殿御下屋敷とす文露叢に云正徳元年正月白山御殿跡七千坪松平紀伊守に給ふと同書正徳二年月の條小石川御殿番松平半左衛大森八十郎と載す此頃ハ彼両人明御殿を守て居りしと見ゆ同三年九月の條に小石川御殿御引払と云(以下略)」
前段はのちの「徳川綱吉」である「館林殿」に、現在の小石川植物園付近の土地が与えられた頃のことが書かれています。
後段には、「白山御殿跡は館林殿の御下屋舗と云初は白山社氷川社女体社凡て三社此地に建り」とあります。
文京区HPによればもともと本郷一丁目にあった「白山神社」は、「徳川秀忠」の命令で今の小石川植物園の地に勧請される。
↓
そこには一緒に「氷川社」「女体社」があった。
↓
その土地が「徳川綱吉」の御領地となる。
↓
三社はそれぞれ、別の場所へ遷される(「白山神社」は現在地へ)。
↓
なぜか「徳川綱吉」の下屋敷が「白山御殿」と呼ばれる。
という流れでしょうか。
うーんと……なんで「白山御殿」と呼ばれたのかは、結局わからない、と。
いや、わかりますよ。
消去法ですから。
「氷川社」があったんだから「氷川御殿」か、といえば、そうではないでしょう。
江戸には「氷川神社」がたくさんありますから。
また、「女体社」があったんだから「女体御殿」、はさすがにまずいでしょう。
というかダメに決まってるじゃないですか、そんな怪しげな、ピンクな名前(そういうことじゃない)。
武士の惣領徳川家の血筋に生まれて、自分の屋敷が「女体御殿」なんて呼ばれたら、そりゃもう徳川家失格ですよ(その前に、たぶん、誰も呼びませんけどね)。
たとえ後々「犬公方」と呼ばれることになっても、「女体公方」は絶対に呼ばせませんよ。
というわけで、消去法で、「白山御殿」と呼ばれたのでしょう。
こうなると、「氷川社」「女体社」の方も気になりますね……文京区も歩いてみるかな……水道橋から護国寺方面とか、ぶらぶらしたことはあるんですが、神社仏閣に着目したことはなかったですね。
ま、東京近辺の先輩諸氏が、そのあたりは詳しくせめていらっしゃるでしょうが。
『江戸名所図会』は、15コマに図絵も掲載されていまして、そちらでは現代とあまり変わらない本殿配置がみられます。
「八幡社」はあるのですが、「松尾神社」は書いてなかったなぁ……。
あ、さすがガイドブックと思ったのは、「釣樟の歯木と、紙にて製する所の弓箭を以て、此地の土産とせり。」ですね。
やっぱりお土産は大事です。
神社の「御神徳」の立て札にも、「一、御本宮(加賀一の宮)の修験者の一人が荒業に耐え成し遂げたと伝えられるむし歯(特に痛みを鎮める)に関するもの
昭和初期迄お守りに房楊枝を添えたものが参拝者に配られていました。」とありました。
「釣樟」というのは、
○こちら===>>>
↑によれば、
「落葉低木で、淡黄色の花が3月から4月に咲きます。材は香油成分を含んで香りがよく、この木で作った楊枝は「くろもじ」と呼ばれています。民間で、根皮を水洗いして乾燥させ、煎じ液でていんきん・たむしなどに外用します。」
だそうです。
「歯痛に御神徳=楊枝」という、実用的でもあるお土産だったんですね。
もう一つの「紙で作った弓矢」というのは、元々の地主神である「八幡神社」にちなんだものでしょう。
何しろ「源義家」は「八幡太郎」、弓の名手として知られていましたから。
ま、お猫様には関係ないことですが。
結構な猫猫ゾーンで、大晦日にほっこりできました。
あ、「東京十社」の一つを、はからずもクリアしていました。
ようやく2014年の記事が終了。
2015年は、神社仏閣巡りの頻度を落としていますので、だんだんとリアルタイムの記事に近づくかと思いますが、引用に案外時間がかかるので、のんびり参ります。