10/31。
「率川神社」の参拝を終え、すでに夕方、駆け足で向かったのは「漢國神社(かんごうじんじゃ)」「林神社(りんじんじゃ)」。
○こちら===>>>
隠れメインは、↑の「饅頭の祖神」である「林神社」だったのです。
通りから奥まったところにあって、不思議な感じです。
「漢國神社本殿
三間社流造・檜皮葺で、要所を極彩色に塗装した美しい建物です。桃山時代の形式・手法を示し、1610(慶長15)年の神社文書に建築部材の明細を記したものがあるので、その頃の建立と推定されています。
茶糸威胴丸具足
徳川家康が1614(慶長19)年に参詣して奉納したものと伝えられています。徳川家に仕えた奈良の甲冑師岩井与左衛門の作と考えられ、近世に奈良で盛んに作られた甲冑の代表的作例として貴重です。境内の鎧蔵に納められていましたが、今は奈良国立博物館で保管されています。」(適宜抜粋)
狛犬さん。
実はさらに御随神もひっそりといらっしゃるという。
なかなか厳重です。
しっかりした造りを間近で見ることができます。
「八王子社」。
中島善五郎という人の歌碑。
「葵神社」。
こちらが、饅頭の祖神「林神社」。
狛犬さんとともに、饅頭が左右に……シュールだ……。
恵比寿様も大黒様も、饅頭を食べる……という図でしょうか。
「饅頭塚」。
……「○○塚」って、使い古した道具なんかを供養するためのものだと思うのですが、饅頭は食べてしまえば残りませんよね……え、埋めたの?
○こちら
↑によれば、
「後村上天皇に献上すると饅頭をいたくお気に入り、林浄因は宮女を賜ったとされています。その結婚式に紅白の饅頭を各所に配り、子孫繁栄を願いその一組を埋めたとされるのがこの「饅頭塚」とされています。」
という話が伝わっているようです。
埋めたんですね。
その他「源九郎稲荷神社」もありました。
さて、公式HPによれば、
○こちら===>>>
「<漢國神社祭神三座>
一、鎮座由来
当神社は推古天皇の元年二月三日(今より約千四百年前)、大神君白堤と申す方が、勅を賜いて園神の神霊をお祭りせられ、其後元正天皇の養老元年十一月廿八日、藤原不比等公が更に韓神の二座を相殿として祀られたのが漢國神社であります。 古くは春日率川坂岡社と称しました。
↑この由来は、
○こちら===>>>
「率川神社」〜奈良めぐり - べにーのGinger Booker Club
↑で紹介しました「率川神社」のものと通じています。
公式HPでも紹介されています文献をいくつかご紹介します((引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、
○こちら===>>>
↑の23コマ、「大三輪鎮座次第」より
「春日三枝神社
媛踏鞴五十鈴姫命也、小墾田宮御宇天皇(※推古天皇)御世、大三輪君白堤承勅立社於春日邑率川坂岡両處、奉斎媛踏鞴五十鈴姫命、大物主命也、平城宮御宇天皇(※聖武天皇)御世、益造両社之相殿爲三座、又始行三枝祭、是大三輪氏長奉仕之」
(※部分ブログ筆者)
↑これは「率川神社」の由来ですが、その中で「率川坂岡」の両所に、「媛踏鞴五十鈴姫命、大物主命」を祀ったとなっています。
公式HPによれば、「古くは春日率川坂岡社」とありますので、この「坂岡」の方が今の「漢國神社」だったのではないか、と考えられています。
続いて、165コマ、「大倭神社註進状并率川神社記」という文献には、
「園韓神社三座
大神氏家牒曰、養老年中、藤史亦建園韓神社奉斎焉、神名帳云、宮内省坐神三座並名神大、月次、新嘗、園神社一座韓神社二座、旧記云件神等素戔嗚尊之子孫、守疫神也、伝聞、園神者大己貴命之和魂大物主神也、按此神、園花飛散之時発疫病、守護之鎮止之、仍云園神歟、園殖草木之處也、集解所謂三枝和霊祭云当社之事、又大物主神可謂素戔嗚尊之孫、韓神者、大己貴命、少彦名命也、両神経営天下焉、顕見蒼生、則定其療病之方、或抄云、大己貴命少彦名命、神託曰、昔造葦原中国訖、去往東海、今爲済民吏亦来帰、因以號両神云韓神歟、古語、外国云韓也、又按、神皇産霊尊曰、少彦名命、與大己貴命焉兄弟、如此、少彦名命可謂素戔嗚尊猶子」
↑とあります。
ここでは、「大神君白堤」が祭祀を始めた、とは書かれておらず、「藤史」つまり「藤原不比等」が奉斎したとあります。
この前段では、「率川神社」についての記述があるので、この文献の筆者の認識としては、「率川神社」→「園韓神社」(今の「漢國神社」)、という順番で創建されたということなのでしょう。
また129コマ、「大神分身類社鈔並附尾」という文献では、
「率川狭加岡神社一座 添上郡、旧本神名帳云、鳴雷神社八座、率川坐大神御子神社三座、狭加岡神社、率川阿波神社流布鳴雷神社、爲一座狭加岡神社爲八座説加字今随旧本耳、率川阿波神社一座、事代主命云狭井御子神
大物主命 現在三座、相殿合祭大己貴命少彦名命也」
↑とあります。
「率川狭加岡神社」がつまり「春日率川坂岡社」、今の「漢國神社」ということを言いたいようです。
ところで「率川坐大神御子神社」(「率川神社」)と、「率川阿波神社」は『延喜式』神名帳に掲載されていますが、「春日率川坂岡社」というのは載ってないんです。
ただ、「狭岡神社八座」という名前が掲載されています。
「大神分身類社鈔並附尾」では、この「狭岡神社八座」が「率川狭加岡神社」ではないか、と書いているようです。
○こちら===>>>
↑は少々難のある文献ですが、こちらの161コマには、
「狭岡神社八座……(略)○祭神詳ならず○法蓮属邑佐保田に在す 大和志○國人北浦定政云、狭岡社は奈良林小路漢國社なるべし
↑という説を紹介しています。
ただ、であれば「漢國神社」は、いわゆる「式内社」ということになるはずですので、それを喧伝してもいいんじゃないのかと思いますが……。
○こちら===>>>
↑の49コマには、
「狭岡神社 佐保村の内佐保田にあり
所祭 若山咋神 若年神 若沙那賣神 彌豆麻岐神 夏高津日神 秋比賣神 冬年神 冬紀若室葛根神
当社鎮座不詳」
↑という記事があります。
「式内社」の「狭岡神社」の御祭神を見ると、明らかに「漢國神社」のものとは異なります(とはいえ、この御祭神もなんというか、怪しさ満点ですが)。
また、45コマには、
「漢國社 東面 在漢國町
所載 園神 一座
韓神 二座
当社旧號率川坂岡神社の義ハ推古天皇元年御鎮座元正天皇養老元年藤原不比等所被再建也……(略)……其後治承四年十二月廿八日依兵火炎上す興福寺一乗院覚昭大僧正依奏聞文治四年率川坂岡の両社御造営あり率川及び阿波坂岡の三所は共に一郷の神地也云々同社境内に白雉遺跡の石塚あり社伝に云元正天皇養老五年百済貢白雉同七年春二月贈進於当社此雉神亀元年九月入屏其所に石塚を建と云(以下略)」
↑とあります。
明らかに、「狭岡神社」と「率川坂岡神社」が別のものととらえられています。
この辺りは諸説ある、ということになるのでしょうか。
○こちら===>>>
↑の44コマには、
「漢國町 一作韓 当郷漢國明神大鳥居之内家敷終る十二三宇
当町往古民家あらず即漢國神社之領内馬場前也
古老曰当町ハ慶長年の末寛永の頃に民家建つ元社地なるを犯すもの可慄々々と云々漢國神社 右坐 幹神 大物主神
中坐 園神 大己貴命
右坐 韓神 少彦名命
当座一殿三坐園神韓神是也
元要記曰漢國社元初崇峻天皇六年二月癸酉朔春日里率川旧庭社壇一所宮柱立云々
大三輪神鎮座次第曰推古天皇元年二月三日癸酉鎮座於春日率川坂岡使大神白堤之祭焉
大神氏家牒大三輪神三社鎮座次第曰第四十四代元正天皇養老元年十一月廿八日甲子左大臣藤原不比等所営作也云々
元要記云治承四年十二月爲平重衡回録文治四年四月社殿建立建久元年九月廿二日正遷宮云々
当郷は春日坂岡と号す亦率川坂之上亦率川坂本是也当社古今興福寺支配加行之衆僧ここに参詣す祭礼九月廿一日
御田屋敷北側中程に在元要記云当社御田殖ハ正月上酉日自宝亀年中始其儀式有大鳥居間於白雉御田東照大権現君大阪御出陣之時甲冑一領当社に御奉納于今社壇殿下にあり」
↑という記事があります。
「漢國町」は、「漢國神社」があったからそう呼ばれるようになったようです。
さてさて、たびたび登場する「園神・韓神」というお方ですが、↑であげた『神社覈録(上編)』の48コマに、
宮内省は音読也……(略)……今は廃亡せり。拾芥鈔百官部に、宮内省宮城内、太政官東、大炊寮西、また同鈔宮城部指図に、太政官東、大炊寮西、■院北にあり。○式三、臨時祭名神祭二百八十五座、中略園神社一座、韓神社二座、已上坐宮内省、古事談に、園韓神社者、本自坐大内跡、而遷都之時、造宮之使等可移他所云々、于時託宣云、猶座此處奉護帝皇云々、仍座宮内省内云々、速胤按るに、此神の託宣により、いづくはあれど、宮内省を此處に置れしなるべし
園神社
(略)……○祭神詳らかならず韓神社二座
(略)……○祭神明か也相殿の神は詳ならず、……(略)……○今省と共に廃亡せり○古事記神代記に、大年神娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子大国御魂神、次韓神、次曾富理神、内侍所御神楽式には、韓神の事素戔嗚尊子也云々といへり
古事記伝十二の巻に、此二神を如此崇祭り給ふ由緒は、江次第頭書に、園韓神口伝云、伴神、延暦以前坐此、遷都之時、造宮使欲奉遷他所、神託宣云、猶座此處奉護帝王云々、仍鎮座宮内省、此由古事談にも見ゆ、とある是なり、さて常に園韓神と一ツに連ねて申しならへるとは別にても有りなむか、彼宮内省なるは、上古よりたまたま二神並て鎮座故に、都遷されて後、常に連ねて申しならへるにこそ 其故は、若此曾富理神ならば、韓神の御弟に坐せば、韓園と序次べきことなるに、園韓と序次て、其祭禮も園を先にせらる、且彼は園とのみ何の書にも見えて、曾富理と云ることなく、又曾能と曾富理と、言の通ふ由も無ればなり、若くは韓神二座のうち一座や、曾富理神にてはあらん、又神楽歌に韓神あり、云々と云り、梁塵愚案抄に、韓神は宮内省に坐、韓神二座を申侍るにやと宣へり、速胤按るに、宣長が園神は、曾富理神にはあらず、曾富理神は、韓神二座のうちの、一座と考へられたるは然るべし、また曾富理神は、韓神の御弟に坐せば、韓園と序次べきなるをといへるはいかが、都て弟神を先にし、兄神を後にして祭れる事多し、近く生島巫両神の弟なる、大嘗会斎院にては、両神に超越して、高御魂神の次に祭りたり、大和志に、韓神祠在南都漢國町云々と云り、ここの韓神と同神なるべし、帝都の咫尺に必坐て、守護り奉らるる事、自然の値遇なる事、深き由緒こそあらめ」
↑という記事があります。
「園神・韓神」という神は、律令制下の「宮内省」でお祭りされていた神、とされています。
「園神」の方はよくわかりませんが、「韓神」は、「古事記神代記に、大年神娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子大国御魂神、次韓神、次曾富理神、内侍所御神楽式には、韓神の事素戔嗚尊子也云々といへり」とあります。
「素戔嗚尊」の神統譜の中に含まれる神で、大雑把に言ってしまえば御子神でもあるので、「大己貴命」と同一視するのもわからないではないのですが。
しかし、「韓神」の兄神には「大国御魂神」という、明らかに「大國主/大己貴/大物主」系の神がいらっしゃいますけどね……。
「漢國神社」の「園神一座・韓神二座」と、「宮内省」の「園神一座・韓神二座」が一致しているのが面白いのですが、こんなの合わせるのなんて簡単なことですし。
公式HPでは、「清和天皇の貞観元年正月二十七日、平安城宮内省に当社の御祭神を勧請して皇室の御守護神とせられたのであります。」と書いているくらいなので、むしろ「漢國神社」のほうが古いだろう、と言いたいようですし。
にしても、いつから「漢國神社」となったのか……ということもわからないくらい古い話なのですね。
「園神・韓神」の「園・韓」が、「國・漢」に変わった、という説もあるようです。
……「韓」と「漢」はまあいいとして、「園」と「國」は無理がないですかね?
もしそうなったなら、御祭神も「國神」「漢神」にすればいいのに。
読み方だって「漢國(かんごう)」ですから。
こんなの、普通の読み方じゃないでしょう。
あ、「国府宮」は「こうのみや」だから、「国(こく→こう)」はあり得ますか?
そうすると、「漢國」という字をあてたのが先、それが「かんこく」と読まれていたのが変化して「かんごう」……「ご」ってにごりますか?
「かんこう」じゃだめでしょうか?
うーむ……例えば、「漢郷」ならまだわからないでもないですけれど(「郷」をいつから「ごう」と読んでいたのか、わかりませんが)。
さすが奈良、1400年の都、さっぱりわかりません。
さてさてさて。
もう一つの「林神社」についてです。
公式HPによれば、
「奈良市漢國町、漢國神社の境内に鎮座の林神社は、わが国へ初めて饅頭を伝えた林浄因命を斎きまつっております。
祭神、林浄因命は中国浙江省西湖の人、林和靖の末裔で、嘉元年間に京都建仁寺三十五世龍山禅師が入宋された際、師弟の契を結び、貞和五年禅師に随従して来朝された方です。
その後、奈良に居を構え、故国で習い覚えた饅頭を作られました。中国には肉饅頭、菜饅頭、餡饅頭などがありましたが、わが国で餡の入ったものの創始であります。
奈良の人々には、初めて口にするこのおいしい饅頭が人気を呼んで店頭には市をなす盛況で、日に増して繁栄しました。この店は漢國神社々頭、林小路にありました。
(略)
昭和五十三年九月二十日、社前拡張を機として、紀州の橘本神社より御神影を賜り、菓祖神田道間守命を合祀致しました。これで、饅頭・菓子の祖神の社として弘く仰がれることになった次第であります。」
↑とあります。
また、
○こちら===>>>
↑の122コマから、ちょっと長いですが引用してみます。
「饅頭なる名称は我国菓子界の口碑に依るに今を去る一千六百九十余年前蜀の国臣にして其名四海に轟きたる智仁勇兼備抜群の誉高き軍師諸葛孔明が乱国時代に数多の戦歿者の霊を慰めんがために粘土を捏ね丸めて彼等が萬人の頭に擬し以て供養を修したるに起縁したるものにて爾後漸次食物に形容進化したるものなりと伝ふ。然れば今日の饅頭たる文字は所謂萬頭即ち圓い土塊が食物に改造せられしに伴はれ上字の萬を饅に転じたるものと思惟せらる。其饅頭が我国に渡来伝播したるは今より五百八十余年以前延元二年後醍醐帝の御代無二の忠臣楠正成公の戦死せられし翌年に当る有名なる建仁寺第二世龍山禅師が宋の国よりの帰途、附従して来朝帰化せる宋の国人林和靖の末裔にて林浄因なるものが、南都に於いて奈良饅頭を製したるに依るものなるが当時の饅頭は極めて粗品にて今日の田舎饅頭の如き麺粉種の上皮や、大仏餅粟餅の如く搗餅蒸糯を種皮として其内部の蒸栗、茹赤小豆等に甘葛や或は甘菓を和し尚食塩にて僅に風味を附けたる餡を詰めたるものにて其後年を経て、世が進み甘酒饅頭の発明とはんりたるが、而し砂糖輸入以前の製菓の風味は殆ど論ずるに足らず、只主として其形状或は意匠に依り僅に料理と異なる特點を示したるに過ぎず、而して饅頭の形状は元来人の頭に擬製したるものなる故に、維新前は主として圓き腰高形を貴びたるが現今は種々の形態に変造され就中楕圓形最も流行し其他栗饅頭の如き扁平物や米饅頭の如き両端の尖りたるもの等あれど要するに現今菓子界の通語にて饅頭と称するは頗る広意義のものなり之れを容易に解釈すれば諸種の捏物を上皮とし其内部に餡を包みて作りし菓子の総称なり尚俗に餅菓子・蒸菓子といふ種類の八分は概して饅頭の分身なるが、其種属は生菓子にて生菓子種属とは餡菓子類を一括したる名称煎餅或は乾菓子類と其風味を異にし多くの菓子種類中に於て最も口当り良く且つ風味ゆかしきものなるため世人の嗜好を博し賞味珍重せられるものなり。」
「饅頭が我国に渡来伝播したるは今より五百八十余年以前延元二年後醍醐帝の御代無二の忠臣楠正成公の戦死せられし翌年に当る有名なる建仁寺第二世龍山禅師が宋の国よりの帰途、附従して来朝帰化せる宋の国人林和靖の末裔にて林浄因なるものが、南都に於いて奈良饅頭を製したるに依る」……ええと、「龍山禅師」についてきたのが「林和靖」なのか「林浄因」なのかが今ひとつわかりませんが、ともかく「林神社」は「林浄因」を祀っています。
どうして奈良に来たんでしょうね……。
ん……?
「この店は漢國神社々頭、林小路にありました。」
……え、ひょっとして、林さんのお店があったから「林小路」?
「漢國神社」の周辺って、そもそも大陸の人とか半島の人とかが住んでいたのでは?
だから、「漢(韓)國神社」なのでは?
なーんて、小学生でもわかるような話だったら、謎でもなんでもないですね。
(-.-)y-.", o O
さてさてさてさて。
私の住む愛知県には、
○こちら===>>>
「萱津神社」 - べにーのGinger Booker Club
↑「漬物祖神」の神社があったりします。
御朱印目当てに参拝しているわけではないのですが、「萱津神社」の御朱印をいただいた身としては、「饅頭の祖」の神社の御朱印がどうしてもほしくなりまして。
奈良めぐりのルートを考え、ぎりぎりなんとか間に合えばいいなぁと見当をつけて参拝し、授与所に行ってみると時間外……あと10分くらい早ければ……いや、参拝前に授与所に寄っていれば……。
というわけで、奈良めぐりで一番悔いの残った参拝になりました。