べにーのGinger Booker Club

神社仏閣ラブ(弛め)

「伊奈波神社」(続々)

さてさて。

 

○こちら===>>>

「伊奈波神社」 - べにーのGinger Booker Club

「伊奈波神社」(続) - べにーのGinger Booker Club

 

続きです。

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 岐阜市案内 : 附・長良川鵜飼記

 

↑ちょっと新しい文献ですが(1915年)、なかなか詳しい記述があったので。

20コマです(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。

 

○ 伊奈波神社
稲葉山の西麓即ち金華、権現の山峡にあり。土地高ければ眺望よく、花時には櫻花興を添え、夏には深緑蔭をなして涼風を送り、月雪共に好景幽静の地なり。抑本社は岐阜市の鎮守産土神にして、県社なり。創立は第十三代成務天皇十四年二月  紀元八〇四年  勅して美濃国厚見縣を御敷地とし、稲葉山の北長良川の左岸椿原と称する地に社殿を建て、特に大命ありて因幡大神を奉崇せらる。降て後奈良天皇の御代天文八年  紀元二一九九年  に至り、齋藤秀龍といへる者稲葉山築城の時、今の地に遷座し奉れるなり。祭神稲葉国造祖彦多都彦命を主神とし、日葉酢媛命、五十瓊入彦命の三柱を奉祀し、尚ほ相殿に物部神社を合祀せり。
主神彦都多彦命は亦の御名を丹波道主命と称す。開化天皇の第三皇子日子坐命の第七の御子に座せり。崇神天皇の十年大彦命及其子武渟川別命彦五十狭芹彦命と共に印綬を受けて将軍となり、丹波地方に赴き不廷を征定し土民を綏撫し給ひ、亦丹波川上摩須郎女を娶りて一男五女を生み給ふ。男を朝廷別王といひ、五女は日葉酢媛命、渟葉田瓊入媛、眞砥野媛、薊瓊入媛、 孰れも朝宮に入らせ給ふ  及び竹野媛なり。彦多都彦命成務天皇の御代に稲葉国造  今の因幡国也  となり給ひ、御弟神大根王三野国造  今の美濃国  となる。是れに依て因幡美濃は実兄弟の国なり、又稲葉郡内に伊波乃西社あり、日子坐命を祀る、今岩村大字岩田に日子坐命の御墓ありて、宮内省諸陵寮の管する所たり。而して神大根王は実に三野国造の祖なり。彦多都彦命は晩年職を譲り、美濃国には御父命、御弟王並に御妹媛御井津媛命  郷社御井神社祭神なり  を始め、ご親族の多く坐せば因幡国より随従の臣僚五百余騎を率ゐて御下向あり、暫く舘舎を建てんとて従臣縣宿禰倫満をして舘舎の地を相せしめ給ふ。倫満諸所を巡視し帰りて復命す、此川上に美地あり椿原と曰ふ、山川秀霊宜しく此処に舘舎を経営し給はんにはと、命即ち部民に命じて舘舎を経営し給ひ、縣氏の女を娶りて後妃となし二王子を生み給ふ。此二王子は今岐阜市上加納に鎮座せる橿森神社及縣神社の祭神にして、御名は市隼雄命  橿森神社、擁列根命  縣神社に坐せり。斯くて彦多都彦命には成務天皇十三年二月十六日を以て遂に薨御し給ふ。天皇訃を聞き哀悼止み給はす、生前の勲功を嘉せられ特に国葬を以て厚く葬り給ひ、猶ほ翌十四年命の薨御当日を以て、御在住地たりし椿原に社殿を創建せしめ、御子孫の御続きを以て日葉酢皇后及び五十瓊入彦皇子の二柱を合祀せられ、大命を下して因幡大神の神号を賜へり。此時より神の御名に因みて山を因幡山、川を因幡川と名付けしとぞ。
次に祭神日葉酢媛命は主神の御長女にして、垂仁天皇十五年八月立て皇后となり、五十瓊敷入彦命景行天皇、大中姫命、大中津彦命、倭姫命、稚城瓊入彦命を生み給ひ同三十二年七月六日崩御し給ふ。次に祭神五十瓊敷入彦命垂仁天皇第二皇子にして、天性聡敏幼より雄略を好み、長じて謹厚神祇を崇重し給へり、殊に武備に御志甚だ篤く、夙に儲位にも坐ましを親ら父帝に請ひて弓矢を得、兵器を掌握し給へり、又茅渟菟砥川上宮に居て剣一千口を作り、之を石上神宮に蔵む、嘗て詔を奉して神宮の神宝を掌り給ふ、命既に武を天下に布き大に望を属せらる、就中武を以て国を鞏め、傍ら農事を奨励し給ふ、故に天皇其の功を嘉み賜ふに楯縫部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部合せて十個品部を以てせらる、命即ち之を率ゐて工芸を興し、又詔を奉じて河内国に往き高石池、茅渟池を作る、又農を天下に勧めん爲め、河内を初め諸国を巡行して池溝を開鑿し、其数八百余に及び、普く灌漑を便にし、或ひは洪水を防がんとして堤防を築設する等、農武経国に就きて偉大の御功績あり、而して終に垂仁帝九十三年二月廿四日に至り神去り給ひぬ。
物部神社は往古より現在の地に鎮座まして、成務天皇の御代の創建なりと言伝へたり。祭神美濃国造遠祖物部大連十千根命を祀れりこは祭神の御孫臣賀夫良命御祖父の高徳を敬慕して、此地に奉祀し給ひしものなり。
(略)
社前石鳥居の南に一小渓を隔てて摂末社及故長谷部岐阜県令の紀功碑あり、二の鳥居を過ぐれば左に社務所、神輿庫、祭器庫、末社等甍を並へたり。石神橋を越へて石階段に至る、石階段の上にはこれ拝殿の址なり、左に明輪庫、楯縫部以下十個品部神社及仮神楽殿、絵馬殿、手水所及烏帽子岩と称する神石あり、更に石階段を上ること十数歩、神門に到る、近時の再築にして秀霊森々たる樹木と翠白相映射し、幽遂深遠自ら襟を正さしむ。

 

……あれ、主祭神「稲葉国造祖彦多都彦命」になっています。

この方は、

 

「主神彦都多彦命は亦の御名を丹波道主命と称す。開化天皇の第三皇子日子坐命の第七の御子に座せり。崇神天皇の十年大彦命及其子武渟川別命彦五十狭芹彦命と共に印綬を受けて将軍となり、丹波地方に赴き不廷を征定し土民を綏撫し給ひ、亦丹波川上摩須郎女を娶りて一男五女を生み給ふ。」

 

ということで、「崇神天皇」期の四道将軍のお一人だったのですね。

先代旧事本紀』には、

 

「稲葉国造

志賀高穴穂朝の御代(※ブログ筆者注:成務天皇に、彦坐王の児彦多都彦命を国造と定め賜ふ。」

 

とあります(『歴史読本 2008年12月号』より引用/以下同様)。

岐阜市案内』が、『先代旧事本紀』から引いたのか、社伝から引いたのかはわかりませんが、そういった認識はあるということですね。

古事記』では、丹波国に遣わされたのは、「彦多都彦命」の父である「彦坐王」となっていますが、この一族が丹波に勢力を持っていたということなのでしょう。

で、

 

「御弟神大根王三野国造  今の美濃国  となる。是れに依て因幡美濃は実兄弟の国なり」

 

弟である「神大根王」が美濃国の国造となった、ということで、稲葉国と美濃国は「兄弟の国」だと言っているわけです。

古事記開化天皇記によれば、「神大根王」は「八瓜入日子王」とも呼ばれ、

 

神大根王は、三野国の本巣国造、長幡部連の祖」

 

と書かれており、『先代旧事本紀』には、

 

「三野前国造

春日率川朝(※ブログ筆者注:開化天皇)に、皇子彦坐王の子八爪命を、国造に定め賜ふ。」

 

とあります。

稲葉国を治めていた「彦多都彦命」は、

 

「彦多都彦命は晩年職を譲り、美濃国には御父命、御弟王並に御妹媛御井津媛命  郷社御井神社祭神なり  を始め、ご親族の多く坐せば因幡国より随従の臣僚五百余騎を率ゐて御下向あり、暫く舘舎を建てんとて従臣縣宿禰倫満をして舘舎の地を相せしめ給ふ。倫満諸所を巡視し帰りて復命す、此川上に美地あり椿原と曰ふ、山川秀霊宜しく此処に舘舎を経営し給はんにはと、命即ち部民に命じて舘舎を経営し給ひ、縣氏の女を娶りて後妃となし二王子を生み給ふ。」

 

父や弟など一族が多くいる美濃国に、家臣を連れてやってきた、ということです。

そして、成務天皇十三年二月十六日」にお亡くなりになり、「猶ほ翌十四年命の薨御当日を以て、御在住地たりし椿原に社殿を創建」して、「大命を下して因幡大神の神号を賜へり。此時より神の御名に因みて山を因幡山、川を因幡川と名付けしとぞ。」ということになったようです。

 

……ええと、そうすると、美濃国造だったとされる、弟の「神大根王」の立場はどうなっちゃうんでしょうか?

しかも、「日葉酢皇后及び五十瓊入彦皇子の二柱を合祀せられ」というように、娘であり「垂仁天皇」の皇后となった「日葉酢媛」と、その子である「五十瓊敷入彦命」も祀られちゃっているとなると、ますます立場なしです。

もはや、「彦多都彦命」が美濃国造だったんじゃないか、と思ってしまうほどの扱いです。

ちなみに、元々の「伊奈波神社」は現在地にはなく、「天文八年  紀元二一九九年  に至り、齋藤秀龍といへる者稲葉山築城の時、今の地に遷座し奉れるなり。」ということです。

「齋藤秀龍」という人は、「齋藤道三」のこと、らしいです。

 

では、式内社でもあるところの「物部神社」はというと、

 

物部神社は往古より現在の地に鎮座まして、成務天皇の御代の創建なりと言伝へたり。祭神美濃国造遠祖物部大連十千根命を祀れりこは祭神の御孫臣賀夫良命御祖父の高徳を敬慕して、此地に奉祀し給ひしものなり。」

 

ということで、元々現在地にあったのは「物部神社」だ、と伝わっているんですね。

「あれ?」と思われた方もいらっしゃると思いますが、ここにも美濃国造遠祖物部大連十千根命」と、美濃国造が出てくるんですね。

古代の話なので整合性がなくてもかまわないのですが、『先代旧事本紀』には、

 

「三野後国造

志賀高穴穂朝の御代に、物部連の祖出雲大臣命の孫臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)を、国造と定め賜ふ。」

 

 

とありまして、どうも昔は美濃国は二つの国に分かれていたのではないかと思われるのです。

先代旧事本紀』は、物部氏系の文書ですので、自分たちの勢力を大げさに書いているのではないか、と思われる部分と、一方で古代に物部氏の勢力が朝廷の中でどのくらいのものだったか、の断片くらいは語っているのではないか、と思われる部分があります。

先代旧事本紀』では、「臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)」の祖父を「出雲大臣命」としていますが、『岐阜市案内』の方には「物部十千根命」としています。

あるいは、「物部十千根命」が、「垂仁天皇」の命令で出雲の神宝を検分しにいっていることから、「出雲大臣」としているのかもしれません。

斎藤道三」が、「伊奈波神社」を遷すまでは、「物部神社」と「伊奈波神社」は並立していたということになります。

 

 

○こちら===>>>

国立国会図書館デジタルコレクション - 岐阜市史

 

↑こちらも昭和3年の発行ですが、かなり詳しく「伊奈波神社」について載っていますのでご紹介を。

24コマです。

 

美濃国神名帳に見える正一位伊奈波大神は、市内伊奈波通り一丁目に鎮座まします縣社伊奈波神社であつて、式内物部神社を合祀して、左の四座を祭神として居る。

一、伊奈波神社祭神
彦多都彦命  一座
亦名 丹波道主命
日葉酢媛命  左相殿  一座
五十瓊敷入彦命 右相殿  一座
一、物部神社祭神
物部十千根命  一座

社伝に依ると、成務天皇十四年、初めて椿原(今の丸山)に神社を創立し、丹波道主命を主神とし、五十瓊敷入彦命、日葉酢媛命を相殿に合祀した。後壬申の乱に、天武天皇戦捷を此神に祈り給ふてから、神邑として厚見郡を上り、美濃国第三の宮と称せられるに至つたとある。
伊奈波神社の神階に就ては、仁明天皇の承和十二年秋七月、美濃国司等の解状に依つて、美濃国厚見郡無位伊奈波神に、従五位下を授けられたのを初めとして、 続日本後紀  (略) 美濃神名記に文永四年乙卯沽洗二日、従二位藤原朝臣経朝の書いた伊奈波神社の額に、正一位と記してあると云つて居るところを見ると、社伝の如く、正一位まで進階があつたものと信ぜられる。又、伴信友の神社私考や平田篤胤の古史伝に依つても、天慶以後建治に至るまでに、八ヶ度に渉つて、天下諸神に一階の宣下あつた由を載せて居るから、伊奈波大神の正一位説も、稍根拠ある伝説であると云つてよいであらう。

然るに、伊奈波神社の沿革に就ては、文献の徴すべきもの殆どなく、殊に、鎌倉時代以後に於ける、当社の状況に就ては、何等の史料をも見出し難いが、唯、足利時代の中頃、萬里居士の書いた、梅花無盡蔵に載せてある、明応五年三月三日第三宮因幡大菩薩神事再興の辞は、当代に於ける神社の荒廃を物語る、唯一の貴重なる資料と謂ふ可きものである。其文に依ると、昔は厚見郡内の者は、悉く祭儀を勤めたものであるが、中古以来、郡内の平民大半は、良家の子と称して神祖の家を蔑にし、唯、加納、井口、両郷の者のみが、僅かに、祭儀を勤めて居る有様であつた。此故に、因幡大神は、人に託して宣ふに、粗末なる祭典を以てして、聊かながら神饌の供御はあるけれども、什器は備らず、階前の塵積つても、之を仰ぎ見る人は殆どない。従つて、殿舎に苔は茂り、巫祝の歌も疎略に流れ勝となり、社頭の零落は唯今より甚しきはないけれども、此由を訴ふるに、所なき有様であるてふ辞を以てせられた。此神夢の霊威を拝して、巫官は府に告げたけれど、府も只之を黙止する計りであるから、茲に、厚見郡内の富民に計り、前例に従つて、祭礼の旧儀を考へしめ、永く、是を保持して怠る事なからしめ、是を以て彌、国家の鎮護を爲さしめんとするものであると云つて居る。
此復興が奈辺まで行はれ、何時頃迄続いて保持されたものであるかは知る由もないが、其後四十餘年を経て、天文八年に、美濃守護代であつた齋藤秀龍が台頭して、稲葉山に築城するに当り、此丸山から、現今の井之口谷に、社殿を移したものだと、伝へられて居る。  木曽名所図会、濃陽志略、新撰美濃志(略)
伊奈波神社の合殿にまします物部神社に依ると、其祭神物部十千根命としてある。延喜式神名帳に、美濃厚見郡物部神社とあり、又美濃国神名帳に、厚見郡十八座の内、従五位下物部明神と見えて居るのは、此社である。聖武天皇神亀元年、射園神に、美乃地一戸を充て、神封とするとあるは、  神抄格勅符  此社であらう。如何となれば、続日本紀に依ると、物部用善に物部射園連姓を賜ふとあるから、物部氏の同族に、射園連なるものがあり、従つて又、射園神と称せられるに至つたものであらうと、想像されるからである。  神祇志料  蓋し、国造本紀に見えた如く、三野国後国造は、物部十千根命の孫、臣賀夫良命が、初めて封ぜられたのであるから、従つて其一族が祖先を敬仰して、国府の地、厚見郡上加納の附近に、物部神社を創設するに至つたのである。
然しながら、鈴鹿速胤の神社覈録に依ると、社説として、物部神社祭神に、五十瓊敷入彦命、淳熨斗媛命、日葉酢媛命、及び物部十千根命を挙げて居るが、此説は五十瓊敷入彦と物部十千根命との関係を了解したならば、如何にも首肯し得られる説と思はれる。如何となれば、此両者の関係は、垂仁天皇紀三十九年十月の條に見えて居る如く、五十瓊敷入彦命は、茅渟菟砥川上宮に居まして、剣一千口を作り、之を大和石上神宮に蔵め給ふたが、後五十瓊敷入彦命をして、石上神宮の神宝を掌らしめた。然るに、其後年を経る事五十餘年にして、命既に老齢に及び、神宝を管理する事能はず、妹大中姫命をして、其管理を行はしめんとせられたが、大中姫命は婦人の故に其任にあらずとして辞退され、大連物部十千根に授けて治めしめられた。かくして、此後永く、物部連が石上神宝を掌るに至つた由縁であると云つて居る。  日本書紀  此両者には、如此く、主従の関係があつた。此故に、当国に於ける物部氏の一族が、其祖先を慕つて神社を創設する以上、其主従関係にある五十瓊敷入彦命、及び妃淳熨斗媛命、御母日葉酢媛を奉祀するも、亦当然の事であるから、従つて、神社覈録記載の社説が伝説として、根拠あるものと認めて差支ないと思はれるのである。」

 

どうやら「伊奈波神社」は、

 

足利時代の中頃、萬里居士の書いた、梅花無盡蔵に載せてある、明応五年三月三日第三宮因幡大菩薩神事再興の辞は、当代に於ける神社の荒廃を物語る、唯一の貴重なる資料と謂ふ可きものである。」

 

と、多くの神社仏閣が辿ってきたように、荒廃していたようです。

領民がお上に訴えても無視されていたので、

 

「厚見郡内の富民に計り、前例に従つて、祭礼の旧儀を考へしめ、永く、是を保持して怠る事なからしめ、是を以て彌、国家の鎮護を爲さしめんとするものであると云つて居る。」

 

郡内の富裕な人たちが祭礼を復活させた、とのことです。

物部神社」の方は、

 

延喜式神名帳に、美濃厚見郡物部神社とあり、又美濃国神名帳に、厚見郡十八座の内、従五位下物部明神と見えて居るのは、此社である。聖武天皇神亀元年、射園神に、美乃地一戸を充て、神封とするとあるは、  神抄格勅符  此社であらう。如何となれば、続日本紀に依ると、物部用善に物部射園連姓を賜ふとあるから、物部氏の同族に、射園連なるものがあり、従つて又、射園神と称せられるに至つたものであらうと、想像されるからである。  神祇志料  蓋し、国造本紀に見えた如く、三野国後国造は、物部十千根命の孫、臣賀夫良命が、初めて封ぜられたのであるから、従つて其一族が祖先を敬仰して、国府の地、厚見郡上加納の附近に、物部神社を創設するに至つたのである。」

 

という部分に、元々「物部十千根命」の孫である「臣賀夫良命」の治めていた場所なので、後の物部氏が創設したのだろうと書かれています。

で、伊奈波神社」がなぜ「伊奈波神社」であり、「物部神社」のままではなかったのか、という説明に、私がよく引用する『神社覈録』を引いて、「物部十千根命」は、「石上神宮」の神宝の管理を、「五十瓊敷入彦命」から譲られているのだから、

 

「此両者には、如此く、主従の関係があつた。此故に、当国に於ける物部氏の一族が、其祖先を慕つて神社を創設する以上、其主従関係にある五十瓊敷入彦命、及び妃淳熨斗媛命、御母日葉酢媛を奉祀するも、亦当然の事である」

 

と書いています。

 

 

 

……じゃ、どうして「伊奈波神社」は「式内社」ではなかったのでしょう?

いえ、『延喜式神名帳』に掲載されることが、=「勢力をもつ神社」ということではないのですが、明らかに皇族が祀られている神社ですから、「式内社」になってもおかしくないと思うのですが……。

うーん……。

ま、古代のことですからわかりません。

もう少し続きます〜。