GWはいかが過ごされたのでしょう。
私は、高野山に出かけた日以外は、風邪で半分以上寝ておりました。
ああ……。
10/31。
そろそろ日も暮れてまいりまして、ぱんぱんになりつつある足をコンビニでしばし休め、向かいましたのは「率川神社」。
○こちら===>>>
「大神神社」の摂社、という扱いなのですね(「大神神社」ははるか南にあります)。
……ええと、幣拝殿になるかと思いますが……何やら安っぽ……げほげほ。
「率川神社(子守明神)
御祭神
玉櫛姫命 向かって右殿(御母神)
媛踏鞴五十鈴姫命 中殿(御子神)
狭井大神 左殿(御父神)
例祭日 六月十七日 三枝祭(ゆりまつり)
御由緒
当神社は推古天皇元年(593年)大三輪君白堤が勅命によって創祀した奈良市最古の神社であります 父母神が御子神を両側から見守るようにして鎮座奉斎していることから子守明神と称えられ安産 育児 息災延命の神様として篤い信仰を集めております
例祭の三枝祭は御祭神に縁の深い笹百合(古名さいくさ)の花で白酒(しろき)黒酒(くろき)の酒樽を飾ってお祭りするところから付けられた名前であり 大宝令(701年)に国家の祭祀として定められている古式ゆかしい神事で疫病除けの祭りとして今に受け継がれ「ゆりまつり」の名で知られています。
本殿は一間社春日造檜皮葺の建物三棟が東西一列に並び南面しており 近世初頭の社殿形式を伝えるものとして奈良県有形文化財に指定されています。
率川阿波神社
例祭日 六月十七日
初戎 一月五日」
神社でいただける縁起から引用すると、
「……御祭神の媛踏鞴五十鈴姫命は、初代神武天皇の皇后様で、聡明にして、よく内助の功をおたてになりました。全国の神社の中で皇后様を主祭神とした神社は数えるほどしかありません。
(中略)
父神の狭井大神は生活全般の守護神であり、福寿の神である大神神社の大物主大神と同じ神様であり、媛踏鞴五十鈴姫命が大物主大神のお子様にあたられることから、率川坐大神御子神社の名で『延喜式』(927)にも記載されています。」
とあります。
『日本書紀』では、「媛踏鞴五十鈴姫命」は、「大物主神」の御子神だったり、「事代主神」と「三嶋溝樴姫」又は「玉櫛姫」との御子神だったり(「神代紀」)、「事代主神」と「三嶋溝橛耳神」の娘「玉櫛姫」との御子神だったり(「神武即位前紀」)します。
『古事記」では、「大物主神」が「三島溝咋」の娘「勢夜陀多良比賣」に産ませた「富登多多良伊須須岐比賣命」又の名を「比賣多多良伊須氣余理比賣」としています。
「……ここにその伊須氣余理比賣命の家、狭井河の上にありき。天皇、その伊須氣余理比賣の許に幸行でまして、一宿御寝しましき。その河を佐韋河と謂ふ由は、その河の邊に山由理草多にありき。故、その山由理草の名を取りて、佐韋河と號けき。山由理草の本の名は佐韋と云ひき。」
ともあります。
社殿が見えますが……何でしょう、この残念な感じは。
商店街のアーケードみたいなのが、なんとも……もう少し、工夫がほしかったように思います。
こちらは瀬社末社。
「摂社 率川阿波神社
御例祭 六月十七日
初戎祭 一月五日
御由緒
この御社は、平安時代の「延喜式」にも記され、御祭神・事代主神は本社の大物主大神の御子神で、俗に恵比須様と申し上げます。社伝によると宝亀二年(771)藤原是公が夢のお告げにより阿波国より勧請したと伝えられています。
一月五日の初戎祭は奈良で一番古い福徳成就の祭で商売繁昌をはじめ生活守護の神様として多くの参拝者で賑わいます。」
……「率川神社」が「大神神社」の摂社なので、こちらは摂摂社になるのでしょうか。
「末社 住吉社
御祭神 上筒之男命
中筒之男命
底筒之男命
気長帯比売命(神功皇后)
御例祭 六月十一日
御由緒
御祭神は伊邪那岐神が禊ぎをした時にお生まれになられた神様です。
大阪・墨江(住吉)に鎮る神と同神であり神功皇后の遠征守護神として申し上げ海洋の神様であります。」
「末社 春日社
御例祭 六月十七日
御由緒
……まだ「住吉社」はわかります、結構遠いので(といっても、海のない奈良に何故海洋神をお祭りしたのかはよくわかりません)。
でも、「春日社」はすぐそこにあるんですけれど……あえて末社にする必要はなんでしょう……「大神神社」>「率川神社」>「春日大社」、というヒエラルキーの誇示なのでしょうか。
「大神神社遥拝所」。
「蛙石」。
そういえば「元興寺」にもありましたね、「蛙石」。
大きさ的には、「蛙」というよりは「蟇(ひきがえる)」、「蝦蟇(がま)」といったところだと思うんですが、「蛙」なんですね。
さて。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編
↑『大和名所図会』からの引用です((引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)。
83コマ。
「率川祠
子守町にあり。土人子守社と呼ぶ。[延喜式]に曰く、率川坐大神御子神社三座云々。或記に曰く、第一開化天皇、第二子守神、第三住吉明神なりとぞ。
[公事根元]に曰く、
率川祭上酉日。此祭は春日祭のあくる日おこなはる。神祇令にのする三枝祭と同じかるべくば四月にてあるべし云々。[令義解]に云く、三枝祭といふは華三枝を酒罇に箭るゆゑ此名ありとぞ。
[撰集抄]に云く、
率川社は春日の御社にはるか引きのけていざがはと申しけん。ぞくの神にしおはしますなり。天下をもらさずはごくみ給ひなんとの御ちかひあり云々。」
「率川阿波神社
西城戸町にあり。[延喜式]に出づ。」
「第一開化天皇、第二子守神、第三住吉明神なりとぞ。」……え?
「冬十月の丙申の朔戊申に、都を春日の地に遷す。是を率川宮と謂ふ」
↑というところからきているものと思われます。
うーん、あまり大したことが書かれていない。
○こちら===>>>
↑の42コマには、
「率川坐大神御子神社 三坐 本子守町西側にあり
中姫踏鞴五十鈴姫命 大物主神之女也
左玉櫛姫命又名三縞溝橛姫号母神
右狭井神 大己貴命荒魂也
(略)
春日社司注進状曰自御寳殿西十五町去坐率川明神所謂三枝明神是也
令義解神祇令第六曰孟夏神衣祭謂伊勢神大忌神謂広瀬龍田二祭也風神祭同上三枝祭謂率川社祭也とあり
神祇令集解曰伊謝川社即大神族類神也大神氏宗定而祭不定者不祭三枝祭古事記曰其伊須気余理比賣命之家在狭井河上と見えて注に其河辺山由理草多在故取其山由理草之名號佐葦河也山由理本名曰佐韋とあり佐紀と佐韋と通ふゆゑに此草の名に依て三枝祭といふ率川坐大神御子神社三座この内一座は伊須気余理比賣にて是大神大物主の女なりと云々」
とあります。
こちらも『令義解』や『古事記』などからの引用で、それほど面白いことは書いてないですね。
○こちら===>>>
↑には(35コマ)、
「率川坐大神御子神社
率川は奈良市の中央を流るる小川なり。その辺に率川坐大神御子神社あり。又春日三枝神社ともいふ。姫踏鞴五十鈴姫命及び大国魂玉櫛姫三神を祀る。推古天皇の朝に始て祠を立てきといふ。子守町にあるが故に土人は子守社と呼ぶとぞ。」
とあります。
うーん……と検索していると、いろいろな説をまとめた素敵文献を発見。
○こちら===>>>
↑なにしろ「大神神社社務所編」ですから。
154コマから「率川御子守神社御本縁」という文献が掲載されていますので、くわしく知りたい方はそちらを参照していただいて、160コマからの引用を。
「率川若宮阿波神社一座 旧跡今在於西城戸坊南側
当初祭神事代主命也
古事記曰大国主神娶神尾楯比賣命生子事代主神、云々 延喜式神名帳上曰、大和国添上郡率川阿波神社一座小
同下巻曰、阿波国阿波郡建布都神社一座小、事代主神社一座小
社伝曰、宝亀二年冬比大納言藤原是公夢云、吾狭井御子神也、汝氏神建布都神社考韴霊剣之神霊也、共住阿波国互有相親、而令皇孫命依召集項吾與建布都神共来臨于帝都歟、建布都神欲留三笠山、於是吾等思居住率川辺、宜敬祭之、是公依夢告造神殿、自阿波勧請之、仍云阿波神也。」
「率川阿波神社」の縁起です。
「宝亀二年」は771年、「藤原是公」は「藤原不比等」のひ孫です。
で、「社伝曰、宝亀二年冬比大納言藤原是公夢云、吾狭井御子神也、汝氏神建布都神社考韴霊剣之神霊也、共住阿波国互有相親、而令皇孫命依召集項吾與建布都神共来臨于帝都歟、建布都神欲留三笠山、於是吾等思居住率川辺、宜敬祭之、是公依夢告造神殿、自阿波勧請之、仍云阿波神也。」がよくわからないんですよね。
「狭井御子神」は「事代主神」、「建布都神」は「フツノミタマノカミ」ということなのだと思うのですが、「フツノミタマノカミ」は「経津主神」と同じと考えられていて、「宝亀二年」には、とっくに「春日大社」にお祭りされているはずなんですが……それとも「フツノミタマノカミ」と「経津主神」は違う、ということを言いたいのでしょうか。
「フツノミタマノカミ」だとしたら、「石上神宮」にあったはずですし……。
何故わざわざ「阿波」から勧請したのかがよくわかりません。
ただ、「阿波」が、中臣氏と同様に神祇祭祀を司ってきた忌部氏の本拠地の一つだと考えると、中臣氏(藤原氏)が「阿波」を抑えた、ということの証拠なのかもしれません(で、斎部広成おじいちゃん激おこぷんぷんで『古語拾遺』を書く、とか)。
その割に、「春日大社」の摂社にせずに、「大神神社」の摂社の摂社にしてある、というのが引っ掛かります……「事代主神」は、国譲り神話では「タケミカヅチ・フツヌシ」の両神に早々に降参しているわけですから、「春日大社」の摂社にぶち込まれても文句は言えないはず……うーん謎。
神社でいただいた縁起の中の「五十鈴姫命と推古天皇」(永井良樹/元宮内庁侍医・医学博士)によれば、
「……(推古)天皇は、初代女帝として、初代神武天皇の后媛踏鞴五十鈴姫命(以下五十鈴姫命)をとりわけお慕い申し上げ、ご尊敬申し上げておられたであろうことは想像にかたくない。
また天皇は五十鈴姫命の出自であられる三輪族に強い恩義を感じておられた。
第一に、国つ神系の三輪族の協力があったからこそ神武天皇以来の国造りが進行し得た。
第二に、やや個人的な恩義に属しようが、敏達天皇崩御後、皇后であられた推古天皇(当時炊屋姫皇后と呼ばれていた)は殯宮(もがりのみや/※遺体を埋葬前に、一時的に置いておくところ)に居られた。天皇の位を覬覦(きゆ)する穴穂部皇子は炊屋姫皇后を妻にするべく、殯宮に押し入ろうとしたが、それを阻止したのが三輪君逆であった。逆は穴穂部皇子によって、後程殺されてしまうが、炊屋姫皇后は逆の死を強く悲しむと同時に、三輪族に強い恩を感じられたに相違ない。
殯宮での事件は、神武天皇崩御の後、五十鈴姫命も同様の目にお遭いになったことを炊屋姫皇后に思い出させ、炊屋姫皇后は五十鈴姫命に一層強い思慕の念を抱くことになられたのであろう。
そのような事情から、推古天皇は即位されるや、念願であった五十鈴姫命をお祭りする率川神社をお建てになったと考えられる。……」
(※部分ブログ筆者による )
ややセンチメンタルな文章です。
「推古天皇は即位されるや、念願であった五十鈴姫命をお祭りする率川神社をお建てになったと考えられる。」といったことは『日本書紀』にも『古事記』にも書かれていませんが、社伝を信じればそういうことのようです。
「神武天皇崩御の後、五十鈴姫命も同様の目にお遭いになった」……これは、「神武天皇」の皇子「多芸志美美命(たぎしみみのみこと)」が、「姫踏鞴五十鈴姫命」を后にして、その子供を殺そうと企んだことを言っています(「姫踏鞴五十鈴姫命」は「神武天皇」の皇后ですが、「多芸志美美命」の母ではありません)。
むしろ、このことから、後世の誰かが連想して「推古天皇創建説」を作ったのではないかとも思います。
そもそも「大神神社」には「狭井神社」があります(祭神は「大物主神」の荒魂のようです……いずれ行きたい……)。
ということは、「姫踏鞴五十鈴姫命」の家があったという「狭井川」は、三輪山の近くです。
そこから「姫踏鞴五十鈴姫命」を引っ張ってきて、しかも神社の名前が「いさかわじんじゃ」、「さい」をひっくり返した「いさ」ですから、「呪い」っぽいですし、「人質」っぽくもあります。
何かの呪術か、三輪氏との政治力学から引っ張ってきたんじゃないのか……と妄想したくなります。
御朱印の花が「笹百合」なんでしょうね。
ぼちぼち、奈良めぐりのゴールが近づいてきました。