2015/5/2。
風邪気味なので、リアルタイムな記事を。
黄金週間発動中、どこへいっても混んでいるだろうという予測の元、多少の遠出はしなければいけないのではないか、と思い、行ってみました「高野山金剛峯寺」。
○こちら===>>>
↑開創1200年ですので、お参りだけでも、と思いまして(何しろ日帰り弾丸ツアーでしたので、気になるすべての寺院を巡るというわけにはいかず)。
朝の5時に友人を連れ出して、東名阪から名阪国道を通って大阪へ。
そこから奈良を経由して、北から和歌山に入る、というナビの案内で行って参りました。
ナビで4時間、実際には5時間弱かけての旅。
遠いです、和歌山。
邪魔くさい山道を何とか登り、案内されたのは、高野山高校に設置された駐車場。
爽やかに挨拶する部活動中の生徒さん達を尻目に。
まずは「根本大塔」と「金堂」へ。
1200年の記念で、拝観料は無料でした。
御朱印をいただくために結構並びましたね……ブームか……。
伽藍を通り抜けて、次は「金剛峯寺」に。
人はぼちぼちいらっしゃいましたが、京都の混雑を想像すると、それほどでもなかったかな、と。
世界遺産登録もされていますので、海外の方も見かけました。
続いて、20分ほど歩いて「奥の院」へ。
「奥の院」の御廟までの道は、早い話が「墓地」なのです。
著名な武将や大名のお墓が揃っているので、「歴女」のみなさんにとっては聖地のようで……いや、昔からそうなんですけども。
お墓の写真は撮っていません(心霊写真が怖いわけではないです)。
御廟も撮影禁止でしたので。
延々と、10万基を超えると思われる仏塔が立ち並ぶ光景というのは、日本人の目にもなかなか不思議に映ります。
海外の方にはさらに、でしょうか(アメリカ辺りでは、墓地は散歩をするところなんじゃないか、という偏見があります)。
巡礼のみなさんも多く見かけました。
いつかやってみたいですよね、四国八十八ヶ所巡礼……人生に疲れたときとか。
どこかの元総理大臣もやってましたけどね……他にやることあるでしょうに、と思います(共産主義にかぶれた(元)活動家なんて、宗教否定するものだとばかり思っていましたが、何か後ろ暗いところでもあったのでしょうか)。
時間的な制約もあって、あとは「刈萱堂」に立ち寄ったくらいです。
御朱印帳は、高野山の杉で作ったものが売っていたので、つい購入(1800円)。
「奥の院」。
「根本大塔」。
「金堂」。
「金剛峯寺」。
「刈萱堂」。
一山で本が何冊書けるのか、という「高野山」ですので、考察なぞはなしで、淡白に終わりたいと思います。
実は30年近く前、小学六年生の頃、恐らく「ここに行きたい」と親に初めてせがんで連れてきてもらったのが、「高野山金剛峯寺」です。
その時の記憶は、もはやあまりないのですが、行楽シーズンでもなく、あまり人はいなかったように思います。
「金剛峯寺」の前も、それほど綺麗に整備されていなかったような気がしますし、老舗と思われるお土産屋さんしかなく、閑散としていた印象です。
だからこそ余計に、神聖な場所、と感じたように思います。
小六の私がなぜ「高野山」に行きたかったのかといいますと、当時、
↑こういう漫画が好きでして。
他にも、
↑とか、
↑とか、
↑とか……あ、最後のは少々ジャンルが違いますが、要するに「伝奇もの」と呼ばれるジャンルが流行っていて、好きだったんですね(確か、最初に『孔雀王』を読んだのが小四だった気がします)。
基本的に成人向けで、過激な描写(いろいろな方面で)が多いので、(当時の)小学生が読むには向いていなかったと思いますが。
『孔雀王』の主人公の退魔師・孔雀は、「裏高野」で修行した聖で、作中には「裏高野」の「奥の院」も登場します(この漫画で、「奥の院」には武将の墓がたくさんあることを知りました)。
そんなわけで、今でいう「聖地巡礼」(オタク的な意味での)をしたかったんでしょう。
親は戸惑ったかと思います。
ん〜……どこかで「両界曼荼羅」を見た記憶があるのですが、どこだったかな……今回見られるかなと思ったんですが……。
そしてお土産に是非とも「独鈷」を買いたかったのですが、そんなガチなもの、仏具屋でもないお土産屋さんに売っているはずもなく、断念した記憶があります。
無邪気な子供時代(?)のことを少々懐かしみながら、多少は荘厳な気持ちでお参りしてきた次第です。
こんな凡俗のために、高校のグラウンドをお貸しいただいて、高野山高校のみなさんには申し訳ない限りです(別に、私だけのためではないのですが)。
もうちょっとアクセスがよくなると……でも、あまりに人が来すぎても、弘法大師の願いとは反する気もします。
修行の場というのは、人里離れた……という方が似つかわしいでしょうか。
とはいえ、宗教は、俗世間と離れすぎても実はいけないので、難しいところですね。
「高野山」にしても「比叡山」にしても、当時の都からは、実は決して遠すぎるわけではないのです。