10/31。
目当ての御朱印をいただけず、ぐったりしてホテルに戻ります。
行きにも寄った「開化天皇陵」ですが、
↑と、しっかり宮内庁管理下であることがわかりました。
○こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 大日本名所図会. 第1輯 第3編
↑の82コマに(引用にあたって旧字をあらためた箇所あり/判読不能文字は■に置き替える)、
「率川坂本陵
同所念仏寺の奥にあり。人皇九代開化天皇の陵、同御宇六十年四月九日に崩じ給ふ。聖壽百十五歳[古事記]六十三歳。」
とあります。
江戸時代、多くの伝天皇陵が、荒れ放題の小山になっていたらしいのですが、次第にそれらを整備していくようになり、現在宮内庁に指定されている天皇陵はろくに調査もできない不可侵領域となってしまいました。
昭和の頃でも盗掘があったのではないか、という話もどこかで聞いたことがあります。
ところで、「神木動座」というものがある、と知りまして。
何しろ日本史の知識が枯渇しているので、頭の片隅にしか残っていなかったのですが、
↑のp21に、
「現境内はおよそ三十万坪。
明治維新前は十倍の三百万坪以上の境内を有した。ことに神山の樹木を大切にし、かつては山内の榊を持って上洛すると、宮廷内の藤氏一門は神威を恐れて自邸に引きこもり、国政が滞った。そこで興福寺の強訴(ごうそ)が成就する。いわゆる”神木動座”が行われた。」
とあります。
「強訴(ごうそ)」を我らがWikipediaで検索、
○こちら===>>>
↑引用してみますと、
「寺社の僧や僧兵、神人は、仏罰・神罰や武力を振りかざして、朝廷や幕府に対し自らの要求を通そうとした。自分たちの寺社に関わる何らかの問題が発生した場合、僧兵たちは裹頭(かとう)と呼ばれる覆面をつけ、声色を変えた上で提起を行い、賛成のものは「尤も尤も」、反対のものは「謂われなし」と声を上げ、ひとたび決した議決には異論を差し挟まず即座に行動に出た。
特に「南都北嶺」と並び称された南都興福寺と比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺は春日大社の神木(春日神木)、延暦寺は日吉大社の神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。神木を使う前者を「榊振り」、神輿を使う後者を「神輿振り」とも呼び、神輿振りは1095年の強訴が最初とされる。白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」という言葉を残しているが、これは延暦寺の強訴を嘆いての事である。
興福寺の榊振りの場合は、まず訴訟の宣言として、神木を本殿から移殿へ移し(御遷座)、訴えが聞き入れられれば本殿へ戻し(御帰座)、聞き入れられなければ興福寺前の金堂に移し、それでもまだ聞き入れられない場合は神木を先頭にして京に向かって大行進を始め、木津で一旦駐留し(御進発)、それでもまだ聞き入れられないなら宇治平等院まで北上し、それでもだめな場合にいよいよ入洛する、という手順だった。
強訴の理由は寺社の荘園を国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得ることなどである。朝廷は、強訴を押さえるため、武士の武力を重用した。これは、新興勢力の武士が、仏罰や神威を恐れなかったためである。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。」
とのこと。
結構むちゃくちゃですね……。
また、
○こちら===>>>
↑では、「神木動座」のことがもう少し詳しく書かれています。
「春日神木の動座が行われた場合、特に入洛中は藤原氏の公卿・官人は謹慎・籠居となり、これに従わない者、強訴を非難・無視する者は放氏処分とされた。当時は藤原氏の公卿・官人が朝廷の過半を占めていたから、神木の入洛中は朝廷は廃朝状態となり国政は麻痺した。また、検非違使や武家も宇治などに兵を固めて入洛を阻止する姿勢を見せたが、実際に衆徒・大衆に武器を向ければ、今度はその武家を死罪・流罪などの重罪に処する様に求める強訴を引き起こすことになるため、最終的には興福寺側からのどのような無理な要求でも罷り通ったのである。これを皮肉を込めて「山階道理」(山階寺は平安遷都よりも遥か以前に山階にあった興福寺の前身)と呼ばれた。なお、神木が奈良に戻る「神木帰座」の際には藤原氏の公卿・殿上人が洛外あるいは奈良まで供奉して春日大社に祈謝する事とされていた。また、奉幣使が春日大社及び京都における分社である大原野神社・吉田神社の両社に派遣された。」
「特に入洛中は藤原氏の公卿・官人は謹慎・籠居となり、これに従わない者、強訴を非難・無視する者は放氏処分とされた。当時は藤原氏の公卿・官人が朝廷の過半を占めていたから、神木の入洛中は朝廷は廃朝状態となり国政は麻痺した。」……これもまた、むちゃくちゃな話で。
↑に「寛治7年(1093)」の強訴の様子が書かれています(p159〜)。
「中納言藤原基忠は、近江国市御荘を春日社に寄進した。そこで神人等が庄内に居住するようになった。ところが、この市御庄に近江守高階為家は一国平均役として御馬使供給を賦課しようとし、そのため官使と在庁官人が庄内に乱入し、それを阻止しようとした神人達との間に争が生じ、神人達は凌轢され、あまつさえ禁獄されるに至った。このことを聞いた春日社司と興福寺大衆は大いに忿怒し、朝廷へ訴え出た。為家は市御庄が春日社領で凌轢したのが神人達であることを知らなかったといったが、検非違使庁に召出され拷問をうけた目代と在庁官人は、興福寺側の言い分を認めた。そこで、その後の陣定で為家の罪が決まった。しかしそれは、法家勘文に随った贖銅という軽い刑罰であった。そのため興福寺大衆は、為家を流罪に処すべきであると主張して上洛し、強訴に及んだ。その様子は、梓と榊を持った黄衣の神人三、四十人を先頭にして、古年童四、五十人ばかりがそれに続き、その後に興福寺所司・三綱・春日社司が続き、これに大衆二〇〇〇人ばかりが付き随ったという。大衆中には騎馬の者もいた。強訴により再度陣定の儀があり、為家は土佐国に配流と決まり、事件は落着を見た。」
↑では、強訴の対象となっているのは藤原氏ではないようですが、裁定するのは藤原氏が多いわけなので、そこに対する圧力、ということになります。
こういった強訴を無視できる存在として「武士階級」が重宝されたようです。
それにしても、ご神木がやってきただけで、何をそんなにビビることがあるのか……と思うんですけれども。
権勢を欲しいままにしたはずの藤原氏が、自分たちの氏神と菩提寺に、そこまで恐れを抱く必要があったのか……。
いろいろ検索していると、
○こちら===>>>
http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1339979503861/files/3-4.pdf
↑こんなものを見つけました。
これは、
○こちら===>>>
↑の一部なのですが、中に、
「春日山の最初の山の主は耳が聞こえにくく、常陸の鹿島から春日明神が移ってきたとき、 細かく聞きもせず三尺を貸すことを承諾してしまったため、山全体の三尺を貸すことになり、 今も春日山の木々はみな地下三尺より深くは根を下していないという伝説がある。」
↑という出典不明の伝説が書かれていました。
この伝説がいつころから語られていたのかがわかると面白いのですが、これは見方によっては、
高齢者の弱みにつけこんで無理やりサインをさせて高級羽毛布団を買わせる手口
みたいなものですよね。
つまり、春日山の元々の神からお山を奪い取った、と。
藤原氏は、その祟りをずっと恐れていなければならなかったのではないでしょうか。
↑に、
「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮」
とうたわれた神を引っ張ってきておきながら、実際にはその効験が全然顕われていないところが、なんとも不思議です。
何のために勧請したのやら。
JR奈良駅。
なかなか素敵な駅舎です。
そして奈良には、「鹿さんに募金するための自動販売機」がありました。
なんだか、こういうのは好きです。
南都平城京に限らず、奈良県にはまだまだ素敵スポット目白押しです。
車で行くと案外近いので、今度は三輪山に行ってみたいものです。
というわけで、奈良めぐりはとりあえず終了〜。