8/3。
昨日も歩き通しだったのに、苦行のようにまた歩く。
嘘のように天気がいい。
荷物が重い。
道すがら、コンビニもない。
自動販売機で水を買って、一服しぃしぃ、やっと到着「酒列磯前(さかつらいそざき)神社」。
◯こちら===>>>
道の真ん中に、中州のように境内地が登場。
白い鳥居がまぶし。
もう逆光逆光で……。
境内の樹叢は県指定の天然記念物だそうです。
「樹齢300年をこえるヤブツバキやタブノキの古木が点在」しており、「オオバイボタ、スダジイ、ヒサカキ」、「ユズリハ、モチノキ、ヤブツバキ、シロダモ」などで構成されているそうです。
……自然科学分野にも疎いので(疎いものばっかり)、どんな木なのか……。
一応、設計士の子どもなんですが(そっち方面の才能は一切持ってません)。
「平磯」。
前回の記事(ひたちなか市放浪 - べにーのGinger Booker Club)で紹介した、「堀出神社」の由緒にも出てきた、「前浜村」と「平磯村」のうちの一つ、でしょうね。
参道。
木漏れ日が、本当に美しく……夏の盛り、というのがまたよかったのかもしれません。
ふっと日が翳り、少しだけ涼しくなります。
皆既日食のとき、木漏れ日も半円形になったりする、というのを実感しました。
もちろん、普段は丸いです。
動画も撮影したんですが……どこ行ったかな。
Youtubeにでもあげればよかった。
気づいたことは、かなり参道が長い(300mですって)ということと、薄暗いので歩きづらいということ。
二、三回、足首ぐねってなりました。
「きもだめし禁止」……せちがらい。
いつの間にか、「前浜村」に着いたようです。
「水戸斉昭公お腰かけの石」。
◯こちら===>>>
↑昨年の同じ頃、水戸にある「常磐神社」を参拝しました。
そこの御祭神でもありますね、斉昭公。
前ぶれなく亀。
宝くじの高額当選者が奉納した、らしいです。
意匠化された文字。
これは……水とか、魚とか、のイメージでしょうか。
こういう、何となくクネクネした文字が書きたい時代がありました……。
自分でもびっくりしていますが、まず正面から写真を撮るものじゃないでしょうか……それがない、と。
本殿を横から。
本殿の後ろへ回るとき、透垣の隙間から。
色鮮やかな狛犬さんです。
焼物でしょうか。
本殿後ろから。
一周する間に「酒列鎮霊社」に参拝。
戦没者をお祀りしています。
拝殿。
立派な押し出しです。
(※引用にあたって旧字を改めた箇所あり)
配祀神 大名持命(大黒さま)
少彦名命は高皇産霊神の御子神にして医薬の術、酒造の術の祖神また海上安全大漁万足の海の神なり。
大名持命は大國主命とも称し、五穀豊穣商売繁昌の神にしてまた縁むすびの神なり。御二柱の神は共に力を合わせ國土開拓民生の安定を築き「神人和樂」福を授くる神として古より広く庶民に親しまれ敬愛された。抑、御祭神は古事記・日本書紀にも記録明らかにして、平安朝初期(約1100年前)「文徳天皇実録」によれば天安元年(約1150年前)に「官社」となり、同年八月には「薬師菩薩明神」の尊号、延喜の制には「明神大社」に列せらる。
天平文化を誇る奈良の平城京との興隆も盛んなりし事等、史実に顕著にして著名なるお社として全国的な尊崇をあつめり。
更に菅原道真公、本居宣長平田篤胤等の国学者が学問の神として崇敬せり。本神社の創祀の地は現在の西方海に臨みし台地に鎮座されておれり、建久二年(約900年前)源頼朝は神馬丗三頭神領地寄進社殿修繕を行へり。応永廿九年(約600年前)水戸城主初代江戸道房より次いで弘治元年(約430年前)忠道本殿の他改造せり天正八年(約405年前)六代重道に至る数百年間江戸氏が修繕に当れり。元和二年(約370年前)守護佐竹貞義神田寄進社殿修理せり。元禄十五年(約300年前)水戸藩主二代徳川光圀公の遺志を継承せる三代綱條公旧社地より現在地にさだめ境内の整備社殿大修築をなし、御遷宮奉安の儀を行へり。
現社殿の建築は元禄時の彫刻と軒廻り部分を再使用、昭和九年国費により改築せるものなり。この時畏くも天皇陛下より金一封御下賜あらせられたり。明治十八年より終戦まで毎年三回の大祭に皇室国家より幣帛料が供進されたり。洋上より昇る朝日に映ゆる神域約二万坪参道本殿背後に生殖せる暖帯林は誠に人心を厳粛の極に至らしめ自然林に指定されり。東南方磯づたいに展開せる白亜紀の岩石群は古より神聖視され清浄石と呼ばれておれり。
北方遠く連なる海辺は白砂青松にして絶景なり「東洋のナポリ」と称するに値せり。萬葉時代より昭和初期まで旧制四十八ヶ村の各鎮守の神輿がそれぞれの氏子により「ヤンサコラサ」の掛声も勇ましく当神社に神幸され祭典と同時に渚二里八丁を疾駆せる勇壮厳粛なる競馬の伝統御神事は往時を偲ぶものあり。
恰も本年は当神社が「国弊中社」に列格せし満百年の意義深き年なり。来る廿一世紀国際化時代へ飛躍の秋、近隣一帯が北関東地域発展の重要な拠点となる流通港常陸海辺公園等々「海と緑と人間との」調和した雄大にして豊な活力のある海洋文化都市建設構想を目指す輝かしき曙光は御祭神が国土開拓殖産の御神徳灼かなる具現哉と一入感慨深きもの也。」
やけにスローガンじみた感じですが、神社ですから。
そりゃ右でしょう、と。
個人的には、過去の年号の後に「(約◯◯年前)」と入れるのはやめてほしいです。
基本的に、ほとんど西暦と対応しているんだから、ちゃんと何年なのか書けばいいのに。
愚痴ですが。
神輿とおみくじ。
御随身、でしょうか。
神厩舎。
末社。
向かって左から、「稲荷神社」「天満宮」「琴比羅神社」「冨士神社」「水神社」。
この辺りでお祀りされていたものを集めた、のでしょうか。
碇。
それにしても、緑濃いですね。
境内脇、駐車場の辺りにあった小祠。
碑には「千庚申」と書かれています。
さて、『古事類苑』という、明治時代に編纂された国内百科事典のようなものがありまして、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 古事類苑. 神祇部26
↑の150コマから、「酒列磯前神社」の記事があります。
同じく茨城県にある、「大洗磯前神社」と関係が深いと考えられているので、併記されていますが、いくつか抜粋を(引用にあたって改変した部分あり/判読不能文字は■で置き換える)。
「(略)酒列磯前神社は同國(常陸國)那珂郡平磯町に在りて、少彦名命を祀る、延喜の制、二社共に名神大社に列し、今亦竝に国弊中社たり。」
「[延喜式考異二常陸](略)則酒列磯前、亦当有明、字而諸本无焉、且史稱名神大神、而式只稱神社例也、无明字亦可也、其二社預官社並號薬師菩薩名神」
「[文徳実録九]天安元年十月己卯、在常陸國大洗磯前酒列磯前両神號薬師菩薩名神」
「[神社啓蒙五諸社]洗磯前神社
或曰、神祇式中、此神記薬師菩薩也、薬師者仏語、何混合焉耶、曰此非上古之名、而文徳天皇御宇、天安元年有此號矣、蓋少彦、自嘗薬草夭札遠之、其薬師者、仏氏所謂天竺医療之仏也、故合其功業稱薬師也耶、是以今医師、多祟薬師是民間之蔽習也、当時学者盍排浮屠之誕折世人之惑也哉」
『神社啓蒙』というのは、寛文七年(1667)のもののようです。
とにかく、「薬師菩薩」と呼ばれているのが気になる、と。
「蓋少彦、自嘗薬草夭札遠之、其薬師者、仏氏所謂天竺医療之仏也、故合其功業稱薬師也耶」……(大意)「少彦名命は、自分で薬草をなめてなくなった、それは薬師であるということで、薬師はインドでいう医療の仏なので、その能力があわさって薬師と呼んだのではないか」といっているみたいです。
「[玉勝間十三]常陸國なる大洗磯前神(中略)薬師はくすしと訓べし、薬の神のよし也、かのやくしといふは仏の名をとれるにはあらじ、さて酒列磯前の社は、かの二柱(大己貴少彦名)のうちを分て祭れるなるべし、他神とは聞えず、また件の二社おのおの一座なればなり」
『玉勝間』は
↑のことです。
本居宣長先生、「薬師はくすしと訓べし」で、「やくし」と読むな、とおっしゃっています。
明快です。
「[文徳実録八]斎衡三年十二月戊戌、常陸国上言、鹿島郡大洗磯前有神新降、初郡民有煮海為塩者、夜半望海、光耀属天、明日有両怪石、見在水次、高各尺許、体於神造、非人間石、塩翁私異之去、後一日、亦有廿余小石、在向石左右、似若侍坐、彩色非常、或形像沙門、唯無耳目、時神憑人云、我是大奈母知少比古奈命也、昔造此国訖、去往東海、今為済民、更亦来帰」
(※↑は、「神社史料集成・大洗礒前薬師菩薩明神社」を参照)
「[神名帳考證土代常陸]大洗磯前薬師菩薩神社 信友按、斉衡三年十二月の上言に、或形像沙門とあるは、其石の形によりて云へるものなるが、かく見立たるによりて、菩薩號を付て申せる由縁なるべし、穴賢、又斉衡三年、有神新降云々、これによれば、石像二躯ありて、我是云々と告玉へれば、大汝少彦名の二神なるを、帳に大洗磯前云々の神社とありて、一社とせり、こは大汝の石像を当社に祀らせ玉ひ、少彦名の石像をば酒列の磯前に祀らせ玉へるなるべし、さてこそ二社共に、天安元年八月官社に預らしめ、十月薬師菩薩明神の號を授玉ひたるなるべし、なほ酒列磯前の處に證しいへると考合すべし、又按薬師の訓、仏足石の歌に、くすりしとあるをも考べし、さて本書兼永本朱書入に大己貴命とあり」
「形像沙門とあるは、其石の形によりて云へるものなるが、かく見立たるによりて、菩薩號を付て申せる由縁なるべし」と、「薬師」ではなく、「菩薩號」の方に着目しています。
流れ着いた石が「沙門」に似ていたので、「菩薩号」をつけたのだろう、と。
「薬師」の読みの方は、「薬師の訓、仏足石の歌に、くすりしとあるをも考べし」と引用しており、結果的に本居宣長先生と同様に、「くすし(くすりし)」のことだろう、と述べています。
私も「くすし」だろうなぁと思いました。
↑こんな人もいますし。
それにですね、
薬師如来
なんですよね、基本。
「如来」であって、「菩薩」ではないんです。
ここ、厳密だと思います。
「如来」は、「仏」です。
「菩薩」は、衆生を教え導くとはいえ、まだ「修行中」です。
仏教的に、
「仏」← ∞ ←「菩薩」
くらいの隔たりがあるといってもいいと思います。
和製「菩薩」には、「八幡大菩薩」とか「神変大菩薩」とかいらっしゃいますが。
「如来」号を得たような日本の神様(人)のことは、聞いたことがありません。
ですから、やっぱり、「薬師」は「くすし(くすりし)」と読むのが平和(?)だと思います。
公式HPによれば、
「御社殿はかつては現在の第一鳥居付近(ひたちなか市史跡-「比観亭跡」)に鎮座していましたが、水戸藩2代藩主徳川光圀公が由緒深い名社の荒廃を嘆き元禄年間御造営の計を起し、3代綱條公が現在地に遷座再興されました。現在の社殿は国費を持って昭和12年に改築竣工し、拝殿に施された「リスとブドウ」の彫刻は日光東照宮御造営後の左甚五郎の作と伝わっています。」
なのだそうです。
栄えては、荒廃して、という繰り返しだったようです。
海が近いので、以前はよく栄えたのではないでしょうか。
交通・交易の中心が、陸上になってしまった近現代には、再び荒廃して……いないようでなによりです。
「リスとブドウ」は、はっきり見なかったなぁ……。
さてさて。
「少彦名神」は、「タカミムスビノカミ」や「カミムスビノカミ」の子どもとされる、れっきとした天神系なのですが。
記紀神話では何しろ、「大国主命(大己貴神)」の国づくりのときにひょっこり現われて、ふっといなくなる、という謎の多いお方なのでした。
しかも、小さいし。
掌サイズだったようです。
その正体(?)には、いろいろと考察があるようですので、いろいろな人におまかせしまして。
例えば、酒の神と言われているのは、『古事記』によれば、神功皇后が詠んだ歌にあるようです。
「この御酒は 我が御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石立たず 少名御神の 神壽ぎ 壽き狂ほし 豊壽き 壽き廻し 献り来る御酒ぞ 乾さず食せ ささ」
で、この方、海に流れていってしまったようで。
そのため、「恵比須」とされることもあるようです。
◯こちら===>>>
「浅草神社」(浅草名所七福神) - べにーのGinger Booker Club
「浅草神社」のところでも、「仏像が網に引っかかった」という伝説がありましたが。
「海」の向こうは「異界」、「海」からやってくるものは「異物」なんです。
もちろん、「異物」は「いいもの」であることもありますが。
「悪いもの」である可能性もあります。
境界を越えてやってくるものは、共同体の秩序を破壊するおそれがありますので、慎重に取り扱わなければなりません。
ふと面白いな、と思ったのが、「石が沙門の形をしていた」という伝説です。
これ、「仏像が網に引っかかった」と似ていますよね。
何なら、「本当に石仏だった可能性」もありますよね。
海から寄りつくものは、「蕃神」つまり異国の神だった、はずなんですが。
ここ常陸では、
それを誰かが(「塩翁」=製塩の民に神がかったそうですが……)、
古来から知られていた(かもしれない)
……んだとしたら面白くないでしょうか?
みんな仲良く「磯前」に。
木漏れ日の妙をお楽しみください。
……また歩いて「ひたち海浜公園」まで戻るのか……。
太平洋は広いなぁ……何が流れ着いても不思議じゃない気がします。
かと思えば、どう考えても80年代の終末SFっぽい風景に、ちょっとめまいがしました。
結局「阿字ケ浦」駅からタクシーを呼びました。
御朱印は、配布のものでした。
もう体力が……死にそうです。