8/4。
よんどころない用事を昨日済ませて、本日はぶらぶら。
宿を神田にとったので、近場に行こうかということで、「上野恩賜公園」を攻めることに。
◯こちら===>>>
ちょっと曇りがちです。
とりあえず橋を渡ります。
弁天様なので、しっかり島の上、です。
前にも写真を撮った気がする、「めがねの碑」。
昔風に言えば「眼鏡塚」です。
お堂の前の、拝殿とは言わないので、何というのでしょうか……とにかく、八角形の「弁天堂」の手前に堂があります。
階段の下には、琵琶の碑が。
弦も張ってあるところが、芸細ですね。
こういう連続性に惹かれます。
境内というか、お堂の周囲にはいくつもの碑が。
鳥塚。
はっきり読めませんが、「篠筈古池」と書かれています。
昔はそう書いたのでしょうか。
空の色が気持ち悪いですが、カメラのせいです。
ほぼお堂の真後ろになるんでしょうか。
こちらも「弁才天」なのか……右手の石碑にはそう彫られています。
「櫛淵虚冲軒」という、剣豪の石碑。
幕末期の方で、wikipediaによると、最終的には一橋家剣術指南役に上り詰めたということです。
知らない人ばかりです。
お堂の脇の方に、
鳥居を見かけたので、近づいてみました。
祠があります。
何だろうなぁ……と思っていたのですが。
こんなところにヒッポリト、じゃないひっそりとお狐様がいらっしゃいました。
稲荷の祠ではないかと思います。
「弁天堂
寛永二年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。
当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661-72)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。
弁天堂は、昭和二十年の空襲で焼失し、昭和三十三年九月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。
本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保三年(1832)と銘のある谷文晃による「水墨の竜」を見ることができる。
大祭は、九月の巳の日で、巳成金という。」
どこかでも出てくるかもしれないですが、「京都王城の鬼門に比叡山」と同様、「江戸城の鬼門に東叡山」、なのです。
「延暦寺」が創設の元号を寺号に用いたのと同じで、「寛永寺」です。
天海僧正自体が、天台宗のボスみたいなものですので、「江戸を守る」のと同時に、「京都の守りに天台宗ならば、江戸の守りも天台宗」という想いがあったのだと思います。
だからもちろん、「不忍池は、琵琶湖に見立てられ」、なんですね。
比叡山と琵琶湖の関係です。
「当初、弁天島へは小船で渡っていた」……琵琶湖の竹生島は、今でも船でしか行けませんね。
こちら「大黒天堂」。
「豊臣秀吉が大黒天を持っていた(伝教大師作と伝わる/方広寺にあるらしいです)ことと関係があるのではないか」、というネット上での検索結果。
よくわかりませんね。
今のお堂はコンクリートで再建されたものですが、不忍池の象徴みたいなものなのでしょう、参拝客も多くいらっしゃいました。
屋根がかなり鮮やかなのは、最近修復があったからだと思います(数年前に訪れたときは修復中だったと記憶しています)。
さて。
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸名所図会. 第3
↑の112コマから、「寛永寺」関連の記事が掲載されています(引用に当たって旧字を改めた箇所あり/判読不能文字は■に置き換える)。
「不忍池 又篠輪津(シノワツ)に作る。
東叡山の西の麓にあり。江州琵琶湖に比す。(不忍とは、忍の岡に対しての名なり。)広さ方十丁計、池水深うして旱魃にも涸るることなし。殊に蓮多く、花の頃は紅白咲乱れ、天女の宮居はさながら蓮の上に湧出するが如く、其芬芳遠近の人の袂を襲ふ。
風土記曰
豊島郡篠輪津池。貢鯉鮒鰻魚鴻雁鷦鶴鷺鴨等。周行十里許程。旱日水不涸。霖雨不爲害。祈旱雨人詣干並。所祭瀬織津比咩也。云々。」
「篠輪津 」……って、「篠筈」じゃないんかい。
↑の「風土記」は、いわゆる一番古い「風土記」ではなく、恐らく『新編武蔵風土記稿』のことではないかと思います(何しろ、『武蔵國風土記』は残っていないので)。
「中島辨財天
不忍池の中島にあり。当社は江州竹生島のうつしにして、本尊辨財天および脇士多聞、大黒の二天とともに、慈覚大師の作なり。
社伝に曰く、往古東叡山草創の時、慈眼大師、此池を江州の琵琶湖になぞらへ、新に中島を築立てて、辨天の祠を建立せられしと。(江戸名所記には、水谷伊勢守建立せらるるとあり。)
聖天宮(本社の北の方、小島に勧請す。此島は、其始辨天の祠ありし旧地なり。其頃もこの聖天の宮ありしにや、今も地主の神と稱せり。)
紫銅華表 額 天龍山 細井広澤の筆
昔は離島にして、船にて往来せしを、寛文の末、陸より道を築きて、参詣の人に便あらしむ。己巳日は前夜より参詣群集す。」
「慈眼大師」は、天海さんのことです。
文中引用されている『江戸名所記』は、
◯こちら===>>>
国立国会図書館デジタルコレクション - 江戸叢書 : 12巻. 卷の貳
↑こちらに収録されています。
その13コマに「不忍池」の記事があります。
「五 不忍池(しのばずがいけ)
忍ぶの岡にうちつづきて、しのばずが池あり。本はしのばずが池といひしを、今は篠輪津が池と呼来れり。堯恵法師の路次記に、忍ぶの岡は今はうへ野にありといふ、忍ばずが池今はしのわずの池と號すといへり、池の大さ五町四方もありなん、池の中に島あり、辨才天おはします、水谷伊勢守建立せらる、南のかたに茶やあり、北にゆけば谷中に出る池水常にたたえて、蕩々として底ふかく、風えうえうと吹おこれば、小波かさなり立て、水面に皺をたたみ、月雲を分て出れば、影水底にうつりて百錬の鑑を見ごとく、木にのぼる魚もなく、波をはしる兎はなけれども、さながら竹生島のおもかげあり。
水底のきよきを神のこころにて、なにをかくさん忍ばずが池」
かつて、上野の台地一帯を「忍ぶが岡」と呼んだそうです。
それに対して、何かよくわかりませんが、「忍ばずが池」と呼ばれていた、と(対比の問題でしょうか)。
語源なんてわからないものですが、まぁそんな感じで。
『江戸名所図絵』の記事にもありますが、115コマにある図絵で見ると、「弁天」の他、さらに橋で結ばれた島は「聖天」と書かれています。
「大聖歓喜天」をお祀りしているものと思われます。
↑の方で「稲荷?」と書いたものと、位置的には一致するのですが、果たして……。
また、「こま堂」というものがありますが、何なのかがよくわかりません。
少なくとも「大黒天堂」らしきものはないので(そもそも、本堂に既にお祀りされています)、後世、ひょっとすると明治期以降に置かれたものかもしれません(ただ、他にも建物は画かれているので、無いと断言することもできないかもです)。
蓮の花が満開だったら、さぞ見応えのあったことだろうと思いました。
連日の疲れが溜まっており、しんどい……。