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所用でひたち臨海公園まで行きまして、その日の宿である水戸まで戻ってきました。
どこか神社へ、と思って、結局たどり着いたのは「常磐神社」。
◯こちら参照===>>>常磐神社~水戸黄門(水戸光圀)を祀る神社~
水戸駅からだらだらと、途中ででかい水たまりなんてトラップに遭遇しながらも、川沿いを歩いていきます。
長塚節の歌碑を見つけたりしました。
遠景。
で、「偕楽園」という駅があるので、電車で行こうと思っていたのですが。
なんと、臨時駅。
多分、梅の花薫る頃しか止まらないんでしょうね。
残念……。
結構な階段ですよ……。
「御祭神 二柱
高譲味道根命(たかゆずるうましみちねのみこと) (徳川光圀公 諡=義公)大日本史編纂の祖
押健男國御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと) (徳川斉昭公=烈公)偕楽園開園の祖
◯右のお二柱をご祭神として、
明治七年五月十二日に現在地に鎮座されました。
これ以前には偕楽園内の祠堂に祀られており、
明治六年に明治天皇より勅旨を以て
「常磐神社」の社号を賜り県社に列格、
明治十六年には別格官幣社に昇格しました。」
そう、非常に新しい神社であり、祀られているのも人神なのですね。
登った〜……。
社殿は戦災で焼失し、現在の物は昭和三十三年に完成したそうです。
三間神明造でしょうか、平入の拝殿は近代の作ですが、擬古的な感じですね。
さすが御三家、「偕楽園」も含めると広大な敷地に堂々たる社殿。
腐っても納豆、じゃない腐っても水戸藩ですね。
平成四年に完成した、能舞台。
お稲荷様がない神社、というのは探すのが難しいのかもしれません。
それだけ流行ったのですな。
末社の「三木神社」。
昭和40年に創始されている、極めて新しい神社です。
「徳川光圀公(水戸黄門)は、水戸藩家老三木邸にて誕生し、幼少の頃はこの三木夫妻に慈育されました。
また、御神裔三木啓次郎氏は、松下電器創業者の松下幸之助氏が苦労されていた若い頃に援助された、というご縁で、当社の鎮座の際は松下幸之助氏より多大な浄財が奉納されました。
このようなことから、現在もテレビドラマ「水戸黄門」は松下電器の提供となっております。」
……終わっちゃいましたけどね、『水戸黄門』。
松下も凋落ですかね。
摂社「東湖神社」。
創始が昭和18年、とこれまた新しいですな。
パンフレットによれば、もともとは鎮霊社だったものが、昭和十六年に護国神社が創建されそちらに遷座されたので、跡にこの神社が建てられたのだそうです。
祀られているのは「藤田東湖」。
幕末、徳川斉昭公に仕えた人です。
幕末・明治維新期の歴史が好きな方はよくご存知かもしれません。
私は、よく存じ上げません。
「文天祥ノ正氣ノ歌ニ和ス」を読みますと、かなりの檄文で、強烈な尊王思想が伺えます。
さすが水戸、さすが水戸学。
……。
……。
あ、書いてみただけです。
新しい神社ですが、拝殿の造りがなかなか面白いのではないかと思います。
徳川斉昭公と縁ある「農人形」、だそうです。
「大日本史完成の地の碑」というのもあります。
時間があれば、「義烈館」という博物館相当施設や、「偕楽園」を回るところだったのでしょうが、睡眠時間2時間くらいで野外ロックフェスに出かけ、とって返して水戸駅から歩いたものですから、さすがにそんな元気はなくて……。
さて、水戸藩といえば、「尊王思想」が伝わっていたと言われているところです。
このバックボーンから、幕末には尊王攘夷思想が徳川斉昭公によって広められ、いろんなパワーベクトルの中で井伊直弼が実験を握ると、徳川斉昭公は蟄居を命じられます。
井伊直弼は「桜田門外の変」で、水戸浪士達によって殺害されたのでした。
で、その後も水戸には「天狗党」が出没したりして、維新前に発奮したのはいいけれど、維新後にあまり人物を残せなかった、と言われています。
維新政府で権力に食い込めず。
御三家ですから、そもそもそれほど食い込めないとは思いますが。
いろいろと便宜が図られても不思議ではないですね。
サービス満点でしょうか。
実は、日本で、人を神として祀ることはあまりなかったんですね。
例外が、「怨霊」となった人達。
菅原道真、崇徳上皇といった、祀らないと人に害なす存在(だと信じられた人々)を、「神」に仕立てて、お心を慰める、「御霊信仰」というものが、人を神として祀る中心だったのです。
ある時期まで、日本人にとって「神」とは、恐ろしい側面を持った存在でなければならなかったのです(でなければ、「神」の資格がない)。
しかし、戦国時代が終わった頃からでしょうか。
新たな中央集権国家を目指す過程で、強大な権力を持った存在が、自らを「神」のようだと認識することになります。
そう、織田信長さんです。
天皇家というのは、ずっと続いているわけです。
権力は失っても、そうそうないがしろにできるものではない。
それに対して、信長が握った権力というのが、日本の歴史上類を見ない大きいものだったのです。
と同時に、大きいが故に、強くなければいけませんでした。
自己の権威付けのため、最終的に「神」に擬するというのは、ある意味では必然だったのでしょう。
西洋でも、封建国家から近代国家の過渡期に、「絶対王権」という政治形態が出現する国がいくつかでてきます。
別に、増長したわけではないと思うのです。
そうしなければ維持できない力、だったんじゃないかと。
以後、豊臣秀吉も似たようなことをしますし、盤石たる幕府を造った徳川家康に至っては、本気で「神」になっちゃいました。
「東照大権現」です。
これもまぁ、残された人たちが、強大な権力を維持するために作り上げたシステムの一部なんでしょうが。
とにかく、「御霊信仰」ではなく、人を神として信仰する時代が始まったのです。
当然、明治政府もこれを引き継ぎます。
神として崇めるべきは「天皇」なのだ、と。
それに加えて、日本を「一つの国」とするためのナショナリズム形成のために、地元の英雄が利用されていくわけですね。
こんな時代に、「御霊信仰」なんてやってたらだめですよ。
「陰謀で憤死した」人を「神」として祀るなんて、反権力の象徴みたいなものでしょう?
そうではなく、明治政府のありように貢献したであろう人たちを、祭り上げていくわけですな。
それが民衆にどれだけ広まったのかわかりませんが、明治期に「復活」した神道(そんなものは、古代にもなかったのですが)が、国家宗教として人心を支配しようとし、それがある程度成功したことはご存知の通りです。
……。
……。
神前結婚式って、江戸時代にはなかったんですよねぇ。
……。
……。
バスがある、とは聞いたんですが、結局帰りも歩きました。
やたらと人を警戒しない黒鳥やら白鳥やらがたくさんおりました。
そうそう、帰り際、スマートフォンの地図アプリを見ていたら、面白いところを発見したので立ち寄りました。
住宅街の中に、「虚空神社」。
来歴さっぱり、地元の古老でもいらっしゃれば聞けるのかもしれませんが。
「虚空神社」というのは、日本でもめったにない名前だと思います。
「虚空」と書いて「そら」と読ませる場合もありますが、素直に「虚空蔵菩薩」と考えた方がいいでしょう。
ただ、「虚空蔵菩薩」を祀るなら「虚空蔵堂」とか、そういった名前になるはずなのに、何故「虚空神社」なのか。
中にあるらしき像は、どうも大黒様のようです。
……多分ですが、廃仏毀釈に関係があるんじゃないですかねぇ。
もう、こういうものは、何でも廃仏毀釈だ!と言っておけばいい気がしてきました。
それにしても、歩いたなぁ……。