8/3。
午前中に到着し、所用を済ませ、その次の用事まで時間があいたので、ふらっとしてみようと思いまして、とある神社を目指しました。
駅でいえば、「阿字ケ浦」方面。
歩くと30分以上……でも、ひとまず歩いてみます。
「ひたち海浜公園」から黙々と進み、住宅街の中に入っていきます。
途中で見かけた石像。
庚申塚でしょうか。
真新しい花が、信仰のありようを伝えている気がします。
野ざらし、という感じです。
……「西久保稲荷神社」、のようです。
恐らく中に社殿があるのだと思うのですが……ここまで覆ってしまうと何がなにやら。
恵比須、大黒、お狐様。
これは、どこだったか……。
上海事変記念の碑、だそうです。
こちらは「馬頭観音」とありますので、先ほどの梵字はやはり「カン」でしょうか。
なんの碑だったのか……。
村社の「堀出神社」を通りがかりました。
◯こちら===>>>
↑検索してみるものですね、公式HPがヒットしました。
村の鎮守、という姿がいいですね。
寛文十一年(1671)に鎮座したそうです。
木漏れ日が素敵です。
何と、「干し芋」日本一、なのだそうです。
「干し芋」、おいしいですよね。
朱塗りでない、白木の拝殿は、何となく清浄をイメージさせます。
小祠がたくさん。
何の神様かわかりませんが、置かれている像は様々すぎて。
こちらは、「水神・伏見二社稲荷神社」です。
狛犬と鳥居。
まだ新しい狛犬さんがいらっしゃるということは、地元の信仰篤いということでしょうか。
↑の公式HPから引用しますと、
「【御祭神】 誉田別尊(ほむたわけのみこと)
【境内神社】第六天神社(面足命おもだるのみこと 惶根命かしこねのみこと)
月読神社(月読命つくよみのみこと)
稲荷神社(倉稲魂命うがのみたまのみこと)
難産除社(誉田別尊(ほむたわけのみこと)
【由緒沿革】寛文11年(1671年)8月13日、岡見伝五右エ門尉吉高(14才)の記した由来記によると、磯崎大明神(酒列磯前神社)をはさんで前浜、平磯両村の境界論争がつづいたので、寛文3年(1663年)8月13日、岡見弥次右衛門尉吉為、前浜村庄屋弥右エ門、組頭太郎右エ門等検分途中、路中吹きはげの所に備前焼で忌垣二重に囲い内くぼみになっておる処を見つけ、案内にそこを掘らせたところ、石廊あり、中から刀、折れた脇差、槍、鉾3枚、矢の根、具足、州枚形からがね2枚、天目などが発見された。この品々はさっそく水戸城中へ送られ、詮議の結果「磯前明神の本体であろう」と結論されたので、前浜村鎮守を望む地元の意向をくんで、岡見吉為が小社を建てた。 その後同11年正月、寺社奉行北河原甚五右エ門、山県源七、横田庄三郎等のはからいで水戸藩の許可を得、同年8月13日に社殿造営竣功し、遷宮式が厳修されたという。神体の御神鏡は藩主光圀公の奉納。古墳の発掘されたところは現在不明であるが、町内小池親氏神に堀出宮神魂石という石が祭られている。(以下略)」
「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」ですから、八幡様ですね。
「難産除社」というのは、「応神天皇」の誕生伝説に由来するものと思われます(記紀神話をご参照ください……簡単に書くと、「三韓討伐から戻った神功皇后は、応神天皇を身ごもっていたが、在京勢力が蜂起しているとのことで、腹に石をまいて出産を遅らせ、そのまま戦に赴いた」というものです)。
新しい(といっても、300年以上前ですが)神社ですので、由緒がしっかり残っているのが面白いですね。
そういえば、海が近いんでした。
「川子塚前方後円墳」、にばったり巡り会いました。
「本古墳は、阿字ケ浦海岸を眼下に見下ろす海岸段丘上面に立地する前方後円墳であり、現在那珂大地に残存する古墳の那珂でも最大級のものである。
墳丘の長さは約85m、後円部直径約40m、高さ8m、前方部幅約43m、高さ約9mと、前方部がやや大きな形態をしている。
内部主体部(埋葬施設)についての詳細は不明であるが、墳丘の西側に周溝(周堀)が良好に残存しており、墳丘表面には葺石があるほか、埴輪が確認されている。
古墳の形態や埴輪の特徴等から、築造年代は5世紀後半頃と考えられる。」
私の観察する位置が悪いのか、そんなものなのか、
近くで見ると小山にしか見えません。
どうも、古代史は好きなんですが、考古学や古墳に疎いもので、なかなか魅力をお伝えできませんが。
もうちょっと近くで見てみようかな、と思ったら……
……これが現実、というやつです。
次回は、「堀出神社」の由緒にも出てきました、今回の旅のメインイベント、「酒列磯前神社」です。